丑三時の部屋で

藤堂 有

丑三時の部屋で

 真夜中。大学に併設された実験施設にある作業室。

 キーボードのタッチ音が響く10畳ほどのこの部屋で、私──乃木悠と我が親友の塔野は、背中合わせに黙々と作業をしていた。

 研究室は別途研究棟にあるのだが、圧倒的にここで過ごすことが多かった。

 施設の実験室で研究することが多いのも理由の一つだが、一番は、作業室の快適さだ。

 ドアを開けると、左右の壁に沿うように綺麗な机がシンメトリーに数台ずつ置かれ、部屋の奥は陽の光が入る大きな窓と洒落た焦茶色のブラインド。部屋の中央にはローテーブルがあり、利用者が持ち込んだ菓子がカゴに詰め込まれている。

 部屋の隅には簡易キッチンと、一人暮らし用の冷蔵庫。電子レンジと電気ケトルもある。研究室ではそうはいかない。研究対象や試薬などに気を遣わず、自分自身が快適な室温にして、飲み食いしながら実験結果をまとめたり、論文を読める、最高の場所だった。

 ただし、研究室の荷物を全てここへ移動させ、朝から深夜まで利用しているような輩は私と彼くらいなのだが。


 キーボードのタッチ音が止む。

「なあ」艶やかな黒髪の男──塔野の落ち着いた声が私の背中に降ってきた。

「乃木、もう0時過ぎとるぞ。今日は帰らないんか?」

 私は振り返ると、思ったよりも緩慢で気怠そうな声で応えた。

「使おうと思ってた機械がもれなく予約が一杯で、空いたのが9時過ぎだったんだよ。今日は泊まろうと思ってる」

「解析待ちか。暇やな」塔野は笑った。関西からはるばる関東の大学に来た彼は、大学近くのアパートで暮らしている。既にやることは終えている様子で、すぐにでも帰れそうな雰囲気なのに、私に気遣って残ってくれているようだった。ありがとよ、と心の中で呟いた。

 礼と言ってはなんだが、私は冷蔵庫に入れておいた秘蔵のおやつ──安くておいしい、大学受験からのお供、ブラックサンダー大先生だ──を箱ごと取り出す。電気ケトルで湯を沸かし、2人分のインスタントコーヒーを淹れてローテーブルに置いた。

「暫し、優雅な他愛もない話に付き合ってもらおうかな」

「おおきに」

 研究の話や来週の輪読に出す論文探し、同級生の話題。

 恋愛の話もさりげなく出してみたが、お互い全く浮ついた話がなく、さっさと次の話題に移ってしまった。


 そうこうしているうちに、午前2時を回っていた。

「丑三時だ。幽霊が出たりして」

「そういや我が大学にも出るって噂、あるらしいな」

 塔野は部屋の一角にある冷蔵庫の上に置かれた盛り塩を見ながら、涼やかな切長の目を細めて言った。

 この部屋には何故か盛り塩が置いてある。霊感が強かったという某研究室の先輩が置いていったのだが、効果は──果たしてどうだろう。大体、理系なのに幽霊を信じるとは何事か。

「あの盛り塩、確か部屋の四隅に置かれとったな」

「いや、窓側には置いてない。こないだ教授がブラインドを上げ下げした時に盛り塩を崩壊させたから、片付けた」

「あかんやないか。先輩が怒るで」

 塔野はわざとらしい口調で咎めたが、その顔はにやついていた。そもそも非科学的なものを信じていないし、先輩は卒業して海外にいるので怒られるわけないのだ。

「出ると言っても、隣の付属病院で亡くなった人の霊が歩いてるとか、この敷地がその昔に軍の施設だったから軍人の霊が出るとかってやつだろ。そもそも、ここ使ってて幽霊に出くわすとかあったか?俺はない」

「俺も無いな。病院で亡くなった人やら軍人が幽霊で出る言うたら、えらい数が出没することになって、大学構内が百鬼夜行になってまうわ」

「ちょっと面白いな、大学構内で百鬼夜行とか」

 渋谷のハロウィーンの仮装する人々を想像してしまい、ニヤニヤと笑った。塔野も自分で言っておきながら笑っている。

 所詮、大学生が思いつくことだ。この手の心霊現象の噂は、フワッとしていて中身が無いことが多いのだから、怖がるも何もない。

 ひとしきり笑ったあと、机の上に置いていたスマートフォンのアラームが鳴った。

 実験室のパソコンに任せていた解析が終わった頃だ。やれやれ。

 私は「ちょっと解析データ取ってくる」と断り、席を立とうと椅子の肘掛けに手をかけた時だった。


 ──ガシャァッ!

 突然、ブラインドが激しく音を立てた。

 顔を向かい合わせていた私と塔野は、揃って勢いよくブラインドの方へ顔を向けた。が、静かに佇むそれでしかなかった。

 窓を開けた記憶はない。外が暗くなる前にブラインドをきっちり閉めてしまったせいで、その向こう側を窺うことができない。

 自身の生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえたような気がした。

「乃木」塔野の冷静な声に、はた、と現実に戻される。「窓、開けてなかったよな?」

「ああ、窓ガラスが割れた音じゃない。ブラインドをグシャっとしたような音だった」

「俺もそう思う。──ブラインド、開けてみるか」

 塔野がゆっくり窓側に近づくのを、慌てて着いて行く。

 彼はブラインド脇の紐を引っ張り、勢いよく巻き上げた。しかし、ブラインドの向こうは、しっかり鍵を掛けた窓があるだけだった。

 窓の外は塗りつぶされたような漆黒。

 部屋の明かりが窓ガラスに反射して、私と塔野の困惑した顔をはっきりと映していた。

 壁にかかった時計は、午前2時半を過ぎていた。


 すっかり実験室に向かう気力を無くしてしまった私は、塔野を引き止めて──塔野は「引き止めんでも一緒におるわ。俺も部屋から出づらいし」と、私が女子だったら一瞬で惚れるようなことを言ってくれた──コーヒーとブラックサンダーを貪りながら朝までひたすらに語り合った。

 日が登り始めたころ部屋を出て塔野の家に向かうと、安堵してそのままソファで眠った。


 結局、ブラインドが激しく音を立てた理由は分からなかったのだが、私たちは盛り塩を作り直して窓側に置いた。

 それから謎の現象が起こることは、二度となかった。

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