第19話 暗炎の故郷へ②

 未明。暗い中ウィリアムは起き上がるとアビーの体をゆっくり揺する。

「ぬーん……」

「頑張って起きて」

「さすがに日が出ていないと眠いな……ふぁーあ」

 ウィリアムは起きたばかりのアビーの鎖骨をキツく吸い上げた。

「ん?」

「におい付けです」

「ん、そうか」

 アビーはその行為に恥ずかしがりもせず両腕を突き上げて伸びをする。それからうつ伏せのようになって背中を丸め、背中から腰の筋肉をほぐす。

「ふ」

思わず笑ってしまったウィリアムを見てアビーは「うん?」と眠そうな声を出した。

「いえ、猫のようだったので」

「あたしは竜だ」

「わかっていますよ」

 ウィリアムはアビーの肩にもキスを落とした。


 ウィリアムは旅のために上から下まで真っ黒と言う、傭兵時代に似た服を身にまとった。さらに口布をつけて鏡で確認すれば、ベルナールだった頃よりさらに肉付きのよい美丈夫が立っている。

(懐かしい)

 ウィリアムがその格好で玄関ホールへ向かうと、朝焼け前の寒さの中、義母ははローズが見送りのために出てきていた。

義母上ははうえ

「あらまあ懐かしい格好ですこと。昔オリヴァーあの子から聞いた通り」

「見送りはよいと申したではありませんか」

 ウィリアムが近くにあった己のコートを取ってローズを包み込むと、義母ははまぶしそうに息子を見上げる。

「あの頃は他人行儀だったわね。私は息子として引き取れと言われたらすぐにでもそうするつもりだったのよ?」

「あの頃に三十を越えた息子がいたらおかしいでしょう」

「きっと今と同じでしたよ」

 育ての母は幼い頃にそうしたように腕を伸ばしてウィリアムの頭を撫でる。

「いい子ね。すぐに帰ってくるんですよ。いいえ、息抜きにゆっくりしてきなさい」

「もー、心配性なんだから……」

 ウィリアムは年老いて痩せてきた義母ははを大切に抱きしめる。

「行ってきます義母上ははうえ。体に気をつけて」

「いってらっしゃい、私の可愛いビリー。あなたもよ、無理をしないこと」

 そこへ上の階にいたアビーがウォルトと共に降りてくる。

「ハンスはどうした?」

ったけど起きない」

ったんですか……」

「あれは水をかけないと起きないパターンだ」

「アビー、お出かけ前に夫の母とハグしてちょうだい」

「ん? わかった」

 アビーはローズの元へ向かうときゅっと彼女に抱きつく。

「息子をよろしくね」

「大丈夫だ、任せてくれ。母君も体を冷やさないようにな」


 ウィリアムは入れ替わるように二階へ上がり、ハンスが寝泊まりをした客室へと足を運んだ。ハンスは何とか起きようと頑張ってはみたようだが、完全に覚醒できておらずベッドの上からだらしなく上半身をはみ出させている。

