死ぬ身のよろめき

碧治

第1話


夢がようやく頭から剥がされようとしている時、曽我優也は朦朧な頭脳をはたいて自問する。冷静になってみても今日が休日であるという希みがほのみえて仕方がない。曜日感覚のなくなるほど忙殺されたせいか、根からの脆弱性質が取り憑いたせいか、いずれにしても窓から射し込む光の具合を懸命に観察して、また自問に励むのだった。大体休日に母が起こしてくれる時間帯は十二時で、そうであれば部屋の色は白昼で真白であるし、大体平日に母が起こしてくれる時間帯は六時前で、部屋は一切のあたたかみもない緋色になる。しかし今度はどれも微妙である。白昼といえば白昼そうな、明け方といえば明け方そうな寒さと陽光と沈鬱が部屋に立ちこめているのだ。彼はおとなしく机の上の時計を確認すれば良いものを、仮に今日が金曜日だった場合に余計な目覚めをしても困るという物怖じから、かぶさった布団をつま先で微調整しながら、しかし結局二足をあらわにし、肌寒く不愉快なまま再度考察しはじめる。そしてそれは強烈な尿意に身悶えしながらも問答無用であった。ここまでくるとイッパシの大雑把馬鹿だ。ともかくも曽我優也の朝というものは母親の階段を上がる音に怯えるところから始まる。

 そしてその怯えの余波の情感、言わば失望による倦怠のまま、彼の無意識が朝勃ちのテントを母に見つからないよう苦労する。手はテントの支柱の根を鷲掴む。テントはその頭をもたげる。これでいささかの誤魔化しは完了で、簡単に成功である。

 平生から彼の真顔は呆れ顔のようで気味が悪い。唇は心持ち青ざめてあるし、歯は煙草を吹かしている訳でもないのに黄色い。欲情の結晶たるニキビはおさまりを知らぬようで、色白の廃園に赤く醜く咲き乱れている。雑草のように繁茂な汚いうぶ毛は鼠の体毛のようである。しかし鼻が微妙に高いのと眉毛の輪郭が綺麗であるおかげで、まだ顔立ちは良い方とされている。

 猫に食卓を害されながら、優也は一枚の食パンを食べる。彼は猫アレルギーであるから猫がパンに近付くことを嫌った。そして案の定猫をどかす手先に猫の毛が、それを伝って鼻先にまでその毛が。そして鼻は終始摘まれているような感覚に襲われるのだった。これは非常に飽き足りない感覚で、つくづく彼はその度に鼻をもぎとりたく思うのだった。

 愛情深い母は毎朝、おとなしくなった猫の胴に潜りゆく。そのほのあたたかな洞穴に身を隠すような安心に、優也も酩酊したがった。がしかし、猫アレルギーという厄介な疾患が介在する限り、その猫でさえも厄介な動物になりえた。それも酷いときは彼の勉強の集中を蹴散らすときで、度々ひょこひょこ飛び回る邪魔を彼は必死の形相で怒鳴る。さかしいくせに短気の者がそうのように、むつかしい言葉を散々に並べ、激情のままの心細い論理を盾にする。そしてしまいには、——てめえは阿呆か! とだみ声で叫ぶ。

 しかし当の猫はやはりきょとんとした顔で、優也の勉強机に横たわるプリントをまたぐしゃぐしゃにしてから、指先に飛びついて噛み始める。これに対して彼は、こいつは人を舐めていやがると、本当に殴ってやろうかと、更に痛憤したあげく乱暴に掴んで猫を追い出す。しかしなにゆえ結局殴らなかったか……どだい彼はそんな威勢良いことを真剣に思うまでは定石として、実際物体を殴るときに走るあの変梃なやり切れぬ衝撃は実に大嫌いであったからだ。

 重たいドライヤーで濡らした髪を乾かしながら、スマホをいじる。それを見つけた母は優也を叱咤する。

「スマホいじりながら乾かすな! だらしない!」

 彼はその物言いの雑さに苛立って、無闇に素っ気なくかまして母の火に油を注ぐ。そしてまた高音の怒鳴り声がきこえたかとおもうと、送りかけのメッセージを送り切ってから、しゅんとしたようにし、挙げ句ドライヤーの騒音であんまり聞こえなかったがなんだか言い訳をする。彼の毎朝の憂鬱はこういった集中の阻害から生じる。


