魔法が解けるその前に

やらずの

魔法が解けるその前に - 1

 もし今この瞬間が人生の最高潮だと、わずかな疑いもなく思うことができたなら、私たちは流れていく時間の残酷さに対して、一体どんな抵抗ができるのだろう――。


   †


 青と黄色のストライプのネクタイを下品にならないよう適度に緩め、第二ボタンまで開けたブラウスからはほんのりと赤を帯びさせたデコルテと小ぶりな十字架の金色のネックレスを覗かせる。チェックのプリーツスカートは三回巻いて、足元には平成っぽさが可愛いルーズソックスを履く。限定カラーのM.A.C.のリップのおかげで桜色のゼリーみたいに潤った唇は控えめに言っても可愛すぎてテンションが上がる。目元は作り込みが大事だ。命を懸けている涙袋に丁寧にラインを描いて、目の周りにはブラウンベースのアイシャドウ。目尻と瞼にはラメ入りのアイシャドウを重ねて、たれ目見えするようにアイラインを引く。もちろんビューラーとマスカラでまつ毛を強くするのも忘れない。低い鼻にしっかりとシェーディングをすれば、コンプレックスの童顔も少しは大人っぽい雰囲気になる。シースルーの前髪を髪の毛一本単位で整えて、右手にペールピンクのシュシュをつければまあまあ完璧。それから最終チェックと言わんばかり、大きな姿見の前に並んで写真を何枚か撮って、三階階段横の女子トイレを後にする。

 廊下には朝特有の、粘りけのあるような気怠い空気が漂っているけれど、まあそれもそのはず。九月末だというのにまだまだ暑いし、文化祭は先週に終わった。初日は学ランにさらしを巻いて、二日目はドレスとティアラでお姫様気分を味わった。撮った千枚近い写真から選りすぐられたお気に入りのいくつかはもうインスタに上がり、思い出のきらびやかさはいいねの数で可視化された。とどめに代休のディズニーまで満喫した私たちもさすがにちょっとお疲れモードだ。

 そんな気分だったからだろう。教室に戻ろうと踵のつぶれた落書きだらけの上履きできゅっきゅっと廊下を擦って歩いていると、ふと溜息が漏れる。

「文化祭終わっちゃったなぁ」

「ね。終わったね」

 隣りでさらさらストレートの黒髪を結んでいたけいが顔を上げる。切れ長なのにくっきりした二重瞼に深い黒の瞳。赤っぽくも青っぽくもある透き通るように白い肌も、すっと通る綺麗としか言いようのない鼻筋も、ゴムをくわえている形の整った薄い唇も、どれも私の憧れるパーツそのものだ。

「もう卒業まであっという間じゃん。無理―」

「ほんと。制服着れなくなるとかしんどい」

 冗談めかすように嘆いた私への慶の返事が思いのほか本気のトーンで、私は目を丸くした。それから慶はいたずらっぽく微笑んで、三歩前に出てくるりと身を翻す。腰が高くてすらりと伸びる手足はいかにも骨格ストレートという感じで羨ましい。プリーツスカートがふわりと揺れて、ディオールの香水が優しく香った。

「ねえ、もし今死んだらさ、うちらってずっとこのままでいられると思う?」

 ゾッとするような、凛と済んだ慶の声が響く。廊下に響く喧騒も窓越しに漏れる遅れた蝉の鳴き声も、全部が遠退いていった。まるで私と慶の周りだけ、氷のヴェールで覆い隠されてしまったみたいに空気が冷えた。気がした。

「北のほうにね、自殺できる街があるんだって。知ってる?」

「慶、死ぬの?」

 間抜けなことに、私は質問に質問で返してしまう。慶はスタバでメニューを悩んでいるみたいな調子で「考え中」と言った。

 慶の言う「自殺できる街」についてはもちろん知っている。というか一瞬でもニュースや新聞を目にしたことがある人なら、たぶんだいたい誰でも知っている。

 自殺特区。遠い北にあるそこはそう呼ばれている。本当はもっと難しくて長い名前がつけられていたけれど、随分とセンセーショナルなその呼び名は街の特徴をよく表している。つまるところその街は、国内で唯一、一八歳以上の成人に対しての自殺を認めた場所ってわけ。まるで選挙とか自動車の免許みたいに、人は自分の命を自分でどうこうしてもいいよってことになったってこと。

 具体的にどんな感じかというと、私だってラインニュースでちょっと読んだ程度で詳しくはないけれど、自殺を希望する場合は役所に何枚かの書類を提出するらしい。もしその書類が審査に通れば自分宛てに死ぬための薬が届いて、それを飲んでぐっすり眠っているうちに死ねる、というなんともお手軽な具合で、幇助員というボランティアの人たちが看取ってくれる手厚いおまけつきだ。

