第六話
モードレッドがりんごをかじり、床に倒れた。王妃の侍女バーネットは自分がどんな手違いをしただろうと真っ青になった。
「………」
人々のわめき声。モードレッドに駆け寄るガウェイン。立ち尽くす王妃。まるで舞台上で進行している演劇を見るように、現実感のない事態が進んでいく。
息を吹きかえしたモードレッドが王妃を見つめた。とたんに、王妃が疑われる場面へと変わり、アーサー王が現れてさらに事態が急転する。弟の手をとり、ガウェインが名誉の法廷で戦うことを宣言した。
──ちがう、こんなの私がのぞんだ筋書きじゃない。私がのぞんだ筋書きじゃ…──
バーネットがのぞんでいた筋書きとは、こうだ。
ガウェインの前に盛られた果物の皿から、まぎれ込ませた毒りんごを、モードレッドがアネットに食べさせる。りんごを用意したのは他でもないバーネットだ。
この暗いたくらみを提案されたとき、バーネットは「なんて恐ろしいことを」と慄いた。すぐにでも断って立ち去ろうとした彼女にモードレッドはささやいた。
『欲しいものがあるなら手段を選んでいる場合ではありません。他人にとられて、ましてや二度と手に入らないかもしれないのに』
二度と手に入らない、という言葉にバーネットは心を揺さぶられた。
二年前の冬、ガウェインは彼女のもとを去った。でも、それはバーネット自身が悪かったのだと思う。
ガウェインは完璧な恋人だった。欠点をあげるとしたら、それが見当たらなかったことだ。うっとりとする甘い言葉をくれて、宴では理想的なエスコートをしてくれた。だが、落ち度のない彼はなぜかバーネットを不安にした。おとぎ話に出てくる、都合よく現れて愛してくれる王子様みたいに。
愛されている実感が欲しかった。でもバーネットはそれを自分からでなく、ガウェインに示してもらおうとした。彼を試すために「別れたい」と言ったのだ。
別れを告げると、ガウェインはあっさり受け入れた。ぼうぜんとするバーネットに、理由を聞くこともなくお辞儀をして去る。「ごめんなさい間違っていたわ」と追いかけても、恋人だった彼はもう居なかった。
──私が悪かったのだ。今度はちゃんと自分から気持ちを伝えよう。
──あの子がいなければ……。
提案に揺れながらも「王妃様に嫌疑がかかるわ」とバーネットは怖気づいた。だがモードレッドは、
「王妃に不貞の噂があることはご存知のはず。あれは本当のことですよ」
と断言した。すると不安や後悔に揺れていた心は、『それなら罪を負わされても仕方ない』と生け贄を簡単に受け入れてしまった。
──だって、死ぬほどじゃないと言っていたもの。
声が出なくなる程度だそうだ。それでも身体に不自由があれば、ガウェインに嫁げなくなる。あの少女に対して申し訳ない気持ちはあった。だが、我が身かわいさが勝った。
人垣のむこうで倒れたモードレッドを、バーネットは穴があきそうなほど見つめた。りんごを仕込むまでは、自分がすべてを動かしているみたいだったのに、今は舞台から追い出された端役のように感じる。
──はじめからこうなると予想していたのだろうか。王妃様に疑いを向けるつもりで? ガウェイン様が自分をかばうと思って?
