君は何を恐れているんだ?

ピアノの音色が演奏者の心を揺らし、ピアノの演奏者の気持ちを演奏者が包んでいた。ただの空気が揺れたような振動ではない、確かな温もりを持っていて、 それはまるで、人の手が作り出す音のように、 ピアノの音色が、奏者の心の鼓動に合わせるかのように、その手を包み込むように優しく 。それは人の鼓動にも似ていた 。その音の波に揺られ その音に耳を傾ける、ピアノの弾き手にピアノの音は届かない、それは、音として伝わる、その、鼓動を、鼓動の熱さを感じる事は出来ない、それは音でしかないからだ。その、振動を肌で感じる事は出来る、だから耳朶は怯えていたのだ。だから耳を穿った。壁を穿ったのだ。

それは、鼓動、そのものだからだ。

その振動を感じれば鼓膜に響く振動を感じ取れる。

その、鼓動は生きている 音ではなく、音でもない、そこにある、鼓動が、その音が、その鼓動を響かせる、そこにある音そのものが。音のない世界に存在する唯一の音は音楽だけ。

音楽はその音によって世界を包む。その音に包まれるのであれば音のない世界にも存在する音が生まれるかもしれない、そして、それは、耳のある世界にも生まれるかもしれない。それが音なのだから。


「土浦。君は何を恐れているんだ?何故そんなに怖がる必要がある?壁のある世界の人間は壁に穴を明けるのを嫌がるが、穴を開けずに耳を抜く方法があるのかい?俺は知らない。君は壁をぶち壊せ、壁のない世界へ行こう」

耳の穴に息を吹きかけられたかのような、ゾッとする感覚が襲う。


黒柳が男と女の耳を引っ張り出していたのを目にして慌てて逃げ出したが、男は耳栓をしていたのだ。男も黒柳の行為を耳で確認していたようだ。黒柳が「壁に穴を穿ったら」というと男は黙り込んでしまった。

そして男が「あのピアノを買わないと、あのピアノを聴かないと俺が死ぬ」と呟いた。

黒柳はそれを耳にしてピアノを買い与えた。

「ところで、君が持っているそのジャム醤油の瓶についてだが…」


男は意味深なことを言った。「ん? 何だ。俺の商売道具がどうした?」


黒柳は気になってかばんを開け絶句した。「あっ…」


「そのジャム醤油の原材料はブロンズベリーだね?」男が追及した。


「あ…ああ。だが、これがどうした?まさか、お前、耳無しだったのか」


黒柳は恐る恐る訊ねると男は耳を覆っていた耳栓を外して答えた。


「ああ、そうだよ。だがね、俺はあのピアノに耳を奪われ、耳を失いつつあるんだよ」


「なんだって?」


「あの耳の無い街の住人達は耳を抜かれると、自分の意志に反して演奏しなくてはならなくなる。


そして、あの街にピアノを運び入れた。あの耳はもうじき消える」


黒柳が「耳を失った耳無しの街でピアノを鳴らすなんて、耳は大丈夫なのか?」と心配すると、


「ピアノを鳴らさないと死んでしまう」と泣き出し、そのあと、「でもピアノの音色は聴こえなくなった。ピアノを売らない限り耳は治らないだろう。だから早く耳抜きの店を探さなければ」と涙目になりながら訴えてきた。「耳を抜かないでくれ、あの音が聞こえないのは死んでいるのと同じ事だ」と懇願してきたのだ。


黒柳は、「だが俺にだって生活はある。聴診器や耳朶を退治しなければ秘密を守れない人達がいる。俺は彼らを助けて、日銭を稼いでいる。それにピアノの調律師に頼まれた仕事もこなさなくてはならないんだ」と言うと男は黒柳の襟元を掴み「助けてくれ。頼む」と頼み込み「この瓶は預からせて貰おう」と言う。「ああ」と返事をするが「これは君の商売の大切な商品だろう」と言う。「だが、今はそれよりも、この耳を、この音を取り戻さなければならないんだ。わかるだろ」と泣きつくが、耳を戻す手段など持ち合わせてはいないので諦めるよう告げた。


耳抜きをすれば、その瞬間耳は戻るらしいが「耳抜き」の方法は、黒柳の店で聞いた「壁に穴を開ける方法」のみだ。それをすれば、あの、音がない世界に行ってしまう、それだけは、それでは黒柳の秘密を守ることはできなくなる、黒柳の店に来る客を救えなくなってしまう、と、男が嘆いていた時「おーい」とピアノ屋が声をかけた。


「今さら何の用だ?」


黒柳がむっとする。


「そうむくれるな。いいものをあげよう」


ピアノ屋はジャムがたっぷり詰まった瓶を差し出した。


「これはソウルベリーじゃないか?! こんなパチモンがブロンズベリーの代替えになるものか!」


黒柳が瓶を叩き落とそうとした。すると男が泣きついた。「待ってくれ。ソウルベリーは熟せば立派に役立つんだ」


「そんなバカな話があるか」


黒柳は一蹴した。「お前が無知なだけだ。ソウルベリーは雷に打たれるとブロンズベリーになる」


土浦が反論した。


「な…んだと?」


黒柳が愕然とする。

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