第四章 告げ鳥。 第二十一話 暗殺者。

 夏は終わろうとしていた。

眠れない熱帯夜が去り、海を渡り冷気がすぐにやってくるだろう。魚の腐敗にも井戸の水位にも、びくびくする必要も無くなる。秋が……豊かな 季節が訪れるのだ。今、リガの街は活気に溢れかえっていた。アヴァローを追い払い、ララコは去った。正確な周期は不明だが、これで数年から十数年は平穏無事に生活ができるのだ。もうじき生まれてくる子供を身ごもっている母親も、人生を終えようとしている老人たちも、皆笑顔だった。そう、心配しなくてはならない雑事は常に溢れているが、それでも日常であり、平和だったから。


 ナギはあの夜、ララコが立ち去ってすぐ、ゾナを風祓いの塔の一室に運び込んだ。ゾナは、眼球が破裂し体表を無数の甲虫や蛆に食い荒らされていたが、辛うじて生きていた。 ゾナの衣服を全て剥ぎ取り、めちゃくちゃになってしまった彼の身体を見下ろした。虫達は未だにザワザワと波打ち、ゾナを食い荒らしていた。ナギは何の感情も表さない冷徹な魔術師の顔になる。深い黒い瞳と透けるように白い肌が、より一層その冷酷さを強調する。


 ……最善は尽くすわ。どこまで回復するかは、あなたの体力とあたしの魔力。そして、星神の加護しだいよ。


 ナギはゆっくりと正確にルーンを切り、式を唱えていく。昏睡コーマの術だ。虫達も動きを止める。ゾナの生命活動も最低限のレベルまで落ちる。ナギは彼のマイトの波動を身体と魂全体で受け止め、生死の天秤の傾きに最大限の注意を払う。これ程までの深手を負っていながら、ゾナのマイトの波動は規則正しく世界と調和している。死に瀕している者のマイトの流れではなかった。健康で強い者のそれだった。僅かばかり希望を見いだしながらも、ナギは自身を律する。そう、これからが勝負なのだ。これから徐々に彼は体力を失って行く。死ぬ可能性も十分すぎる程ある。ナギは邪念を祓い、細く透けるような指を器用に動かし虫達を捕獲する。虫達はゾナのからだの異変に……どうやら、ただの美味しい餌ではなくなり始めていると気が付き……昏睡コーマの術に犯されながらも必死に逃げ出そうとしている。ナギはそれを順番に捕まえ、ゾナの身体に埋め込んで行く。足や触手をむしり取り、自由を奪ってから、ゾナの肉に埋め込んで行く。蛆を潰し、汁ごと腕に埋めた。ムカデの足を丁寧に毟り、鎖骨の辺りに埋める。仲間の悲鳴を聞き付けた虫達は盛んにゾナの身体からはい出して行く。しかし、この部屋にはゾナが横たわる一枚の岩からなるベッド……本来は実験台だ……以外になにもなかった。周囲は材質さえ不明な灰色の物質で覆われ、出入り口のドアさえ判然としない。部屋の中心ゾナの真上にナギが作り出した、純白の光りが輝くだけだった。必然的に虫達はナギに取り付こうとする。服の隙間やブーツや髪の中に入り込んでくる。ナギはその不気味な感触を一切無視して、作業を続ける。虫を捕らえ、ゾナに埋め込み続けた。虫を埋め込んだ傷口は虫達からちぎり取った触覚や足や牙で止めていく。もぞもぞ体内で動き回るその皮膚の上にナギは血と体液で汚れた指を当てて、ルーンを切り式を唱える。|再生と浄化と同化(リン・ハ・フィオコロス》の術を用いて、ララコに毒された毒気を祓い、虫をゾナの肉に環し、周囲の肉体と繋げて再生させる。ナギは老ナギが得意とする破壊や召喚の術よりもこの様な変化や癒しの術を得意としていた。彼女の優しい魂は、被術者の魂と同化し易い。癒しには思いやりが必須なのだ。ナギはそのまま半日以上かけて、ゾナの身体から沸き上がった虫を彼の体に戻した。ここに来るまでに逃げてしまった虫達も多くいたが、問題とはならなかった。腐敗していた身体も、ほとんどはその表面だけで臓器にまでは及んでいなかった。ゾナは体力を失い、マイトを大幅に弱めていたが、まだしばらくはもちそうだった。ナギは中空から術により、清浄な液体を取り出し、ゾナの空になった眼窩に満たした。ゾナの体中に自分の血を使い、ルーンを描いていく。大量の血を消費することとなったが、血を戻すには血が必要なのだ。日が沈むころ、ようやくナギは施術を終了した。ゾナは衰弱仕切っていたが、まだ生きていた。一つ目の峠は越えた。この後は、再び腐敗し始めた場合や、虫が沸いた場合、それを戻してやる作業が必要だ。その過程でどれほどの体力を失うのか、ゾナがそれに耐え得る力をもっているのかが 生死の別れ道だった。


