第92話 修羅場じゃないか(歓喜)!
詰襟の学生服を着た緑色の瞳の男の子は最初俺にスペイン語に似ている言葉で話しかけてきた。おそらくは『質問がしたいのですが、よろしいですか?ボクの言葉は通じてますか?英語で話した方がいいでしょうか?』って言っているような気がする。俺は英語で返事をした。
「ああ、英語なら助かる。質問はなんだい?」
男の子は国語の古典文法のドリルを持っていた。
「古語の文法でよくわからないところがあります。活用形についてなのですが…」
「ああ、それはねぇ…」
俺は男の質問に丁寧に答えるために一度、綾城から身を放そうとした。だが綾城は俺の手をなぜか強く握って放そうとしなかった。不思議に思って綾城の顔を見る。唇を震わせて目を見開いている。その視線は緑色の瞳の少年に注がれている。
「おれの顔に何かついてますか?」
緑色の少年が綾城に向かって怪訝そうな顔で首を傾げていた。だが綾城は黙ったままだ。何かを恐れているようなそんな雰囲気に思える。綾城の様子がおかしい。俺は五十嵐を呼び寄せた。
「どうかしたの?」
「綾城の調子が悪いみたいなんだ。すまないけど、この子に勉強を教えてあげて」
五十嵐も綾城の顔色の悪さを見て納得してくれたのか頷いてくれた。
「いいよ。お姉さんが勉強を教えてあげる!」
「よろしくお願いします」
五十嵐は近くのテーブルに少年を連れて行ってくれた。俺は綾城の肩を撫でて問いかける。
「どうした?あの子となにかあったのか?酷い顔してるぞ」
綾城は両手で口元を押さえて震えていた。何かを堪えるかのような様子だ。
「…ごめんなさい。待って。今はまだ話したくないの。今はこのイベントに集中したいの。でもなんで。なんでなのぉ」
しゃがみこんで綾城は顔を両手で覆った。俺もしゃがみこんで綾城の背中を撫でる。
「わかった。今はいい。だけどまだイベントは終わってない。シャンとするんだ。ハッタリでもいい。俺がそばにいる。だから怖くない」
「ごめんなさい。常盤。本当にごめんなさい。情けない所見せてごめんねぇ…」
綾城はゆっくりと立ち上がった。それでも顔色は優れない。そして俺の腕をとって身を預けてくる。一人で立つのもやっとな様子に見える。これはイベントが終わるまでどこかに座って大人しくしていた方が良さそうだ。そう思って移動しようと思った時だ。
「あっ!」「エッ?」
少年に勉強を教えている五十嵐の傍に俺の知っている女がいた。それはスオウだった。いつもはガーリッシュだったり、ドレスだったりしてきらびやかな格好なのに、今日はジーンズの短パンにTシャツのラフなスタイルだった。五十嵐とスオウが互いに驚いたような顔を向けあっている。
「なンでお前がここにイる?まさかこのイベントは葉桐のボランティアか何かか?」
スオウは辺りを鋭い目つきで見回していた。逆に五十嵐はのほほんとしている。
「え?ちがうよー。お友達に誘われてボランティアしてるの。スオウはどうしてここに?」
「お前が教エてイるその子がワタシの弟だ。そろそろ終わる時間だから迎えに来た」
「え?まじ?あれ?この子が外国人ってことは、スオウって外国の人だったの?」
「ワタシが外国人だと気づイてイなかッたのか?!天然すぎるぞ!?顔と目の色を見ればわかるだろうに!」
やっぱり二人は現時点でも顔見知りのようだった。そういえば顔立ちでいうとスオウって大和撫子然とはしているけど、外国人っぽいっていえばそういう要素もある様に見えてくる。美人でさらに不思議な顔立ちしてるね。
「だってスオウって名前だし、日本人だと思ってたけど?」
