夢の続き

服部零

プロローグ/夢の中

 佐野悠斗は水中の底へと沈む。ただそれだけの夢を見た。




 そこが浅瀬なのか、はたまた『海の千尋の箇所』というような括りの通り、浅瀬も遠い海の底なのか、僕には見当もつかなかった。

 地上との距離の差が増すにつれて、時間の感覚は薄れて行き、水中に落ちてから、更にどの程度沈んだのかも、危うくなる、到頭それが不確かになった時、途方に暮れるような手のつけられない状況が訪れた。途方に暮れたどうしようもない感情が僕を襲った。


 それから何時間、永年、過ぎたように感じた。

 僕は未だに水中を彷徨っている。ゆっくりと。

 生命活動は停止していないけれど、途方もないくらい遠い場所に向かっている。

 起き上がろうとしても体が動かない。意思と反対に体が動かない。動け動けと願ってる内に、もしかしたら、自分自身、動きたいと願っていないのかもしれない。なんて思うようになっていた。

「けど夢ならいい」

 その一言が引き金になった。

 僕は海を泳ぐ魚じゃない。それが夢に至る理由。

 これは所謂、明晰夢なのだから。

 ただ、ぷかぷかと、自分が水に浮かんでいる音だけが聞こえる。その浮遊感の中だから焦燥といった感情が薄まって、あまりにも水中で揺れる感覚が心地良いので、ただに安楽などと言った、思考にならないような感情が浮き彫りになる

 ...所詮しょせん、レム睡眠の中だからだろうか。そう言った考えを、置き去りにするほど、海に沈み落とすように、切り捨てるほど心地よくなって行く。


『僕は本当に浮かんでるんだ』ー『浮かんでいるだけのもの』と認識し始めて、いつの間にか恐怖心といった感情が薄れ始め、興味本位で目をゆっくりと開けた。


 目を開いた瞬間、流れ込む情景は綺麗だった。 

 淡い浅葱色の光が海底の中を煌めいている。

 僕を囲うように全てが輝いている。

 それが、まるで初めて見た世界のようだから。僕はただ漠然ばくぜんと魅入る。

 先までの僕がこの世界を知っているなら、静かに輝く水槽プラネタリウムの箱の中で、永遠に眠りたいとも思ってしまう。淡い色彩を通り抜けると、次第に深い紺色に染まる、圧巻の情景が展開されていくことに思考を停止している。