 ……もちろん、あたしの体力と魔力が続くかどうかにもかかっているんだけどね。


 当面のやることは全てやり遂げたナギはその場にしゃがみこみ……気を失った。ゆっくりと崩れ落ちた。細く柔らかい髪が、血と汗で汚れた顔の上で踊る。不自然な姿勢のまま、ナギは気絶し、眠りについた。大量に消費した血や魔力を回復させるためには休息が必要だった。それを待ち焦がれていたかのように隙間のない壁に亀裂が走り、ドアとなり開いた。そこに立っていたのは……老ナギだった。


 にたり。


 と邪まな笑みを浮かべる。

 音もなく、そよ風のように部屋に滑り込む。暗殺者の身のこなしだった。皺だらけの顔にある落ち窪んだ眼窩から、邪悪な瞳でゾナを見つめる。ナギが力を使い果たし、深い眠りについているのを確認し、老ナギは太く轟く声を発した。


 「ほう。ふうぅぅぅむ、ふむふむ。随分と腕を上げたものじゃ。癒しに関してはワシの出る幕はないようじゃの。」


 瞳を細めながら、老ナギは愉快そうに思案する。


 「……さて。ここで、この若者を殺しておくべきじゃの。取るに足りぬ存在じゃが、邪魔であることには変わりはない。そっと、魂を抜き取っておくとしようか。」


 ゆっくりとゾナを指さそうとする老ナギの背後で、獣の唸りが低く響いた。老ナギは気配だけで、その存在を認識した。


 「ふぅぅぅぅむ。あまり賢いとは言えぬな。幼き黒龍よ。ワシには敵わんじゃろう。試してみるか?」


 老ナギの背後でウルスハークファントは身体の半分まで開く口に生え並ぶ牙を見せつける。低く威嚇の唸り声を上げている。ゆっくりと老ナギは振り返る。


 「自慢の黒炎でも吐き出してみるか。ワシはかわすがこの者たちはどうじゃろうかの。」


 自分の優位を信じて老ナギは余裕の笑みを漏らす。ウルスハークファントは、老ナギの歪んだ魂に直接声を届ける。


 ……好きにしろ。私も好きに振る舞うだけだ。


 老ナギは意味をはかる。この幼龍は特にゾナの命に興味は無いようだ。ただ、ナギの命には関心がある。だから、ここにいるのだろう。ゾナを殺したとしても、この幼龍がワシに危害を加えることは無かろう。じゃが、見られたのはまずい。このまま剣士を殺せば、幼龍がナギに真実を告げるじゃろう。そして、愚かなナギの取る行動は……ワシに挑んで 来るじゃろうか?それとも、これまでどおり見ぬふりをするじゃろうか。

 ふと、昨晩剣士を助けようと黒い風の中に飛び出したナギの表情を思い起こす。


 ……理解出来ぬ低俗な肉欲に端を発する感情が現れていなかったか……?


 幼龍はざわざわと牙を 波立たせて笑った。


 ……好きにするがよかろう。私は邪魔はせぬ。同時に私は何からも制約を受けぬ。私の行動を止める事はだれにも叶わぬ。


 幼龍の言葉が魂に響く。実に不愉快だ。ワシの魂に土足で踏み入るなどと。老ナギは思案する。とりあえず、殺しておくか。この剣士は。ついでに幼龍も始末するかのぅ。ナギは気づくだろうが、奴の性分からして証拠がなければ、行動を起こすことはあるまい。準備が整うまでは対立はせぬじゃろう。それが永遠だとしても。