「それは源氏名だ!…もうイイ。お前は天然だッた。ヒカルド。どウだッた?勉強はいっぱいできたか?」
スオウの弟はヒカルドというらしい。彼は静かに頷いた。
「そウか。それならよかッた」
スオウは満足げにヒカルドの頭を撫でる。
「いやぁ私いい先生やっちゃったなぁ。私のことも褒めてよスオウ」
「まア感謝はするよ。アりがとウ。ワタシたちみたいな者たちに無償で教育機会を与エてくれるのはとてもアりがたイ。主催者にできれば感謝ヲ言イたイ。どこにイる?」
「それならあそこにいるよ」
五十嵐は俺たちの方を指さす。スオウがこちらに視線を向けた。そして俺を見て戸惑いのような顔を見せる。
「カナタさん?!…え?うそ…なんで…」
そしてスオウは俺の隣にいる綾城に目を向けてひどく驚いた顔をしていた。そしてそれは綾城も同じだった。
「ヒメーナ?!」「エディレウザ?!」
互いに互いの名を呼び合う二人。スオウの本名はどうやらエディレウザというようだ。
「え?てか二人って知り合いなの?」
俺は隣にいた綾城にそう尋ねる。だけど綾城はただただ目を見開いたまま震えていた。逆にスオウはこちらにずんずんと近づいてきて、綾城の前に仁王立ちする。スオウは鋭い視線で綾城を睨んでいた。綾城はおろおろして目を下に向けてしまった。
「言ッたはずだ。ワタシに二度と近づくなと」
「ち、違うの!これはただの偶然よ!」
「偶然?!偶然だと!?くだらなイ嘘ヲつくな!」
スオウは怒鳴りはしなかったが、酷く冷たい声で綾城にそう吐き捨てた。
「偶然というならなぜここにワタシの知り合いが二人もいるんだ?!なぜ五十嵐がお前に協力している?!なぜお前がカナタの傍にいる?!」
「二人ともあたしの友人よ!むしろどういうこと?!エディレウザも二人と知り合いなの!?」
「お前に友人!?友人!はッ!わがまま放題のメンヘラお嬢様にお友達?どうせワタシの身辺ヲ調査してこの二人に近づイたンだろウ?白々しイ!」
「本当よ!あたしは知らなかった!あなたに会いたい気持ちはあったけど…今日ここに弟さんが来るとまでは思ってなかったわ…本当よ…」
「信じられるか!お前をどうして信じられる!?…ふン…なるほど。今日のイベントもそウか。お嬢様の気まぐれの施しか。そこにワタシたちがアリのようにたかってきてさぞかし楽しかっただろうな」
「そんなことを考えたことは一度もない!あたしは!あたしはぁ!!」
これはいけないと思った。二人はすごくヒートアップしてる。何かの確執はあるようだけど、今はとりあえず止めないと。そう思った時だった。俺の袖を五十嵐が引っ張ってきた。
「ねぇ常盤くん。スオウと知り合いなの?」
「え、ええ…ま、まあ」
「スオウってレンタル彼女じゃない。常盤くん。別に彼女をレンタルしなくても私ならいつでもデートしてもいいんだよ」
五十嵐はどこか気まずそうでありながら、俺のことをフォローしているような感じだった。
「やめろ!!俺をなんか痛い人を見るような眼で見るな!!ええい!もう!話が散らかりすぎ!!全員聞け!!」
俺がそういうと綾城と五十嵐とスオウは俺に目を向けてきた。
「ねぇ常盤!あなたエディレウザと知り合いなの?!どういうことなの?!ねぇ!!あたしよりもエディレウザに好かれてるの?!許せない!!」
「カナタ!!ヒメーナに近づいてはダメだ!この女はどウしようもなイ偽善者だ!上から目線でドヤるくせに困るとすぐにぴエンするくそ女だ!!」
「私なら割り勘するよ。スオウは全額負担なんだよ。私の方がよくないかな?」
三者ともお互いのことを悪く言いすぎなのでは?
