第12話 竜の娘と貴族社会 後編
伯爵邸へ帰ってきたその日の晩。ウィリアムが久しぶりに自室へ戻りゆっくり寝巻きに着替えているとふいに扉が叩かれた。
「はい」
義母が何か用事を思い出したか、城からフランクが戻ってきたのだろうか? と思いながら扉を開けると、そこには寝巻き姿のアビーがぽんと立っていた。
「なっ!」
ウィリアムは目を見張った。寝巻きはローズが貸したのだろう、彼女は伯爵邸に来るまでろくに服らしい服を着ずにいたのだから。だが、それが刺繍をふんだんに使われ、肌が見えるような薄い生地とあれば動揺せざるを得ない。
「なん、何ですかその格好は!?」
「母君が貸してくれた。あと、肌の色も人間にしなさいって。どう?」
先ほどまでアビーは岩の竜だとわかりやすい彫刻のような灰色の肌をしていた。それがさらに人間に容姿を似せれば、もはや彼女が竜だと一目で見抜くのは無理だ。ウィリアムの前にいるのは、十六歳くらいの凛々しい瞳の少女だった。
これまでアビーとの添い寝に抵抗がなかったのは彼女が竜の子供だと思っていたから。その建前が崩れた瞬間、ウィリアムは己の中の雄が強く反応したのを感じ取ってすぐさま視線を逸らした。
「ビリー?」
「厚着をしてください! と言うかこんな時間に訪ねてこないで!」
「何故? 今日も一緒に寝るだろう?」
「寝ません!」
振り向いたウィリアムが強く拒否するとアビーは一瞬悲しそうに眉を動かした。
「……どうして?」
「こ、これまでは看病を前提に許していましたが、そもそも婚約前の男女が同じベッドで眠ることははしたないのです!」
「はしたない? はしたなくない。ビリーとあたしは
「だ、ダメです! とにかくダメですから……!」
ウィリアムはアビーに後ろを向かせると扉を閉めた。
「ビリー、なんで?」
扉の前にいるアビーは悲しそうに声を揺らす。ほだされそうになり、ウィリアムは己の手の甲に爪を立てて理性を働かせた。
「……今日は私の
アビーはウィリアムの拒絶が解かれることはないと悟ったのか、しばらくすると諦めて廊下を戻っていった。
(び、びっくりした……)
ウィリアムはへろへろと扉の前で腰を抜かした。
(相手は子供相手は子供、相手は子供)
彼は頭を強く横に振って理性を働かせる。
(竜と暗炎の子!? そんな子供生まれてきたら人間社会になんて置いておけない! あ、俺がアビーと一緒に山へ帰ればいいのか……。じゃなくて! 俺はまだ宰相なんだし! 爵位も地位も一時的なものだからいずれ政務から去るとしても! 伯爵家の跡取りはフランクなんだからあいつも母上も俺に遠慮なんてしなくていいのに……じゃない! 婚前交渉を一瞬でも考えた自分が恥ずかしい! ああもう!)