 分からない。この水槽の中が、怖いか、楽しいかなんて。

「戻ろうか。戻りたい。戻れるのか」

 けれど、それら全て、考える間も無く、誰かの華奢な腕が、僕の手を掴んだ。鏡の裏側には別世界があるみたいに、水面を通り越して僕の手を掴んでいた。

 距離の概念が崩壊を迎えていた。

 水の音が弾けた音。

 浅葱色を纏った、色素の薄い髪が揺れている。

 僕の手をまだ華奢な腕が掴んでいる。

「君は一体?」声を発したら、水泡が浮かぶ。

 泡沫の水泡が海面に上昇して行く。

 少し経てば、視界から全て消えて行った。


 四角形の小さな時計が棚の上に置いてある。それに気づいたのは、アラームの音が今鳴った時だ。手当たり次第に置き時計を探して、時計の脳天を目掛けてパチンと叩く。

「なんだ。夢だったのか」目覚めると僕は、やっぱり、何気ない日常の中に居た。


「おい悠斗」

「え?」

 教室の椅子に腰掛けてる。目前には机越しに親友の石田栞菜いしだ かんながこちらに向かって、呼びかけをしていた。

「悪りぃ。何も聞いてなかった」

「お前って、そうゆうところあるよな」

 気付いたら朝方のホームルームが終わって、次の教科に移るまでのちょっとした、休憩時間になっていた。

 石田がもう一人、学ランを着た生徒の方を向いた。

「真白、もう一回聞かせて」

「...?」

 中性的顔立ちの男子生徒が目をぱちくりさせると、柔らかい髪がフワフワと揺れる。

「えーと」

 真白希ましろのぞみだ。

 女みたいな声と見た目だけど、真白が男子生徒であるのは、揺るぎない真実だ。その証拠に学ランを着ている。

「どうした?悠人。僕の顔なんか見ちゃったりして。可愛かった?」

 女みたいな顔してるけど、女みたいに舐めた口調であるけれど、エグいくらい学園に情報網を張り巡らしている。

 校内には、そんな真白に近づいて行き、誰かの弱みを握ろうと、企んだりする奴もいる。

 けれどそれは大抵、いつの間にか他でもない、真白に弱みを握られる。真白は直接的に公言しないが、それは紛れもない事実だ。

 弱みを握られたら、真白を煙たがって遠退く奴も居るし、そのまま真白の言いなりになる奴だって居る。校内の治安が乱れないのは真白が影ながらに、風紀を乱している奴の制裁を行なって、風紀の均衡バランス保っているから。

 つまり、真白希は学校の治安にとって、必要悪みたいなもので、僕と石田はそんな少し困ったような悪友を友達に持っていた。

「そうじゃない。真白の話してたコトってなんだよ?」

「真白サン。お願いしますよー」

 だから、嫌とかじゃなくて、尊敬という気持ちを少なからず僕は真白に対して、胸の内そっと抱いてた。

「...転校生が来るって噂」

「え?それで?」

「うん?それだけだよ」



 気付いたら海岸に居る。前の夢でみた感覚と同じだ。

「これはまた、夢なのだろうか」

 なら明晰夢。

 僕はそう気付けることを、ほんの少し誇らしげに思う。

 空が真っ赤に灼けているのは、景色が暗転していく予兆。相当な時間が経ったのか昨日の夢でも着ていた服は、皺くちゃにだけれど、ちゃんと乾いている。

「夢の続きを見ることって珍しい」

 そもそも夢なんてすぐ忘れるから、夢の続きを見ていたとしても、それが前に見たことのある夢の続きか、なんて分からないけれど。けれども前の明晰夢の内容ははっきりと覚えている。


 誰かの手を取って、終わった夢。

「捜してみようかな」

もしかしたら、その誰かが、海岸に居るかもしれない。そう思って僕は、足を動かしながら、海岸辺りを見回した。

「...やっぱり」

 それからクルクルと岸辺を回っていたら、偶然にも見つけた。

 昼と夜の狭間の景色を、ただ一人で見ている、岸壁の岩肌に三角座りで鎮座している、そのどこか儚げな少女は赤い夕焼けを見ていた。薄紅を帯びた銀髪が揺れる。少女が振り返ったからだ。

「助かって良かったね」

 沿岸の岩場に儚げな声が響いてる。

 僕はその声に胸が痛んだ。

「助けてくれた?」

「そうだよ。水中に顔を埋めてみたら、君が見えたから」

 少女に訊ねると、躊躇わずにそう答えた。

 それから、息をぐっと呑み込んで続けた。

「見えたから助けた」

 ありがとう。そう言った後、隣に座っていい?そう聞いてみたら、あっさりとオーケーをしてくれた。

 それからずっと、僕はその子と二人で夕焼けを見ていた。

「なんで、海にいる夢を見ているんだろう」

 何気に呟いてみたら「私は分かるよ」、とその子はこちらをチラリ見た。

 実はね。と少女は切り出す。

「私はもう永くないの」

「...もうすぐ死ぬんだ」

 細波の音が頭の中、大きく響いた気がした。僕はどんな表情をしていいのか、分からないけど、ただ地平線を真っ直ぐに見つめてみた。その子が、そのことに気付き、クスリ笑った。その姿がどうしてか、ひどく儚げだ。


 ひょいと、唐突にその子は岩場から立ち上がり、声を大きくした。

「だから、綺麗な物が見たかったんだ!」

 清々した声が聞こえてくる。

 それはその子が儚くて、その子が普通の人より弱ってる筈なのに。生命に満ち溢れた、逞しい声だった。

 右手を広げてみる。夢の中で掴んだ手の、柔らかいのに頑なである事を、今どうしてか思い出せた。

 地平線を見る彼女の目が夕焼けが発する色と混じって、燃えるように、白く輝いてる。

 彼女を見ていたら、僕の視界が急にぼやけて行く。

「この真っ赤な景色を。目に灼き憑けるくらい」

 最後。その声を聞いた後、ぼんやりとまたベッドから起きた。

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