バスは彼にとって苦役である。生中な春のあたたかさが、彼にとって微妙に窮屈で鬱陶しかった。その前夜が驟雨であったためにバスの床は濃黒で滑りやすく、座席は変なねっとりさを取り巻いている。そんな中『鉄壁』とかいう、巷では比類の見ないほどさかしいと囁かれた単語帳を開く高校三年らしき、髪がべちゃべちゃな(もっともこれは雨のせいではなかろう。その日となっては、外はもう快晴であるのだ。だから脂の豊潤すぎるあまりにこのような中年のアル中くさい頭と化したのだろう)眼鏡の男が横を座る。彼は思わず嗚咽しそうになる。根暗で、他人恐怖の人一倍な彼は、決して臭いわけでないこの体臭が、この眼鏡のほんの少し荒い息が、なにかのはずみに足が当たってしまったに対する自分の謝罪が、自分を厭世に追い詰めるものでしか取れなかった。彼は開いている馬鹿げた単語帳を片付けなければならなくなった。それを鞄にしまう拍子に肘が眼鏡の足に当たる。吃りながら、何を言ってるのか解せぬ調子で謝る。

 バスの苦役はこれくらいでは終了せぬ。終点のひとつ手前の停留所で降りる時(もっともこの停留所で降りるが一番高校から近くて都合良いのだ)彼は人ゴミを掻き分けながら運賃箱まで辿らなければならない。もっとも『掻き分ける』といっても、惨めな掻き分け方だ。すみませんときっぱりはっきり言うが良しを、朝の乾いた口はそうさせる訳もなく、ただぼそぼそ(それこそクラスの端っこにいる陰キャの芥どもと同じの、聞いててイライラするような語調で)すみません、と。それは「うぃーあえん」と、顎骨の外れた人間が呟くのとそこまで差異ないから更に惨めである。

 これが因であった。彼がなんとか五歩ほど歩けたとき、通路でサラリーマンぽそうな男性にそこをどくように謝っていると、その者はまるで聞かなかった。それは彼が段々語調を強めても同じであった。彼はそいつがツンボであることを考慮して、恐れながらも優しく肩を叩く。するとそのリーマンとやらの酷しい視線は彼の寄せられた眉根におもむく。よく見ると耳にはワイヤレスイヤホンが。男は優也を嫌そうにまた一瞥したあと通路をつくる。彼はそこを重たい荷物を肩に提げながら、腰を曲げて行く。ババアに彼の荷物が不意に当たったまでは大丈夫として、大体の計画性の甚だ衰えている彼は運賃箱を前にして、あらあらしく小銭を数える。大体二十秒間ほど(あるいはもっと短かったかもしれないが)彼は冷たい視線の焦点となった。彼は顔を真っ赤にしてバスから降りる。春の温風はそれを冷ませるはずもなかった。そして彼はその羞恥を紛らわす餓鬼のごとく、心中であの男を叱り出す。——リーマンの分際が。クビひとつで困窮に陥るような馬鹿一択が! 小僧を前にだとやけに威丈高になりやがって気色悪え。

 

 

 彼の将来の夢は小説家で、それはこれほどまでに高尚な職業はないと信仰しているほどである。その夢に対するせっかちな執着は彼が世間に対してより敏感な態度を取り始める訳となった。これは本当に性悪な態度である。悪意ある行為をする者を文章で馬鹿にするならまだしも、ただただ純粋な気持ちの者を馬鹿にすること、それもアカの他人で、今後会うこともないだろう奴を馬鹿にするために、こうムキになって労力を費すこと、それほどまでに失礼な行為はなかろう。これからを読み進めるなら、彼が馬鹿にしているところのサラリーマンに、すっかり将来成り得てしまっていることを予見して、心底この者を嘲笑しながら見ていただけると幸い。

 

 

 ともかくもこのような不健康のまま、学校は始まる。彼はその不健康に怯える。なぜならそれが、これから起こりうる不幸の予兆な気がして仕方ないから。

 迷惑をかけてしまった、逆上してしまった、自分がいる。その事実が、実は平穏を願う彼をくるしめるのだった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死ぬ身のよろめき 碧治 @aoji12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る