 とにもかくにも自殺特区では自殺が認められた。けどだからといって自殺者が爆発的に増えたりしたわけじゃない。偉い人曰く、自殺特区は終末権という最近になって声高に叫ばれるようになった権利の保障であり、人は今一度生きることと死ぬことに向き合う必要があって、特区はそのための契機なんだとかなんとか。私は難しいことは分からないし興味もそんなにないけれど、その偉い人が言わんとしていることはなんとなく分かる。苦しかったり、もうだめだと思ったとき、逃げ出してもいいんだよと言われているというのはなんだか落ち着く。安心できる。たぶん自殺特区が果たしている役割というのは悩ましい人たちの心の支えみたいなところなんだろう。

 今のところ、自殺特区はそういう立ち位置でなんとか社会に受け入れられている。けれどもちろん何も問題がないわけじゃない。その一つがまさしくたった今、慶のかたちのいい唇から飛び出したこと。

 自殺特区での自殺にはいくつもの手続きや審査やルールがあるし、看取りと言えば優しいけれど、幇助員の監視が必要で、方法も届けられる薬だけが認められている。そもそも住民票が自殺特区内にある人でないと自殺したいと届け出ることすらできなかったはずだ。

 だけど本当に死にたい人からすればそんなものは関係ない。自殺特区ができる前から自殺する人は大勢いて、そういう死にたいと本気で考える人からすれば自殺特区は体のいいお墨付き程度の意味しか持たなくて、死にたい人たちが人生最後の許しを求めて街の外から自殺特区にやってきては満足げに死んでいく。そういう流行りみたいなのが、たびたび問題になっている。

 安易に死ぬのはよくない。安易に死ぬなんて言うのもよくない。だけど言いたくなる慶の気持ちもなんとなく分かる。

 だって私たちはあと半年もすれば、JKという無敵の鎧を脱がなくてはいけない。キラキラしたものばかりを集めた宝箱みたいな青春は終わりを告げて、私たちは社会のなかで〝大人〟になることを強いられる。時間の流れというやつはどうしようもなく残酷で、私たちの大切な日常を褪せた思い出に変えてしまう。

 だけど私たちにはたった一つだけ、その残酷さに抗うことのできる手段がある。

 それが死ぬこと。自らの手で命を絶ち、未来へと流れていく時間を止めること。

 遠い北の街の話とはいえ自殺特区の設立で少なからず身近になった自殺は、慶と私に無敵でい続けるための選択肢をくれていた。

「ね、千明ちあき。三月になったらさ、免許取って自殺特区に行ってみよ」

「自殺特区」

「そ。自殺特区。卒業旅行的な感じで」

 慶はまるで自分に念を押すみたいに頷いて言った。私は慶の大きな黒目をじっと見返した。仮に慶の瞳がブラックホールだったとして、慶のなら吸い込まれても悪くないかなとか、そんなことを考えた。

 それにたぶん慶だって本気で死にたいわけじゃない。慶も私も大学とか専門学校への進学が決まっていたし、進学を決めたってことはそれなりにこの先を考えているってことで、たとえば自殺特区で申請を出す人たちにみたいにこれから先一秒だって生きていられないと思い詰めるような悩みや問題を抱えているわけじゃない。そもそも本気で死ぬつもりだったら自殺特区じゃなくたって死ねる。極端な話、今すぐ窓を開けて飛び降りれば落ち方次第ではちゃんと死んでしまえる。

 つまるところ不安なんだ。もうすぐやってくる魔法の時間の終わりを前に、それを手放しには受け入れられなくて、その先に見える延々と続く人生の全てがどうしようもなく不確かで危ういものに思えてしまって、慶はきっとそういう嫌な感じとか足が竦むような気分を紛らわしたいだけなのだ。

 もちろんそういうのは私にだってある。できればこのままでいたい。卒業なんてまっぴらごめんだ。スカートを三回折って、ルーズソックスを履いて、涙袋に命を懸けて、いつまでだって制服を着ていたい。最大の関心事は崩れない前髪で、心配することなんて何もない。スタバの新作を心待ちにして、プリクラを撮って、有頂天に最高で最強なこの瞬間を永遠に過ごしていたい。

 だから私は慶の提案をすんなりと受け入れる。別に本当に死ぬわけじゃない。魔法が解けるその前に、ちょっとした最後の冒険をしてみるだけだ。

「いいよ。行こう」

 私が言うと、慶は深く息を吐いた。それからかたちのいい唇を柔らかに吊り上げて、照れくさそうに髪を耳にかけていた。

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