バーネットは底のない穴に落ちていくような、暗く恐ろしい気持ちになった……。いますぐにでも逃げ出してしまいたかった。そうせずに済んだのは、おなじく顔面蒼白で呆然とする少女が目に入ったからだ。
──あの子も、どうしたらいいかわからなくて立ち尽くしている……。
自分が犯したあやまちより、あの少女を痛めつけたという実感が、バーネットの心をひたひたと満たした。ほの暗い達成感があった。
■□■□
バーネットたち王妃付きの侍女は、別の部屋へ連れていかれた。
やがて厳しい表情のガウェインが弟アグラヴェインとあらわれ、「一人ずつ話を聞かせてほしい」と言って手分けしながら聞いていく。バーネットは緊張と恐れをないまぜにしながら、自分の番を待った。
──ガウェイン様にどう話せば……。
すぐそばまで彼が来ていた。だが、直前でアグラヴェインにこちらへ来るよう言われて順番待ちの列から離れる。ほっとした反面、ガウェインに打ち明ける機会を失ったことに後ろめたさが生じた。
バーネットは「王妃様の指示でりんごを用意したのは私です。でもそれ以上のことは何も存じません」と真実をまじえて話した。他の侍女たちが言うかもしれないなら自分で言ったほうがまし、と思ったからだ。
アグラヴェインは席を立ってガウェインに報告しに行ったが、バーネットが再度呼ばれることはなかった。
侍女たちに謹慎が下り、バーネットも城市のタウンハウスへと戻された。
窓辺から雪の吹き荒む城市を見下ろして、バーネットはあの少女がどんな思いで今ごろ過ごしているだろうと想像する。勝ち誇った笑みを浮かべようとして、代わりに涙がぽろぽろとこぼれた。
……あの子からガウェイン様を引き離すことができた。でも、私の手に入ったわけじゃない……。
むしろ、自分のせいでガウェインが窮地に追いやられたのだと分かっている。モードレッドに利用されたのだということも。それでも消えない満足感が、後悔といり混じって、醜い心をあぶり出した。
突き刺すような胸の痛みにバーネットは奥歯を噛んだ。歯を砕いてしまいたかった。
吹き荒む暗い夜空には一点の星光も見出せなかった。
■□■□■
主人のいない食卓で、アネットは揺れる火を見つめながらガウェインのことを思っていた。暖炉の前で火のぬくもりに包まれながら小指をからませあい、優しい声で語りあったのは数日前だ。
──もしいま、暖炉の火に当たったとしても、同じぬくもりを感じることはできない。
今このときだけなのか、この先もずっとなのか。アネットは頭を垂れて両手の中に包んだ。そして、耐えがたい孤独にさいなまれるように身体を震わせた。
ガウェインと出会ってからの記憶をなぞる。……あんなに心もとなかった自分を受け入れてくれた人。あたたかな優しさを注がれ、生きる喜びを持つことができた。どんな記憶もガウェインの姿形がはっきりと浮かんだ。
──あの人がいなくなったら……。
ちいさな心臓は不安に押し潰されそうだ。トクン、トクンとよわよわしく泣いている。だが、嘆くばかりでは何も変わらないと分かっている。ガウェインを助けるためなら、何に代えてでもやりたいと思っていることも。
アネットは青ざめて唇は震えていた。だが、瞳は揺れながらもしだいに決意がきらめいていく。
──あの人を失う恐ろしさに比べれば、怖いものなんて何もない。
くるくる回っていた方位磁針が、ぴたりと止まったように。アネットは立ち上がって馬房に向かい、繋がれていた馬にまたがった。
──私はまだガウェインさまを失っていない。彼を失うまで、絶対に諦めてはいけない。
そして雪の降りしきるなか、たった一人で王城へと向かった。
王城にたどり着いたアネットは、ギネヴィア王妃を訪ねた。疑いをかけられた王妃は外出を許されず、騎士たちが交代で入口を見張っている。アネットが現れると騎士たちは頭を垂れてサー・ガウェインの婚約者にふさわしい対応をした。
「申し訳ありませんが、王妃との面会は何人にも許されていません」
騎士たちの目は職務中の感情を失くしたものだった。まるで尋問されるような緊張を覚えながらも、アネットは深呼吸し、はっきりと意思を示す。
「ええ、存じております。私が会いにきたのは、王妃さまではありません……お付きの侍女のかたと話すことは可能でしょうか?」
しばらくお待ちを、と騎士の一人が席を外した。残った騎士はときおりアネットに視線を向ける。アネットは頼りなく思われないよう、けんめいに目を見開いて不安を隠した。ガウェインを失うかもしれない恐怖と決意が、すくむ足を押しとどめた。
