第31話 魔王、思い出す
「ふんふーん」
「あら?お嬢様、ご機嫌ですね。鼻歌なんか歌っちゃって」
「ほわっ!?は、鼻歌なんぞ歌っておらんわ!今のは呪詛じゃ呪詛!!」
「呪詛!?」
周囲もどよめくエリスとシェリルのやりとりを、後ろからリィが笑顔で見つめていた。
「なんだかエリス様、元気になったみたいです」
「そうだなぁ。昨日までとは別人のようだぜ……やっぱりさっきのギンギョすくいが楽しかったんじゃねぇか?なぁ?あんた大活躍だったもんなぁ」
ニヤニヤしながら顔を覗き込んでくるオリヴィスから、コウガは腹立たしそうに眼を逸らす。
右手で、もぞもぞと自分のお尻を押さえながら。
「……ふん。お嬢様に喜んでもらえたのなら本望だ」
「くくく、ありゃあ体張ってたなぁ。魚にケツ食い付かれて……くくく……ぷぁーはっはっはっ!ダメだ!思い出したら笑っちまう!!」
「笑うな!」
二人はやいのやいのと言い合いを続けながら、エリスの後を追う。
――そして、さらにその後を尾ける影二つ。
もちろん、バゼルとスオウである。
「くそっ。『ギョギョ!?びっくり魔魚すくい』作戦も失敗に終わるとは!」
「……いい加減そのネーミングセンスはなんとかならんのか」
「ギンギョに見せかけて仕込んだ凶暴な魔魚を、あの女、ゆうゆうとすくい上げおった!」
「というかむしろ、魔魚の方が率先して奴のお椀に飛び込んでたような……」
彼らは知らない。
たかがD級モンスター程度では、隠していても滲み出る魔王のプレッシャーに抗うことなどできないということを。
眼を合わせた一瞬で、魔魚たちは格の違いを悟っていたのだった。
「最後の作戦に移行するしかないようだな……!」
「まだやるのか……」
拳を握るバゼルの隣で、スオウは虚な眼で呟くのだった。
「あっ!エリスさま、リーゴ飴です!」
リィの声に、エリスがぱあっと表情を明るくする。
「おお!ついに見つけたか!!」
「……買うんですか?リーゴ飴のクーポンはないんですけど」
「買うわっ!何しに来たんじゃ!!」
渋るシェリルを無視して、エリスはリィと一緒に屋台の前まで向かった。
一見、鍛冶屋のギルドマスターかと思われるような筋骨隆々の老人が、華麗な手捌きで飴を次々とリーゴに塗り固めている。
「彼がリーゴ飴の達人ゴリゴさんですね」
ウィスカーが老人に視線を送る。
「おお、ウィスカーさんじゃねぇか。あんたんとこのヴァッテリーのお陰で、外でも簡単に飴を加熱できて助かってるよ」
「外で加熱できると何故助かるのじゃ?」
「そりゃあ嬢ちゃん。外で売るのに、あらかじめ作っておかなくてもいいからよ。今朝もぎたての、新鮮リーゴが使えるのさ……って、聖女様じゃねぇか!こ、こんなとこまでお越しいただけるとは!」
慌てて畏まるゴリゴに、エリスは頬を膨らませる。
「聖女ではない!」
「ふふ。もぎたてのリーゴが使えることについては、最も近いリーゴの群生地である真鍮の森が解放されたことも大きいんですよ。ねぇ、ゴリゴさん?」
「ええ、ええ。俺ら、果実を売りもんにしてる連中にとっちゃあ、聖女様はまさに神様なんでさぁ」
腰を低くした姿勢のまま、ゴリゴはゆっくりと、盛り上がりを見せる祭りの様子に眼を遣った。
「俺たちだけじゃねぇ。近くからモンスターがいなくなり、最近じゃ聖女様の騎士さんたちや、新顔の神殿騎士さんたちが見回りしてくれるもんで、治安が良い。聖女様が考えたっていうヴァッテリーや聖女の秘薬も、皆すごく助かってる。ほんと、この街がこんなに活き活きしてるなんて、久しぶりでさぁ」
ゴリゴが眼を細める。居合わせた人々も皆、その言葉に笑顔で頷いていた。
「まるで、奥様が生きておられた頃のようで……」
そう呟いてゴリゴは、はっとした顔でエリスの様子を窺う。
――奥様?……母さ、いやエリス・ファントフォーゼの母親のことか。
少し。
ほんの少しだけ、エリスの胸が苦しくなる。
三日前に、リーゴ飴の話を聞いた時と同じ、感覚。
「……そんな話を聞きにきたのではないわ。これ、そこの。さっさとリーゴ飴をよこさぬか」
「あ、はい、ただいま!」
ゴリゴの弟子であろうか、まだ若い売り子が、リーゴ飴をエリスとリィに差し出す。
宝石のような赤く丸い果実の周囲を薄く飴が覆い、食べやすいように串が刺してある。
「これがリーゴ飴?……どこかで見た覚えがあるような……」
エリスは舌をぴょこっと出して一口舐めてみた。
――甘い。
周囲の飴はとてもとても甘かった。
次にエリスは大きめに齧り付いてみた。
パリパリと音を立てながら飴が割れ、間をおかずシャリっと果実が口に入る。
飴の甘さと、果実の甘酸っぱさがマッチして、舌の上で踊る。
なるほど確かに、これは子供にも大人にも人気が出そうだ。
――しかし、大陸一とは言い過ぎじゃな。
エリスはふんと鼻を鳴らした。