「朝は苦手か」

「……こんな時間、本来ならまだ酒飲んでるっつうの……」

 傭兵などその日暮らしだ。いつの戦いで自分が命を落とすかわからない。だから彼らは金を稼いだらすぐに女を抱くか酒をたらふく飲んで、一日一日を充実させる。

「まあ、俺も宿を取れない日は何軒も酒場をまたいで朝まで繋いだな」

「……まるで傭兵だった口振りだな」

「傭兵ベルは知っているか?」

「んー……なんか酒場で会った爺さんが言ってたな……」

 喋っていたら頭が覚醒したのか、ハンスはのろのろと起き上がる。

「早く支度をしてこい」

「へーへー……」


 ローズは寒いから玄関まででいいと言った息子の背を見ながら、荷物を積み込む召し使いたちに頼んで彼女の両手に収まる小さな袋をウィリアムの荷物に加えさせた。

「ご本人にお渡ししなくてよろしいので?」

「いいのよ、サプライズだから」


 ローズは三頭の馬にまたがった四人にいつまでも手を振った。

 彼らの姿が道の先でうんと小さくなってもローズは外にいて、息子のコートを握りしめた。

「ああ、いつの間にかあんなに立派になってしまったのね……」

「奥様、お体を冷やしますから中へ」

「ええ、そうね」

 ローズはまぶしそうに、泣きそうに目を細めて邸内へと戻った。




 畑沿いの街道を南東へゆっくり進んでいたウィリアムは、後方にいた公爵令息ウォルトと元傭兵ハンスに振り返った。

「お二人とも、馬を降りてください」

「なんだ、もう休憩か?」

「まさか。何か話でしょう」

 ウォルトがさっと降り、ハンスは慣れない乗馬で苦労しながらやっと地面に足を下ろす。ウィリアムは慣れた様子でアビーが地面に降りるのを手伝った。

「ウォルト様、配置を変えたいのですが」

「ん?」

「お立場が上の公爵令息さまに護衛していただくのはさすがに気が引けて」

「え!? いや、ですが父上はそのようにと……!」

「ウォルト様を差し置いて私が要人のように振る舞うのはおかしいです」

「要人ですよ! 我が国の宰相殿です!」

 ハンスは二人が何で揉めているのかさっぱりわからずアビーの顔を見る。

「なんだって?」

「守る位置と守られる位置で相談している」

「ハァ?」

「こうしゃくれいそくと言うのは人間の群れの中で順位が上なのだろう。ビリーは本来こうしゃくれいそくを守る側なのだな」

物知り顔でうなずくアビーを見てハンスは内心ペッとツバを吐く。

つがいのことなら何でもわかりますってか? 面白くねえ……)

 ウィリアムも譲らずウォルトも譲らぬので、アビーは妥協案を出すべくウィリアムの袖を引く。

「? はい」

「ウォルトを一番前、ビリーがその後ろ、一番最後をハンスにするといい」

「ああ、いいですね」

「あたしもビリーの後ろに座り直す」

 アビーはそう言って背後に気を配った。一見、たどってきた道には誰もいない。

「誰かいます?」

「三人馬で来ている。その後ろに五人いる」

「何ですって!?」

「よくわかりましたね?」

「かなり遠いし、気配を消すのが上手い。三人のほうはともかく、五人のほうは慣れている」

「ふむ?」

「その、て、敵でしょうか? 味方?」

 ウォルトが不安そうにするとアビーはうーんと首をひねる。

「わからない。五人が三人を見張っている気もする。あたしたちの敵かはわからないけど、あいつら同士は仲間ではなさそう」

 ウィリアムは後方に気を配りつつ、ウォルトの肩をぽんと叩く。

「大丈夫です、堂々となさって。アビーの言う通りウォルト様を先頭にしましょう。アビーは私の前ですよ」

「どうして? 後ろを守ったほうがいい」

「背中は大丈夫です。君の母上にいただいた盾がありますし」

 ウィリアムは今回の旅のために懐かしい物品を持ち出していた。岩竜のウロコで出来た盾と二本の小剣。鍛治かじの神ゴブニュが鍛え上げた魔法の武具。

 アビーはウィリアムが荷物から取り出した盾を見て「ああ、だから母上の気配がしたのか」とうなずいた。

「持ってみたい」

「どうぞ」

 アビーは盾をのぼってきた日に透かす。薄緑色のような褐色のような色合いの薄い影が彼女の体に落ちる。

「母上は今なにをしているだろうか……」

「そう言えば、こちらに来ることはお母上には断ってきたのですよね?」

「うむ。見送りもしてもらった」

 アビーは母のウロコで出来た盾を抱きしめてからウィリアムへ手渡した。

「美しい盾にしてもらえて、母上も喜んでいると思う」

「そうですか」

ふわりと笑ったウィリアムを見て、アビーも微笑みを返した。

(面白くねえ……)

 ハンスは仲がいい二人を見てペッとその辺にツバを吐いた。




 一行は表街道の町を避けて農道や裏街道を使い、王都からずっと南の田舎町へとたどり着いた。馬に慣れていないハンスとアビーは腰が立たなくなっており、ハンスはウォルトに肩を担がれ、アビーはウィリアムが抱えて二階へと上がった。

 町人たちは畑しかないこの田舎に金を持っていそうなウォルトお坊ちゃんが来たので、飲み場でひそひそと顔を突き合わせた。

「男二人が護衛かねえ?」

「金持ちの小僧が護衛の肩担ぐかよ。見目は綺麗だけど蓮っ葉じゃねえのか?」

「そうだよ。金持ちが下働きに気なんか遣うもんか。真っ黒な男のほうが主人じゃないのか?」

「抱えられてた男が主人だろ?」

「ああ、遠乗りでバテたんだろうな」

 人々の噂話が落ち着いた頃、カラスのように全身真っ黒な大男が降りてくる。男はひそりとしたたたずまいでありながら、どこか気品があり人の目を引く。男はそのままカウンターを拭いている酒場宿の女主人の前へ立った。

