涙の箱
たかなつぐ
第1話 閉じ込めた言葉
涙が出る時にはいつも、心が溢れ出している。
映画を見て感動した。転んで擦りむいた膝が痛い。
音楽の流れに身を任せていたら、いつの間にか視界が歪んでいたこともある。
絵本の主人公が幸せになって、心がほわほわした。
誰かが泣いているのを見かけて、胸がきゅっと締め付けられる。
何かと心が動いた時、私の感情は目から涙となって溢れ出る。
その蛇口が止まったのは、小学生の頃。誰かが言った何気ない言葉だった。
──すぐ泣くのって、ダサいよね。
そんなこと、考えたこともなかった。
泣くことが悪いことだなんて、今まで思っても見なかった。私にはそれが普通だった。
けれど、一度聞いた言葉はしつこくまとわりついて離れない。
泣いて吐き出すことが当たり前だった心は、まるで乾いたスポンジがみたいに言葉を吸い込んだ。
一度吸い込んだ墨汁は、何度洗っても真っさらには戻らない。
それ以来、わたしにはとある決まり事ができた。
人前で涙を流さない。喚く心を必死に笑顔で貼り付けて、ぎゅっと小さく凝縮する。
泣きたくなるようなことがあった日は、家に帰って小さな木箱を開ける。
数年前に買ってもらった、美味しい焼き菓子の入っていた緑色の木箱。
取り外せる上ふたをコトリと開けて、空の中身に口を寄せ、囁くように心の破片を吐き出した。
箱に向かって言葉を吐き出すたび、泣きじゃくった後みたいな呼吸がひゅーひゅー漏れ出てきて、わたしは落ち着こうと両手を胸元へ当てる。
繰り返すうち、心はめったにざわつかなくなった。
感動しても、悲しくても。いつだって平静なままでいられる。
これでいいんだ、これが普通なんだと安心しながら、わたしは箱をクローゼットにしまい込み、いつしか大人になっていった。
「……あぁ、仕事休んじゃった」
ベッドに寝そべる天井へ、ため息混じりの独り言が響く。
自分で言った言葉に、首の辺りをチクチク刺されてるみたい。
さっさと休職してしまえば楽だろうけど、『明日こそは行けるだろう』。その希望じみたプレッシャーが許してくれない。
何となく、学生時代から兆しはあった。
体が心にリンクしない。
『こうしないといけない』と思う焦りとは裏腹に、体は鉛のようにどんどん重たくなっていく。
それでも何とか就職活動して、今の仕事に就くことができた。
これで仕事ができる。体が重いのは、社会人になる不安からくるものだ。そう信じて疑わず、毎朝普通に起きて電車に乗り、八時間労働して、また電車に乗って帰る。
これが、普通の世界。
わたしの選んだ、みんなの選んだ世界。
わたしは普通に生きている。普通でいられている。
……じゃあ、今ベッドに寝ているわたしは? こんなわたしは、普通じゃない?
頭がぐるぐるする。何が普通で、何が普通じゃないのか。
普通じゃないのはいけないこと?
他の人と同じにできないことは、ダメなことじゃないの。
でも、ダメだと思うほど苦しくなる。
わたしがわたしじゃいられなくなって、心も体も押し潰されそうになる。
どうすればいい。どうやったら生きていいの。
「誰か、助けて……」
──ぽつり。顔の下で、布団に何かが落ちた。
ずっと昔に置き去った感覚。ずっとずっと、しまい込んでいた心の欠片。
自然と、足はクローゼットに向かっていた。
実家から今のアパートへ引っ越す時、確かあの箱も持ってきていたはずだ。
木目の扉を開き、中にあるものを手当たりしだいに引っ張り出す。
奥の方に収まっていた木箱は、独り息を殺したみたいにたたずんでいた。
そっと手に取ると、年月が経った表面はところどころ塗装が剥げて、緑色だった側面は茶色い下地がむき出しになっている。
その寂れた外見が、まるで今の自分を見ているようで、虚しいような切ないような想いが込み上げてくる。
ゆっくりと、軽い木の蓋を持ち上げた。
中には何も入っていない。当然だ、何かを入れた記憶がないのだから。
けれどもふと、子供の頃のことを思い出して、ほこりっぽい空箱に口を近づけた。
「……わたし、生きてていいのかな」
声がぼーっと箱に伝わって、手のひらにかすかな振動を感じる。
尋ねると同時に、わたしの心は答えを導き出していた。
「……会社、辛い」
小さな本音が、これまで張り詰めていたものに亀裂を入れた。
これまで抑え込んでいたものを押し流すように、気づけば口から、目から、言葉と涙がとめどなく溢れでてくる。
愚痴だったり、他愛のないことだったり、ほんの些細なことだれど、間違いなく『わたしが感じた感情』そのものだった。
長い年月で置いてけぼりにしてしまった、あるいは胸のなかで見ないふりをしていた心が、記憶とともに涙となって昇華されていく。
──ごめんね、ずっと見ないふりをして。
ティッシュで顔を覆い、顎の先まで流れる涙と鼻水を何度も拭き取っていると、不思議なことに少しずつ体が軽くなっていくようだった。
さんざん泣き終えて、木箱を片手にベッドへ腰かける。
今日は職場に休むと伝えた。まだ午前中。
泣いてスッキリした顔で時計を見ながら、わたしはぼんやり今後のことを考えた。
すぐにどうこうはできないけれど、ひとまず今日を楽しく過ごすことに決める。
「……着替えようかな」
──生きてて辛いこともあるけれど、探せば楽しいことだってたくさんあるはずだ。
子供の頃に読んだ本のフレーズを思い出して、淡い緑色のワンピースに着替えたわたしは、小さな鞄を持って玄関から一歩を踏み出した。
終
涙の箱 たかなつぐ @896tsubasa
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