所詮は大衆向けの甘味であって、洗練とは程遠い。
リィの作るお菓子の方が、遥かにエリスの好みであった。
……そうだったのだが。
「エリスさま!?大丈夫ですか!?」
「……なにがじゃ?」
リィの驚いた声を聞いても、最初エリスは事態が呑み込めなかった。
だが、すぐに気が付く。
自分の頬を、涙が伝っていることに。
――なんじゃ、これは……。
袖でごしごしと拭き取るが、次から次へと熱いものが溢れて止まらない。
その状況に呆然としながら……
エリスは、エリス・ファントフォーゼの記憶の蓋が開く音を聞いた。
エリスが、五歳の時。
大病から奇跡的に快復したエリスには、ずっとずっと、楽しみにしていたことがあった。
それは、聖誕祭に行くこと。
ずっと家の中にいたから、人混みは少し怖かった。
でも、手を引いてくれる人がいたから、安心して歩くことができた。
聖誕祭は、何を見るのも新鮮で、エリスは心から楽しんだ。
エリスは、赤くて大きいリーゴ飴を買ってもらった。
とてもとても甘くて、美味しかった。
喜ぶエリスを、その人は嬉しそうに見つめていた。
何故かその後、体調が悪くなって帰ることになってしまったけど、エリスはまた来年も聖誕祭に行きたいと思った。
でも、翌年……母が亡くなった。
手を引いてくれる人がいなくなって、エリスは外に出られなくなった。
それから一度も、聖誕祭には行っていない。
――なにを、泣いているのじゃ、わらわは。
今のエリスの自我は、魔王エリス。
エリス・ファントフォーゼの記憶など、他人の記憶のようなもの。
だが。
魔王の記憶が蘇る前、エリスは確かに、エリス・ファントフォーゼとして人生を歩んでいた。
その時の経験は間違いなくエリスのもので、その時感じたこと、思ったことも、またエリスのものであった。
――この感情は、わらわのものではない。わらわのものでは……。
エリスは頭で否定する。
しかし、この胸の奥から湧き上がる気持ちは、言いようもなく、自分のものだった。
再び記憶の波が、エリスを包み込む。
エリスは、もう一度聖誕祭に行きたかった。
母との思い出があったから。
でも怖くて、結局、毎年家に篭っていた。
誰か、手を繋いでくれる人が居たなら。
そう、誰か……。
そしてエリスは、自分の顔を覗き込んでいる存在に気がついた。
「エリスさま……?」
リィが、心配そうな顔でそこにいた。
エリスの手を、しっかりと握って。
エリスはその手を少しの間ぼーっと見ていた。
「どうしたのお嬢様?リーゴ飴が目に沁みた?」
「沁みる成分は入ってないと思うよシェリル……」
耳に、夫婦二人の声が届く。
遠くからは、護衛二人の言い争う声が聞こえた。
エリスは胡乱げな表情のまま、その声のする方を目で追い、そして……
ほんの僅かだけ、口元を緩めた。
――ふん。……なら、良かったではないか。エリス・ファントフォーゼよ。
再び、リィに視線を戻す。
「なんでもない。これは……甘いのう、リィ」
「……はい!」
安心したように、リィは微笑んだ。
その時だった。
帽子を目深に被った男が、エリスに向かって小走りに移動を始めた。
明確な害意を纏い、男は一気に距離を詰めていく。
後ろで言い争っていたコウガとオリヴィスがその気配を察知し、鬼の形相を向けると同時に走り出した。
しかし、周囲の人間の存在がその速度を鈍らせる。
「くそっ!ぬかった!」
男の魔手が、エリスに伸びる。
何故かエリスは棒立ちのままであり、男には気づいていない様子だった。
「ちっ!仕方ねぇ、無理やり押し退けてでも道を作るぞ!!」
「言われるまでもない!」
オリヴィスが肩を回す。
コウガも、腰を屈めて跳躍の姿勢に入った。
しかし。
「皆が笑顔のお祭りで……無粋だね」
「うげっ!?」
男の体が、不意に宙を舞う。
何が起こったかわからず、男は眼を瞬いた。
何者かが、男の足を蹴り上げたようだった。
男はそのまま、受け身も取れずに近くの資材置き場に突っ込む。
衝撃で雪崩を起こした材木に押し潰され、男はすっかりのびてしまった。
「無事かい?美しいお姫様」
蹴り上げた右足を静かに戻しながら、旅人のいでたちをした一人の青年が、エリスの方へと向き直った。
その青年を一目見て……リィは、最近絵本で見た王子様みたいだ、と思った。
美しい銀髪に碧眼の端正な顔立ちと、洗練された立ち姿。
そしてなによりも、青年の放つ、その圧倒的な存在感。
例え旅人の格好に身を包んでいても、彼がただならぬ身分の者であろうことは、誰しもが一目で理解できた。
「……なんじゃ、お主は」
エリスが青年をじろりと睨む。
その時少しだけ。
風が吹き、皆の髪が揺れた。
周囲の精霊たちが騒めいたのを、リィは聞いたような気がした。
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