第32話 強欲の獣

 目を覚ますと、そこには見慣れた光景が広がっていた。


 埃が積もった古いブラウン管テレビ。旧世紀の壊れたゲーム機。日に焼けすぎて表紙が黄色から白色に変化した漫画本。大学時代から愛用しているくたびれた衣類。


 そして、カビ臭い布団の中で、俺は死体のように横たわっていた。


 巨大な岩が全身に圧し掛かっているような重さが、全身を苛んでいた。


 俺は、今の状況を覚った。


 会計事務所を退職した直後だろう。


 三ヶ月間、恫喝と暴力に晒され続けたことで、ついに肉体と精神は限界を越え、あっけなく崩壊してしまったのだ。もはや布団から起き上がることもできず、ほぼ寝たきりの状態が続いている。食事もほとんど喉を通らず、ただひたすら寝る日々を送っていた。


 この頃のことはよく覚えている。


 これほどまでに肉体と精神の繋がりを失ったのは初めてだった。


 心の中では現状を打開しようともがいているのだが、身体は一向に動かない。肉体は眠りばかりを欲して、活動のすべてを拒絶していた。気が付くと眠ってしまい、目を覚ますと、途方もない罪悪感に苛まれた。しかし身体は、再び眠りへと引き込んでいく。容赦ない眠りへの誘い。どれほど抗っても、それらすべてを圧し潰すほどの睡魔。それが何日も何日も繰り返された。


 肉体が現実を拒絶していた。


 否、精神は肉体よりも、現実を拒絶していたのかもしれない。


 最上部にある精神では、現実社会への繋がりを求めているように思えるが、実は、最深部にある精神では、現実社会を強く拒絶しているのかもしれない。その部分を肉体が読み取った結果、身体が動かなくなったのかもしれない。


 現実社会への絶望。


 現実社会への拒絶。


 人生の終わりの選択。


 そう、俺の人生は、これをもって終わったのだ。


 終わり。


 終わり。


 終わり。


 そう思うと、少しだけ肉体が軽くなったように思えた。


 そうだった。


 俺は、この時、この瞬間に、人生を諦めたのだ。


 諦めたのだ。


 その時、部屋の真下から騒がしい声が聞こえた。


 俺の部屋は二階。真下は玄関である。来客のようだ。


 腹の底から嫌な予感がした。


 玄関で騒ぐ声。その声に呼応するように、両親が嬉々とした声を上げる。それら声を裂くように、刺々しくも冷淡な声が聞こえた。


 俺は一気に暗鬱な気持ちとなった。


 妹家族がやって来たのだ。俺は布団の中から手を伸ばし、携帯電話を開いた。液晶画面に映し出された日付に、胸糞悪くなった。


 一月三日。


 毎年、妹家族は元旦と二日を旦那の実家で過ごし、三日になると、この家に来る。別に珍しいことではないが、妹は強欲の塊だ。妹にとって正月は稼ぎ時なのだ。なぜなら、子供を利用してあらゆる親戚からお年玉を貰えるからだ。元旦と二日で旦那の家族や親戚からたらふく金を貰い、最後に我が家からごっそり金を奪う算段だ。しかも自分の実家に対しては遠慮も容赦もない。貰えるものはすべて貰っていく。そんな妹の横暴さに対して、両親は何一つ注意しない。両親は今も現役に近い収入があるため余裕があるのだ。それよりも孫が可愛くて可愛くて仕方ないらしく、尋常でないほど甘やかしている。


 そのため糞餓鬼どもは、大きな勘違いをしている。


 この家の物は好きに貰っていいし、好きに壊していい。


 そう、この家では何をやっても許されると勘違いしている。


 当たり前のように壁には落書きをするし、襖や障子はびりびりに破られる。食べ物をそこら中に撒き散らし、水遊びで床びちゃびちゃにする。これだけの暴挙にも関わらず両親は好々爺といった風情だ。馬鹿である。


 そんな悪餓鬼どもも、妹の命令には不気味なほど忠実だった。余程、妹のことが恐ろしいのだろう。


 妹の命令。


 心の奥底から、どす黒い情念が沸々と湧き上がっていく。


 居間の方では楽しげな笑い声がこだましている。連中にとっては憩いの時間でもあっても、俺には遠雷の音のようにしか聞こえない。やがて嵐は凄まじい勢いでこちらへ向かって来る。


 途端、階段を駆け上がる音が聞こえた。


 俺は、必死で布団から這いずり出て、ブラウン管テレビを抱えようとした。しかし衰弱した身体には重すぎて抱えることができなかった。俺はテレビによるバリケードは諦め、転がるように部屋の扉に飛び付き、背中を押し当て、全体重を込めた。


 次の瞬間、背中に衝撃が走った。


「おカネちょうだい! おカネちょうだい! おカネちょうだい! おカネちょうだい!」


 悪餓鬼どもが、力任せに扉を叩き続ける。


「おカネちょうだい! おカネちょうだい! おカネちょうだい! おカネちょうだい!」


 俺は全身に力を込めて扉を塞ぐ。肉体が憔悴しているため、衝撃が骨の髄まで響く。


「おカネちょうだい! おカネちょうだい! おカネちょうだい! おカネちょうだい!」


 もはや社会復帰は絶望的な状況。餓鬼にくれてやるカネなど持ち合わせていない。そもそも獣どもにカネなど一銭も渡したくない。だが、この扉を開ければ、獣どもに詰め寄られてカネを渡すしかなくなる。俺はバリケードに身を固めながら、その怒りは次第に両親へと向けられた。心底、糞ったれな両親だ。息子が憔悴して寝込んでいるにも関わらず、餓鬼どもの暴走を止めることもしない。それどころか喜んでいるように思える。コイツらも獣となんら変わらない。


 イカれた獣だ。


 どいつもこいつもイカれた獣だ。


 そして、それら獣の中心で踏ん反り返っている一匹の獣。


 強欲の獣。


 この獣が元凶であり、この家に住む俺にとって最大の敵。


 心臓の鼓動が激しく波打つ。


 嫌な高鳴りだ。


 もし、この身体が動くのであれば、今の俺ならば、扉を蹴り破り、餓鬼どもの首根っこを掴み、部屋の窓から、餓鬼どもを放り捨てるだろう。そして驚いて駆け付けた獣に向かって、ブラウン管テレビを投げ落とすだろう。


 この嫌な心臓の高鳴りは怒りだ。


 強欲の獣への怒りだ。


 だが、悲しいことに身体を動かすことはできなかった。


 この醜い獣へ鉄槌を下すことはできなかった。


 暴発しそうな怒りを抱えたまま、俺は必死で扉を塞ぎ続けていた。

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