水底から一閃

入江弥彦

水底

 無機質な声が注意事項をアナウンスし、数秒後に座席が大きく上下に揺れた。


 息子が驚いたように息をつめて、孫は小さく悲鳴を上げた。ごうごうと水の音が響いて、窓の外は一気に暗くなる。揺れが収まると、窓の外が照明に映し出される。立ち上がった添乗員が、右手をご覧くださぁい、と甲高い声で私たちにアナウンスした。


 息子からの提案だった。八十歳のお祝いに故郷を見に行くのはどうか、と。私のためという建前で、私が費用を負担する、私以外のための旅行だ。


 うまく足が動かなければ、腰だって痛い。ゆったりとしか行動できない私を、荷物だと思っているに違いない。


 窓の外に目をやると、青く染まった新宿駅が目に入る。大きな線路に分断され、左右の建物には海藻が張り付いていた。主人と出会ったのも、あの駅だった。しわしわの手を窓につくと目の前を小さな魚が通りすぎていく。反対側から、孫の感嘆の声が聞こえたので、群れに突っ込んだのかもしれない。


 ぐんぐんと新宿駅に近付いていき、添乗員による説明が始まる。どれだけの人数が利用していたか、どれだけの本数の電車が走っていたか、どんな街だったのか。その言葉ひとつひとつに、記憶が鮮明に呼び起こされる。


 あの日、私は泣いていた。田舎から出てきて一人、仕事をなくし、友をなくし、宿をなくし、頼れるものはもう自分の体だけ。客をとろうと考え、そんなことをするくらいなら死んでしまおうと思った。



「死ななくて、よかった」



 そんなときに声をかけてきたのが彰仁さんだ。



「母さん、何か言ったか?」



 浩司が、不審そうに私の顔を覗き込む。返事がないと分かると、わざとらしく大きなため息を吐いて、孫に話題ふっていた。


 潜水艦は建物の間を縫うように進んでいく。


 ああ、そう。この道をまっすぐ行って左に曲がれば彰仁さんの家がある。もう少し、もう少し行けば。


 私の心を読んだように、それでいて意地悪を仕掛けるように、潜水艦は右に曲がった。



「ばあちゃん、泣いてる?」


「大丈夫だから気にするな」



 孫が不思議そうに問いかけてくる。返事をしようとすると、浩司がその言葉を遮った。それから、私の耳元に口を近づける。



「なあ、楽しい旅行なんだ。気を使わせないでくれ」



 わかるだろ? と私に念を押した。


 わからない、老人だからわからないよ。と、わがままを言えればどんなに良いことだろう。老い先短い私にそんな度胸はなく、ごめんねえともらした。


 電光掲示板やモニターが付くことはないが、ビルの上に設置されたパネルは、まだかすかに人の顔が見える。あそこに掲載されている電話番号にかけても、繋がることはないのだろう。


 速度を落とした潜水艦の周りを、何も考えていないかのように魚たちが泳ぎ回る。海水で視界が揺らぎ、見慣れたはずの街が遠い星のようにさえ感じる。


 もう朽ちているもの、まだ鮮明に残っているもの、その差が生じているのはつくりのせいだろうか。


 ふと、視界に入ったパネルの女性と目が合った。もう薄くなって、輪郭はわからない。何かを訴えるような、反抗するような瞳。


 窓越しにその顔をなぞると、赤い爪が目についた。驚いて自分の頬を触れば、ツンとしたハリを感じることができる。窓に映る自分を見ると、パネルと同じ瞳をしていた。


 そうだ、思い出した。


 あの写真は彰仁さんの最初の作品だ。最初で、最後の、私を撮った作品だ。



「彰仁さん、彰仁さん」



 彼を呼ぶ私の声までもが、若々しく、凛としている。



「母さん、静かにしろよ」


「彰仁さんが、私を撮るの」



 眩しい光とシャッターの音、彰仁さんの猫撫で声。優しい手つき、息遣い。それから、キミは自信を持っていい、と私を励ます言葉。


 どうして、こんなに大切なことを忘れていたのだろうか。



「母さんのためにみんなついてきたんだぞ!」


「私を理由にしないで!」


「まもなく新宿区を抜け、海上に浮上いたします」



 私が声を荒げると同時に、マイクを通した添乗員さんの声が響いた。


 いつの間にか、手にはシワが戻り、窓には老婆が映りこんでいる。いつの間にか私は、こんなに老いてしまったのだ。


 いくつになったって、私は、私だ。


 そんな簡単なことに気が付いた時、海洋生物のすみかとなったビルからフラッシュがたかれたような気がした。







 潜水艦を降りると、みんなが私に歩幅を合わせる。その優しさに気が付くと、孫が興奮気味に私の手を握った。



「新宿ってどんなところだったのっ?」



 その質問に答える前に、浩司が鼻を鳴らす。



「汚いところだったらしい。まともな人の行くところじゃない」



 いいえ。そんなことはない。


 口が上手く動かせず、ゆっくりしか話すことができない。けれども、私は力強く語り掛けた。



「綺麗な街だったわ。とっても」




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