有名小説家の僕が彼女に振られた理由

楠木 終

『最初の』

 失意、欠落、という言葉が最も似合うだろうか。

「私たち別れよ?」

 という言葉に貫かれた僕は、ただ一人公園のベンチに座っていた。

 もう春だというのに、吹く風が冷たく痛い。

 淡く光る月をにらんでみてもなんにも帰ってきてはくれない。

 刺すような胸の痛みとともに、思い返す。


 そもそも、僕と彼女は割と長い関係にあったように思う。

 高校一年生のころに僕が図書館で本を読んでいた時が初めて出会った。

 彼女から僕に話しかけてきた。

「なんの本読んでるの?」

 僕は本を裏返して答えた。

 声についての本だったと思う。

「な、なんかすごいの読んでるね」

 彼女は驚いたような顔をした。

 多分、僕が何かの物語を読んでいるとでも思ったのだろう。

 僕はそうでもない、という思いを込めて首を横に振った。それでも、彼女は僕を褒め続けた。

 むずがゆくて、若干居心地が悪かったように思う。

 それが僕らの最初の会話だった。


 そして高校二年生の時。僕と彼女は同じクラスになった。

 授業中に紙を渡しあって話す。

『今日も図書館に行くの?』

『もちろん。なにかおススメある?』

 そんな感じのたわいもない会話。

 確か、この頃から小説家として活動を始めたのだった。

 そのことは彼女も知っていて、たまに家にやってくることがあった。

「どんなの書いてるのー?」

 軽い口調で、彼女は後ろからモニターを覗き込んだ。

 そんな彼女から香る良い匂いにいつもどぎまぎしていた自分がもはや懐かしいとさえ思える。

 彼女がうちに来た時は決まって後ろのほうで、本を読んでいた。それに対して自分はPCの前にいる。

 ただそれだけのなんでもない空間に僕は心地よさを覚えていたと思う。

 それが僕らの最初の共有だったように思える。


 高校三年生の時、ついに僕たちは付き合うことになった。

 その日は校舎の裏に呼び出されたのを覚えている。

 肩ほどまでしかない明るい茶髪が、日に照らされて輝いていたのは忘れられない記憶だ。

 胸の高鳴りを抑えることができずに、聞こえてしまうんじゃないか、なんて馬鹿な妄想もした気がする。

「私と付き合わない?」

 断れるはずもなかった。

 こうも一緒に過ごした相手に愛着を覚えるのは当然のこと。

 僕は顔を赤らめて頷くことしかできなかった。

 受験前だというのに何してるんだ、なんて思うが、僕も彼女も普段から勉強はちゃんとしていたし、そのままの調子で勉強をつづけた。

 落ちることはなく、二人で同じ大学に向かった。


 ポツリと雫が降る。

 だが、空には一切の雲がない。月も燦然と輝くようになっている。

 確かに土は水で濡れているのに。


 次に大学生は特筆するべきことはなく、過ごしたと思う。

 しいて言うなら、僕の小説がついに売れたことだろう。

 飛ぶように売れて、舞い上がったのを覚えている。

 重版がかかったと編集者から言われたときはおもわず頬を緩めてしまったのは記憶にも新しい。

「すごいじゃん、おめでとう!」

 なんて朗らかに言ってもらった。

 暖かい手に取られて、僕はそちらのほうが嬉しかった。


 そして、いまに至る。


 一体、何がダメだったのか。考えてみる。

 思い当たる節はある。


「あ、あの……大丈夫ですか?」

 唐突に声をかけられた。

 顔を上げると、そこには黒い髪を腰まで伸ばした少女がいた。

 失礼なことに、僕は彼女を脳裏に浮かべていた。

 その少女は彼女と真逆だった。

 彼女なら今の僕のように打ちひしがれた人間にでも快活に、物怖じせず、話しかけていただろう。

 目の前の少女は慌てている。

「えと、あの、涙……出てますよ?」

 少女はハンカチを取り出してそういった。

 でも、僕はそれを受け取らず、首を振って断った。

 ごしごしと袖で目元の水をぬぐい、ぎこちのない笑みを浮かべた。

 少女はきょとんとしている。

 申し訳ないが、僕はそのベンチから立ち上がり、少女を置き去りさせてもらった。


 コツコツと一人寂しい足音が夜闇の中に鳴る。

 またしても記憶の中に戻りたくなるが、無理矢理押しとどめて、ポケットからスマホを取り出す。

 今の気持ちを忘れないように書き綴る。


 今にも泣き叫びたい。

 だが、出るのは嗚咽。

 必死に手だけを動かす。

 スマホの画面が涙で見えなくなるが、記憶にあるキーボードに文字を叩き込み続ける。


『ぐちゃぐちゃで困惑した思いでいっぱいだ。今まで許されていたのに、急に裏切るなんてひどいじゃないか。いや、違う、そうではない。結局のところ自分が悪いのだ。克服できなかった。進化することができなかった。そこに自分以外の悪は存在しない。

 悪いのは自分なのだ。

 だが、こうも泣きたいときに、泣けないというのはあまりにつらい。




 失声症とはこうもつらいものだったのか』



 そもそも、小説を書き始めたのは、これが原因だった。

 声を失って、それでも、何かを伝えたくて。

 小説という世界は恐ろしく広大だった。

 言葉遣い一つだけで数多の世界を想像させ、それに浸らせる。

 憧れた。というのがもっともだろう。

 だが、僕は小説が書けるということに満足してしまった。

 言葉が話せるようになった訳じゃない。ただ彼女が自分の感情をくみ取るのがうまかっただけだ。

 それに甘んじて、彼女と『会話』をした気になって。

 自分は、自分こそは言葉の重要性を知っていたはずだ。どれほど、どれほど表情から理解できようと、それを補足し、鮮明に伝えるための言葉の持つ力を。

 しかも、僕は声を出せないことをコンプレックスに思って、彼女と対等にないと思い込んで、一度も僕から触れられなかったか。

 たった一度。

 たった一度でも。

 僕が彼女に触れることができたら、僕から話すことができたら。

 何かが変わっていただろうか。


 後悔の海に沈む。

 韜晦などに意味はない。

 己の言葉を読むのはどうせ己だ。嘯いて、逃げたって、どうせみじめになるのは己だ。

 辛い。辛い。


 でも、これも小説の糧。

 二度と彼女などできようもない自分にとってはあまりに幸せすぎるあの期間を忘れぬために、綴った。

 いくつも、いくつも綴っていた。

 それを帰って見返して。

 また新たな作品を作れば、それで。それで。


 この失恋にも意味があったと言えるだろう。


「あ、あのっ!」



 後ろから誰かを呼ぶ女の声がした。

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