女将おかみ

「なんだい」

「部屋で食事をりたい、持ってきてくれるか。それと若い娘がいたら呼びたい」

「ここはそう言う店じゃないよ! よそ行きな!」

「先走るな。の着付けをして欲しいだけだ。一人でいい、連れてこい」

「ふん、紛らわしい言い方しやがって。だったらあたしが行くよ」

 神秘的な雰囲気の男は店内で好き勝手に喋っていた町人たちをジロリとにらんでから、女将おかみを連れて階段をのぼっていった。

「……おっかねえ」

「左右で目の色違ったな」

「なんだって? 魔法使いか?」


 女将おかみとしては騒ぎを起こさず金をしっかり置いていけば上客だ。真っ黒な大男と共に個室へ入ると、二人ずつの小さな部屋の右側にそのはいた。

 ただし、お嬢様と称するには見事に手足を投げ出してベッドの上で潰れているので、彼女は肩透かしを食らった。

「疲れて着替える体力もないらしい。頼むぞ」

 大男はとなりにいる残りの二人の部屋に入っていった。

「ぬう……」

 赤褐色せきかっしょくの髪のお嬢様はのそりと顔を上げた。

「すまぬ、脱ぐのを手伝ってくれ……」

「あ、ああ。わかったよ」

 女将は借りたブラシでお嬢様の髪を入念にとかしてホコリを落とし、上質なネグリジェに袖を通すのを手伝った。

(まー、なんて滑らかなんだろうこの布。羨ましい。お嬢様ってのは本当みたいだね)

「出来ましたよ」

「ありがとう」

 お嬢様は女将の手にポンと銅貨を五枚握らせた。

(気前がいいじゃないか)

「ほかに、なンかお手伝い出来ることは?」

「食事が欲しい……空腹なんだ」

「ああ、はいはい。ただいま」


 女将が出ていったのを確認したウィリアムはすぐにアビーの部屋へ合流する。

「物を盗まれたりは?」

「ない。小遣いを握らせたら機嫌が良かった」

 アビーはベッドの上で膝立ちになると腰をトントンと叩く。

「あー、馬の上は疲れる」

「食事をしたらすぐ寝ますよ」

「わかってる。ビリー、さっき喋り方が違ったのはどうして?」

 ウィリアムは彼女のそばに腰掛けて声を落とした。

「威圧感を出したほうが平民はおっかながって近寄って来ないんですよ。特にこの辺は田舎ですし、余計な交流はしないほうがいいです」

「ふーん?」

 ウィリアムは寝巻きだけだったアビーに己のマントをかけてやる。アビーはつがいのニオイがするマントの裾を掴むと、スッといだ。

「燃えさしのニオイ」

「やはりニオイも違いますか、俺は」

「うん。いいニオイだ」

 自分がアビーに対して抱いた思いと同じことを彼女も思っている。

嬉しい。だけど鼻の奥がツンとして、横恋慕をしているハンスのこともよぎってしまいウィリアムの心に黒いモヤが立ちのぼる。

 彼は反射的にアビーの口を吸っていた。

「んぅ」

 アビーの細い喉から声が漏れる。閉じるのが間に合わなかった唇の隙間に舌をねじ込み、より深く吸う。

「ん、ふぅ……」

 ウィリアムがアビーの口の中を堪能たんのうして離れると、そこには目をとろんとさせた竜の娘がいた。

(竜も口の中は感じるのか)

「ビリー、今のなに……? 頭がふわふわする……」

ウィリアムの口元に勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。

「人間が己のつがいにするキスですよ。つがいとだけするんです。俺以外としちゃダメですからね」

「ん、わかった……」

 アビーが物欲しそうに見つめるので、ウィリアムは女将が食事を持ってくるまでの間、彼女の口の中をたっぷり可愛がった。


 アビーは自らつがいの寝床に入ってくるが下心はない。人間の体での快楽を教えたら初めてのようだった。

(つまり、人に変身してはいるものの見た目通り成人はしていない。まだ子どもだ)

ウィリアムは彼女が実年齢で何歳なのか知らない。竜が何年で成年と見なされるのかすら知らない。

(彼女の母上に話が聞ければいいが……)

新居ができたら結婚式と決めてしまったが、やはり性急だったのではないだろうか。ウィリアムはとなりで眠るアビーの顔を見ながらふぅと溜め息をつく。

(何にしても少女に手を出したことには変わりない。低俗だ)

 冷静にはそう思いながら、己の跡をつけてしまいたい気持ちもはやる。

 ウィリアムは逡巡しゅんじゅんして、アビーが寝返りを打ったのをきっかけに彼女の胸元に顔を寄せた。少女の鎖骨の下をきつく吸えば、赤い跡が小さく残る。

(今はこれだけ)

百年も二百年も生きる竜たちを置いていくのは己のほうなのに、今は早く時間が過ぎてしまえばいいのにと思う。

(早く俺のものにならないかな)

 自らの欲の前に何かと理由をつけてしまうウィリアムは、自身の変化に気付かないほどアビーにのめり込んでいた。

 早く新居が建てばいいのにと思う気持ちと、この夜がずっと続けばいいのにという相反する想いを抱きながら、ウィリアムは意識を闇へ手放した。

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