頭を抱えていたウィリアムはハァと大きく息を吐いた。
「……ダメだ、疲れた。もう寝よう……」
ウィリアムは何とか寝床に入ったものの眠気は来ず、収まらない高ぶりを誤魔化すため一人で
ウィリアムは
「うわ、酷い顔……」
血色もよくなく顔は白い。ウィリアムは己の頬を強く叩いて赤みを出すと気楽な服を着て食堂へと向かった。
「おはようございます、
努めて冷静に朝の挨拶をするも、義母ローズからは冷ややかな目が向けられた。
「おはようございます、ウィリアム」
すでにローズの隣に座っているアビーは昨晩のように人の肌色で、義母のお下がりのドレスを着ていた。
「……おはようございますアビー」
ローズの視線を受けたアビーは椅子から立ち上がると、スカートの
「おはようございますウィリアム卿」
彼女は貴族子女がするような所作を一回で覚えたらしい。ウィリアムは余計に
(まるで本当に妻になるために努力しているみたいじゃないか)
「……食事をしましょうか」
ウィリアムは余計な考え事をしないように朝食を黙々と詰め込んだ。
目の前ではアビーがローズから食事の作法を教わっている。スープをガバガバ飲まないようにスプーンを使うのが難しいようで、ドレスを汚さないようにかけられたエプロンには染みが転々と広がっている。
ウィリアムが思わずアビーの手元を見つめていると、アビーは何故か嬉しそうにニッと笑う。
「安心して、スプーンもすぐに覚える!」
「え、ああ。そ、そうですね……頑張ってください……」
「ふふん」
アビーは得意げに胸を張るとスープを飲むことに集中した。
ウィリアムは食後すぐ
ローズは手にしていた扇子で義子ウィリアムの頬を叩く。前伯爵夫人は穏やかな人物だ。ウィリアムがまだベルナールの頃、人から叩かれて育ったことも知っていて滅多にこんなことはしない。だからこれはよっぽどのことなのだ、とウィリアムは腹を
「勇気を出して
「
ウィリアムは今一度結婚する気はないと口にする。
「暗炎の一族への差別はなくなった訳ではありません! 自分の子供にそんな思いをさせるくらいなら家族なんて作らないほうがマシです!」
「まあ! なんてことを言うの!」
「とにかくこればかりは
裁縫部屋らしからぬ喧嘩の声を耳にしたアビーはそうっと扉の前へ近寄る。
「俺は結婚なんてしませんから!」
「ビリー!」
言い放って逃げてしまおうとウィリアムが扉を開けると目を丸くしたアビーがそこにいた。
ウィリアムは顔をくしゃっと
ビリーが悲痛な顔をしていた。そんなに伴侶を取るのが嫌なのか、とアビーは去っていく大きな背中を
「アビー」
「ごめんなさいね。あの子、事情が複雑で……」
「……暗炎が隠れていたことは知ってる」
精霊界でもいつからか暗炎の一族がないがしろにされてきたことは有名だ。だから神々は人間界を見捨てて奇跡を回収した。
アビーが知っていることを話すとローズも納得したようにうなずく。
「ウィリアムをよく思わない人の中に元は魔法使いだった者たちがいるの。彼らは、自分たちから魔法を取り上げたのがウィリアムだと思っているのよ」
「それは違う」
「ええ、違うわ。でもそうやって怒りを
「ん……」
アビーはそうなんだ、とうなずいた。
「でも母君、安心して欲しい。あたしはビリーのこと見捨てたりしない」
アビーが
「ありがとう。私からもあの子のこと、お願いするわ」
母に楯突いて、一番悪いタイミングで話をアビーに聞かれてしまったウィリアムは執務室にこもった。この屋敷の主人はフランクだが、ウィリアムは彼が大きくなるまで前伯爵夫人ローズを手伝う形で領地経営をしていた。すでに慣れた仕事だ。
書類を領主であるフランクのサインを待つだけの状態へ変えていくと、ウィリアムはだんだんと落ち着きを取り戻した。
(いくら気を許しているからと油断してしまった。ほかの令嬢と同じように
フランクはヒルベニア王国の侯爵の娘アイヴィーと婚約している。結婚ならすぐにできるはずだった。だが彼はアイヴィーの生家から結婚を打診されても兄の未婚を盾にのらりくらりと話をかわしている。
(もうちょっと春を楽しみたいなどと馬鹿なことを……)
コンコンとノックがなされ、ウィリアムが軽く返事をすると今まさに顔を見たい義弟フランクが姿を現した。
「こんにちは
「ああ、お帰り。書類だが半分ほど減らしておいたぞ」
「相変わらず仕事が早いね。助かるよ」
フランクは持ち前の愛想のよさを顔に出すと、金庫から領主の判子を取り出して兄がほぼ片付けてくれた書類を手にソファへ腰掛けた。
「ああそう、
「なんだ」
