第35話

「……まさか、生きたままのキミをもう一度見ることになるとはね」

 マンホールから飛び出すセブンスに女は目を細める。

(ゴルディは……考えるだけムダか)

 唯一信頼する部下が死んだという事実に、女は自分でも驚くほどに落ち着いていた。

 自分を狙う殺し屋からの視線を見返しながら女はくつくつと笑う。

(パトロン、私兵、頼れる部下、そして過去―――今日一日でずいぶんとたくさんのものを失ったものだ)

 それでも女は笑う。

 この状況で、彼女の熱は昂っていく。

「魔王を目指そうともなると、やはり道のりは険しいね」

 手札を失い、今ここにあるのはおのれの身ひとつ。

「けれど、だからボクは一から始められるのかもしれない―――物から人間となり、勝者の名(ヴィクトリア)を名乗り始めたあのときのように」

 彼女はいま、以前より確実に足元を踏みしめていられるような気がしていた。


 ―――そんな女の感慨も言葉も特に意に介すことなく。

 セブンスは、シロの頭をなでながら考えていた。

(さて。この魔法をどうすべきか)

 紛れもなく自分にとって天敵とでも呼べる魔法のひとつだ。どれだけの速度で短剣を投げつけようと効果はないが、かと言って近接でどうにかなるとも思えない。

(なにか通過できるものを探すか、風化しても関係ないくらいの物量で圧殺するか……)


「―――ところでキミは、魔臓を見たことがあるかい」

 セブンスの思考をよそに、女は言葉を投げかける。

 しかしそこに他人の返答は必要とされていない。セブンスを見つめる視線が揺れて、彼女の瞳には数えきれないほどの幻想が輝いていた。

「魔臓は、人間の最も、っ……美しい場所だ。人によってその色も輝きも形もなにもかもが違う。その人間の美しさとはすなわち魔臓の美しさだ。肉体とは魔臓を着飾る衣に過ぎない」

 記憶に刻まれた美しさを追憶する、その狂悦が身体を震わせる。

 そうして女の視線が今を見つめた。

「このさい前戯は抜きに藍(あい)することにするよ。少々乱暴だけれど―――たまにはそういった趣向も悪くない」

 女が名残惜し気に言うと同時に、ずぉっ、と藍色の触手がいきり立った。その先端がセブンスをギロリと狙いすまし、女は恍惚の笑みを浮かべながら自分の身体を抱きしめる。

「そして退廃しきった塵のなかで―――骸(ハダカ)になったキミを抱こう」

 次の瞬間、藍色の触手が高速でセブンスへと襲いかかる。それをかいくぐりながら短剣を投擲するが、やはり藍色に呑まれたとたんに消失してしまい女までは届かない。

「無駄だよ。ボクの『退廃なる藍(ラストブルー)』にキミの短剣は刃が立たないさ」

 あざ笑う女の言葉通りに、セブンスが何本の短剣をどれだけの速度で投げつけようとも女を囲む藍色に阻まれた。

 その間にも藍色の触手は自由自在に動き回り、それどころか変形したり分裂したりと弄ぶようにセブンスを襲っている。それを避けるたびに建物の壁や足元が風化し、塵のように巻き上がっては彼女の視界を埋め尽くしていった。

「いつまでもつかな」

 塵の向こうから女の楽しげな声が届く。

 そのとたんに藍色のドームが膨張し、セブンスはとっさに距離をとった。

「こんな趣向はどうだい」

 藍色が縮小し、かと思えば今度はその周囲に霧のようなものをまとう。

 それが極めて細やかな藍色の糸の集合体であると気がついた瞬間に、解き放たれた藍糸がセブンスへと襲い掛かる。細かくそして数が多すぎる藍色の糸はセブンスの反射神経をもってしても完全に回避することはできず、掠めるたびに脆弱となった皮膚が破れて鮮血が散る。

(このままだとジリ貧か)

 回避するうちにアパートの残骸に追い込まれたセブンスはふと足元に視線をやる。

(私の短剣は最大でも丸一日しかもたない。もっと長いものなら……いや、レンガとかも一瞬で塵にしてるっていうことは長持ちするだけじゃどうにもならないのか)

 そう思いつつも、セブンスはなにか試してみようと視線を巡らし。


 ―――既視感が、あった。


 自分はいくつもそれを試してみた気がした。

 木片、レンガ、コンクリート片、パイプ、鉄の塊、ドアノブ、花瓶、額縁、カーペット、紙くず、錆びたナイフ―――

 

 それらはすべて無駄で。


 そしてセブンスは、ガラス片を投げた。

(ああ、これは本当のことだ)

 投げてから、アパートでの戦闘中、自分が突き破った後から崩壊が始まるまで、一度もガラスの割れる音を聞いていないのだと思い出した。経年劣化でひび割れたガラスが、朽ちさせる魔法を浴びながら。

(ガラスには、効果ないんだ)

 納得とともにそれは藍色を      (すきとおって)女の首へと突き刺さり、黒い塵のようなものがドームから舞っていく。


 藍色が消え―――首を抑えながら女が倒れ伏した。

 いまなおだくだくと溢れる鮮血が路地を浸していく。


「、っ、゛ 、」

 女がなにかを言おうとした。

 けれどこれまでと同じようにセブンスは耳を貸さなかった。

 女の来歴も野心も過去も縁も―――けっきょく彼女の耳には入っていない。

 そもそも彼女たちはセブンスの世界には一度も存在していない。


 愛する人が望むから殺してきた。

 愛する人を脅(おびや)かすから殺すことにした。

 愛する人をさらったから殺した。


(こんな、ボクは、あっさりと……?)

 失意も悲しみも抱けず、困惑を最後に女は死んだ。

 思惑も過去も未来も、身もふたもない最期だった。

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