戻ってきた騎士は、ガウェインの弟であるアグラヴェインを連れていた。アグラヴェインはけわしい表情を緩めることはせず、淡々と言った。
「……アネット嬢。私どもの前で話していただけるのであればかまいません。話したことはすべて、アーサー王陛下にお伝えすることをご承知下さい」
「分かりました」
アグラヴェインが部屋のなかに消え、ふたたび現れたときは侍女を一人連れていた。侍女たちのなかでも年上の女性だ。アネットは女性に見覚えがあった。何度も追い返されたアネットを、王妃のところへ案内してくれた侍女だ。
「アネット嬢……。先日はたいへん失礼いたしました」
侍女は騎士たちを気にしているのか、小さな声で言った。「いったい何のご用でしょう?」
用件を聞きながらも警戒されていた。アネットは乾いた口で、一つでも手がかりを探そうと言葉を絞りだした。
「あの夜のできごとを教えていただきたいのですが」
侍女は表情を変えずに首を振った。「……サー・ガウェインにも事情をお話ししましたが、手がかりは何もありませんでした。きっとお力になれることはありません」
お話しすることはできますが、と侍女は答えた。その表情は隠し事をしているのではなく、彼女自身も何かしたいと思って困惑しているのだった。
「他の侍女のかたは……」
「尋問のあと、王妃さまのお世話に必要な侍女だけ残してタウンハウスで謹慎しております。侍女たちは皆、キャメロットに屋敷を持っている領主の娘ですので」
「………」
手がかりを見つける希望が小さくなって、アネットは胸が苦しくなった。それでも胸の前で手を握りしめ、すがりつくように頭を下げた。
あの夜のできごとを、侍女は無感情に話し始めた。宴の準備や招待客のこと、宴の途中で不審に感じたこと。やがて少しずつ言葉に熱が入り、感情がにじみ出て語りだす。アネットが必死に聞き入り、真っ直ぐなまなざしで見つめていたからだ。
ガウェインに話したところまで言い終えると、侍女はこんなことを言った。
「私がお話しできるのはここまでです。ですが、他の侍女たちは知っていることがあるかもしれません。あるいは、サー・ガウェインや他の騎士に話せなかったことが」
「………」
「すこしお待ちください。侍女たちの名前と屋敷の場所を書きますから」
そう言って部屋の中に戻り、しばらくして羊皮紙を手に戻ってきた。急いで書かれたものだが、侍女たちの名前と居所がしっかりと分かる。
アネットは羊皮紙と侍女を、交互に不思議そうな表情で見た。ここまで協力してもらえると思わなかったからだ。
こんなことを言うのは失礼かもしれませんが、と侍女は言った。
「私を含め、王妃付きの侍女たちは以前、あなたに失礼を働きました。ですがあなたは他人に頼るのでなく、一人で立ち向かい、公正で辛抱強い気質を示した。あなたへの評価を改めた侍女も少なくありません。
そんな姿を見て、あなたなら話していいと思う侍女がいるかもしれないのです」
羊皮紙を差しだす侍女の手はちいさく震えていた。──怖いのだ。この人だって恐怖と戦っている。アネットは羊皮紙を彼女の手ごと包んだ。……怖いときは、誰かと手をつないだほうが耐えられる。
アグラヴェインにも確認してもらったうえで、アネットは羊皮紙を大切にしまった。侍女は願いを託すようにアネットを見つめた。
「私も、王妃さまを守りたいのです。でもここから動くことはできません。
どうか王妃さまのために、侍女たちから話を聞いてもらえませんか。私からもお願いしたいのです」
■□■□■
バーネットは手紙を書いた。
ひとつはモードレッドに宛てたもの。なぜあの少女ではなく、彼自身がりんごを食べたのか問いかけたが、これにはいっさい返事がなかった。想像通りだった。もし返事があったとしても、自分に疑いを向けられることは書かないだろう。
──はじめから、そのつもりだったのだ……。
もうひとつ、バーネットは手紙を書き終えていた。ガウェインに宛てたものだ。後ろめたさに耐えられず、すべてを吐き出すように書いた。
──この手紙を送れば、名誉の法廷はなくなって彼を救えるかもしれない。だが、それ相応の報いを受けることになる……。
迷ったあげく、バーネットは机の小棚にガウェインへの手紙をしまった。けっきょくバーネットは、自分から踏み出せないままでいた。
<つづく>
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