『スパイの求人』
石燕の筆(影絵草子)
第1話
アパートの路地裏から今日も俺はあいつを見張る。如何にも怪しそうな立ち居振舞いだ。何を見てるんだろう。
(スパイ求む)
そんな妙な文字に踊らされて面接にやってきたアルバイト先。
(採用)
その一言でスパイになってしまった。
特に何もしていない。ただ、いくつかの質問に答えただけだ。
『質問一、用心深いほうか
質問二、口はかたいほうか』
それだけを聞かれた。
それで採用。
とにかくある人物にはりついていればいい。張り込みみたいで面白い。
あんパンと牛乳を持ってボロアパートを路地の影から見張るという昔の刑事ドラマの図が浮かんだ。
スパイをやるからには徹底的に。スパイに徹しよう」
そう意気込んだ。
その仕事はスパイというよりも見張りの仕事だった。
任されたのは前述したような安上がりのアパートに住む呉という男性だった。
呉は日がな1日部屋にいて、仕事や学校に出る気配がない。買い物にも行かないのか家から出ることさえない。
顔も見たこともないので正直どんな男かもわからない。ただ名前と男性ということしか知らされてはいない。
まあ見張るだけで数万入るのならおいしい話だと今日も一生懸命に見張る。
ふと背後にかすかに視線を感じた。
振り返り、見ると双眼鏡を持ってこちらを見ている怪しげな男がいる。
「覗きか悪趣味だな。このアパートに女でもいるのかな」
そう思って再びアパートの呉の部屋に視線を戻す。
眠そうになるのを堪えながら眠気覚ましの珈琲をちびちびと飲む。
さすがに冬だ。寒さは体にこたえる。
思わずコートの襟を立てる。
路地の影にうずくまる男を双眼鏡を手にした男はこんな時間にどうしたのかと不思議そうに見ていた。
ここで双眼鏡を持って待っていればいいというバイトだったんだが、何も見えない。ただ男が路地にいるだけだ。
その双眼鏡を手にした男のほうをじろじろと見てるもう一人の男がいた。
少し離れた場所にいた彼もまたこの場所で待っていればいい
見張れと言われて数万欲しさにバイトをしていた。
何が見えるのか。
双眼鏡を手にした男。
そして少し離れた場所にいる路地の影からアパートを見ている男。
二人の怪しい男がいるだけで他は何もない。
帰ってしまおうとも思ったが、仕事だ。やめる訳にはいかない。
電話が鳴る。
ぴろりろりという着信音の途中で通話ボタンを押すとバイト先の上司と名乗る男からで
「もういいですよ。十分面白いデータが取れました」
どういうことかを聞くとあの路地にいる男と双眼鏡の男二人もまたあなたと同じスパイだということを聞かされた。
そして一切その目的や理由などを知らせずただ見張るようにと言いました。
人が人を見張るという行為をお金目当てとはいえどこまで人は出来るのか。それを知りたかったに過ぎない。
そう男は言うと口座にお金を振り込んだと伝え電話を切った。
俺たちは互いに何かもわからない何かを見張っていた。
ただ、スパイをしていたつもりでスパイされていたのは俺たちのほうだった。
これはスパイというのか。
男は大金が入ったが、複雑な気持ちでその場を後にした。
『スパイの求人』 石燕の筆(影絵草子) @masingan
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