「アイヴィー様と破談になったよ」
フランクが天気の話をするような口振りでそんなことを言うものだから、ウィリアムは一瞬理解が追いつかなかった。
「そう破談……。えっ?」
「そんな気はしてたんだよねー。彼女、俺に気がないんだよ」
「どういうことだ!?」
「だーかーらー」
フランクは確認を終えた書類を紐で丸めてまとめ、
「彼女が二年もかけて狙ってたのは俺じゃなくて
「は!? 暗炎の俺をか!? 冗談だろう!?」
「それ本気で言ってる?」
「お前こそ本気で言ってるのか!?」
「はぁー、これだから。自己評価低いのもいい加減にしなよ」
フランクは城に提出しなければいけない書類を木箱にしまい、袋へ入れて手に持つ。
「
「冗談」
「冗談でこんなこと言わない」
フランクは袋を肩にかけると席を立った。
「大工みたいなことしないでよ? 療養中なんだから」
「もう戻るのか?」
「
「ま、待った。待って欲しい」
ウィリアムは自分が令嬢たちの視線の的だと言うことは理解していたが、侯爵家のような身分高い令嬢が自分を婿にと思っているのは初耳だった。フランクへもっと詳しくと聞き直す。
この
「あのねえ、陛下のお気に入りで体格よし顔よし頭よし、かつ聖剣の使い手。さらに伯爵家を継ぐのは俺と確定していて浮ついた話が出ない限り独身確実。男児が生まれなかった貴族家にはこれ以上ない物件だよ? 当然でしょう」
ウィリアムは右手で顔を
「なるほど婿……。確かに俺に色目を使ってくる令嬢たちの多くは一人娘だったり姉妹しかいない……」
フランクは鈍感な
「ま、だから国政も絡むし彼らも下心ありだけど、下心にも事情があるよって話」
「そ、そうだな」
「ご令嬢方が嫌ならアビーちゃんをしっかり捕まえておきな」
「……何故そうなる?」
フランクは今日何度目になるのか
「はーん、そう言うこと」
「え?」
「アビーも
フランクは
「早めに婚約をちらつかせておかないと、二人とも
フランクによりとんでもない話を聞かされたウィリアムは休憩のために庭へ出て花の香りを浴びた。
(婿ねえ? 暗炎の男を……)
フランクの言った条件のよさは確かに当てはまる。しかしすぐには信じられない。暗炎の一族は少なくともこの三、四十年
(俺が陛下の庇護を受けた十年程度で差別が
ウィリアムが立ったまま頭を抱えているとアビーが顔を出す。彼女は着替えたのか別のドレスに袖を通していた。
「ビリー、お昼ご飯ですよって母君が」
「アビー」
ウィリアムは今朝のことが気まずくてアビーから顔を逸らしてしまうが、彼女がすぐ戻ろうと背を向けたので思わず腕を引いて引き止めてしまった。
「……今朝は申し訳なかった」
アビーは寂しげなウィリアムの顔を見ると体ごと振り向く。
「ビリーは、
ウィリアムはうっと言葉を詰まらせるが観念して目をつむる。
「怖いんです……」
三、四十年前から暗炎への差別は確かに存在した。そう簡単になくなるものではない。彼が素直に話すと、アビーは何だそんなことかと目を丸くする。
「あたしはビリーより長生きだ。子供の面倒も孫の面倒も全部見る」
「で、ですが例え森暮らしをしたとしても人間との付き合いがなくなる訳では……」
「大丈夫」
アビーは己の胸をどんと叩いた。
「大丈夫」
理屈も言わずにその言葉を使うのは説得力がないはずなのに、アビーの真剣な眼差しを見ていると本当に大丈夫かもしれないと思えてくる。
(不思議だな)
「……大丈夫、でしょうか」
「あたしが人間界の
「そ、そうでしょうか……」
「そう」
アビーは物怖じしない。清々しいほど自信満々なので、ウィリアムは思わずふっと笑った。アビーは微笑んだウィリアムの顔をじっと見つめた。
「ああ、すみません。君が自信満々なものだから、つい」
「竜だからな」
アビーは手を差し出した。
「食事だよ」
「ああ、そうでした」
ウィリアムは一旦心配事は置いておこうと少女の手を取って昼食へと向かった。
ウィリアムは婚約関係にないアビーと寝床を一緒にはできない。しかし彼女を拒絶している訳ではないと念入りに竜の娘へ言い聞かせて一人で寝室へ戻った。
(結婚かぁ……)
生涯誰とも連れ添うつもりがなかったウィリアムは急に現実味を帯びたその話題を改めて考えた。
(陛下に大事にしていただいて、
今更ながら、普通の人のように扱われて喜びよりも戸惑いのほうが大きい。
「……いいのかな結婚なんてして……」
ウィリアムの困惑は夜の闇へと消えていった。
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