 老ナギは滅魂の術を唱えるべく、精神を集中し、ルーンを切る。幼龍におかしな動きは見受けられない。ウルスハークファントは老ナギの心に直接心を届けるために、自身の心も解放していた。二人の魂はある部分で繋がっていた。老ナギには、幼龍の心の動きが手に取るように分かった。ゾナを死へと導く術を行使する過程で、幼龍の心にさざめきが起こることは無かった。完全に、この死にかけた剣士の運命の帰趨に興味が無いのだ。老ナギは思いどおりに事が運んで行くのを心地よく感じながら、式を唱え……結んだ。老ナギの指先から魂を引き剥がす無情の黒い稲光が迸る。同時に自身の背後に、圧倒的な力を感じた。目を動かす時間的余裕がなかった為、老ナギは確認することが出来なかったが、ウルスハークファントが爆発性の黒い息マドレスを吐き出したのは間違いない。それ以外にこれ程の圧力を我が魂に与えるものは無い。たった今、術を唱えたばかりの老ナギに選択肢は無かった。素早く指先をウルスハークファントに向け、邪悪な術と幼龍の黒炎マドレスをぶつけるしかなかった。想像以上の爆発が起こる。死の黒い稲光は黒炎に激突し、四方に飛び散った。 壁を床を天井を穿つ。黒炎もまた稲光に弾かれ、四散し、周囲を燃え上がらせた。ナギの実験室は灼熱の炎に包まれる。老ナギの痩せた背中にいやな汗が伝う。幼龍はそれを見逃さなかった。


 ……何を焦っている?私の行動が読めなかったか。ナギが傍らにいる間は龍の息マドレスを吐かないとでも思ったか?愚かな。私は龍。何故に人の生死に心を砕く必要があるのだ。違うか?矮小なる羊魔よ。気に入らぬ者はすべて燃やし、食らいつくすのみだ。


 はらわたが煮えたぎるのを感じながらも老ナギは必死に自身を制した。

  極稀に駆け引きの成立しない相手が存在する。この幼龍もその一つだ。自分のみに従う者に対しては駆け引きは成立しないのだ。部屋中が炎を上げて燃えている。ゾナは無論ナギもまだ、意識を取り戻 さない。


 「貴様……その程度で大魔術師であるこのワシに叶うとおもうておるのか?このワシの術をかわしきりワシを亡き者に出来るとでも?」


 ……くだらん。生死は関係なく、ただ思うがままに行動するか否か。それだけだ。


 ウルスハークファントはまた身体の側面に並ぶ牙を波立たせて、大きく息を吸い込んだ。黒炎マドレスを吐き出すつもりだ。老ナギはその一瞬に思案した。


 この距離では術よりも龍の息が有利じゃ。じゃが、この幼龍は本当にナギの命に興味が無いのじゃろうか?それとも、張ったりなのか?ナギを助けるつもりならば、わしが絶対的に有利じゃ。しかし、ナギの命を顧みないとすれば?さらに悪いことに、自身の命の帰趨にすら興味がないとすれば?真の王者の気質を備えておるとすれば?忌々しいゾナの様に。その時は……この距離では……。


 そして、極稀に駆け引きの通用しない相手が……。


 逡巡する老ナギを逃さず、ウルスハークファントは再び黒炎を吐き出した。爆炎は老ナギを襲い……しかし、水鏡ラーンの術で、炎を防いだ。どちらがナギを守っているのか全く分からなかった。ナギがさすがに騒ぎに気づき、呻きをこぼす。


 ……う、うぅぅん。


 この上、ナギが戦いに加わっては、負けないにしろ無傷ではいられないと判断した。老ナギは術を唱え、闇に跳躍した。姿がかき消えた。ウルスハークファントは牙の隙間から 黒炎を漏らしながら唸り……笑った。どれだけ力があろうとも、所詮、人間。生と死の下らぬカテゴリを重視し過ぎる。ナギがついに目を開いた。燃え盛る室内を見渡し、一瞬焦りの表情を見せたが、ウルスハークファントの姿を認め、安堵の息を漏らした。


 「ごめ……後よろしく。火ぃ消しといてね。」


 言い終わるや否や、ナギは再び深い疲労の海へと沈んでいった。


 ……仰せのままに。


 ウルスハークファントは満足そうにほほ笑んだ後、猛烈な雄叫びを上げ、室内の炎を吹き飛ばした。

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