「うるせぃ!いいから黙ってろ!俺が仕切る!!まず五十嵐!お前の主張は後でいくらでもきくからとりあえず静かにしてろ!問題はそっちの二人だ!!周りを見ろ!!」
周りの人たちは俺たちを怪訝そうな目で見ていた。そりゃ険悪なムードをまき散らしてればそうもなるよ。さすがに二人もどこか恥じるような顔を見せてくれた。これなら大人しくしてくれそうだ。
「で、二人はなに?知り合いなのはわかったしなにかあったことはわかったけど、会って速攻喧嘩はないんじゃない?」
二人とも納得がいかなそうな顔をしているが、俺は続ける。
「とにかく俺の前で騒ぐな。いいね?」
「わかったわ…」「わかッた」
俺は二人にそう
「ほぇ。綾城さんとスオウに言うこと聞かせられるってすごいねぇ」
五十嵐はのほほんとしている。この能天気さがうらやましい。
「なア、カナタ」
スオウはどことなく不安げな顔で俺に話しかけてきた。
「なにかな?」
「本当にヒメーナに頼まれてワタシに近づいたわけじゃないんだな?」
「それは違うよ。綾城は関係ない」
「そうか…ならいい…」
ほっとしたようにスオウは息を吐いて笑みを浮かべる。そして彼女は手櫛で髪の毛を整えてどこかモジモジするようにして言った。
「アの…これから弟とご飯を外食に行くンだがカナタもどうだろうか?プライベートを知られてしまったしヒカルドのことを紹介したい」
スオウに弟が一緒のお食事に誘われた。魅力的な誘いに思える。だけど。綾城が俯いて、俺の背中のシャツをぎゅっと握っているのを感じた。今の綾城を放っておくことはできない。
「いや。今日は遠慮しておくよ。ヒカルド君も知らない男といきなりの食事は緊張するだろう。姉弟だけで楽しんできな」
「…ア、アア。そウだな…。ではまた今度…」
残念そうな顔でスオウはヒカルドの手を握って、その場を後にした。部屋を出ていくときに俺にどこか気遣うような顔を向けながら会釈していったヒカルドの顔がとても印象に残ってしまった。そしてそれからすぐにイベントは終わった。結果そのものは成功だったし、役人さんの反応もよかったようだ。だけど綾城の顔だけは晴れなかった。
帰りの車の中の空気は最悪に等しかった。綾城はずっと暗い顔で俯いたままで、五十嵐がひたすら彼女に向かってあたり触りのない話をして頑張って励まそうとしていた。だけど凹んだ綾城はいつものように元気にはなってくれなかった。そして駒場キャンパスについて二人を下した。各人ここで解散というのが本日の予定だったが、綾城は後部座席に俯いたままどんよりした顔で座ったままだった。車の外に出た五十嵐と俺は綾城について話し合った。
「すまんけど、綾城をお家まで五十嵐が連れて行ってくれないか?こういう時は同性の方がいいと思うんだ」
「それもいいんだけど。私思うんだ。このまま常盤くんがどこかへ連れて行ってあげた方がいいんじゃないかな?」
「どこかってどこよ?」
「うーん。そう言われるとわかんないんだけど。今綾城さんを慰められるのって常盤くんだけだと思うの。実際車から降りたがってないし、どこかに連れていってあげてよ」
五十嵐は冗談ではなく真剣な様子でそう断言した。
「私もよく嫌なことがあるとどこか遠くに行きたくなるんだ。だけど女の子って一人でやっぱり遠くに行けないんだよね。常盤くんなら連れていけるよ。こういう時はきっと男の子が女の子をリードしなきゃいけないんだと思うよ。うん」
「そういうものか」
「そういうもんだよ。あっ。でも富士興ウルトラランドには行かないでね。あそこは私たちが行く予定なんだからね!」
「わかった。冨士興以外にするよ」
話し合いは終わり、五十嵐は駅に去っていった。最後に親指を立てて駅舎の中に入っていったのがなんか心強く見えた。そして俺は車の中に入った。綾城は黙ったままだった。だけどミラー越しに彼女の蒼い瞳と目が合った。潤んでいて悲しそうな瞳。綺麗だけど痛々しくて見ていられない。俺はキーを回してエンジンをかける。そして車は発信する。どこか遠くに二人で行くために。
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