プライステイスト
静かな部屋の中に二人。互いに干渉することなくそれぞれの作業をしている。
一方は無音で、もう一方はカタカタと音を立てながら何かを見ていた。
ふと、音がやんで完全に無音になる。しばらくすると再び音がしたがすぐにしなくなった。
「ねぇ、俺高いワイン飲んでみたい」
音を立てていたラップトップのモニターに様々なワインを映した青年は、後ろにいる仏頂面の男にそう話し掛ける。だが、彼はちらりとモニターを見るだけで、その場から動こうとしなかった。
「高いワインだぁ? ワインなんてのは、三千円くらいで十分だ」
「えぇー。そんなことないってー」
「お前、飲んだことあんのか?」
「ないから飲んでみたいの! そういうコウだって飲んだことあるの?」
「あるから三千円くらいでいいっつってんだ。タクトも聞き分けがねぇな」
コウはそう言うと、読んでいた本を閉じてようやく立ち上がってタクトに近付く。そして彼の横へ座ると、モニターを覗き込む。
タクトの見ていたページを何度かスクロールさせながら、元に戻ったところで伸ばしていた手を離した。
「あー、これか。これはそんなに美味くねぇな」
「えっ、そうなの? 評価は結構良さそうなのになー……」
「タクトのお子ちゃまな感覚じゃ分からねぇだろ」
「失礼な! お酒を飲めるようになってもう二年は経つから!」
「俺にとっちゃいつまでも変わんねーよ」
ムッと頬を膨らましながらコウを見るタクト。
そんな姿の彼にコウは無表情で顎を掴むと、顔を近付けて唇を重ねた。少し強引なその行為は、さっきまで騒いでいたタクトを落ち着かせるための行為であった。
しばらくすると、タクトはじっと動かずに大人しくなった。
それに気付いたところで、コウはゆっくりと彼から離れていく。
「……分かったか?」
「いっつもそればっかり……」
「あ? 文句あんのか?」
そう言われ、叱られた子どものように黙り込むタクト。だが、モニターからは決して目を離そうとしなかった。
やれやれ、といった様子でコウは動き出し、どこかへと向かっていった。
奥の方でガサゴソと音を立てて何かを出そうとしている音が聞こえる。
すぐに戻ってくると、その手には手に馴染んだグラスと、お洒落なラベルの貼られたボトルが握られている。赤ワインである。
わざと豪快な音を立ててテーブルにそれらを置き、慣れた手付きで栓を開けていく。溢れないようにそっと注がれる濃い色の液体が、透明なグラスに色を付けていく。
半分より少し多いくらいに注がれたところでコウの手が止まり、ボトルがテーブルに置かれた。そして入れたばかりの液体が入ったグラスを手にし、口元へと近付けていく。
体温が影響されないように持たれたグラスの中身を少し口に含み、その風味を楽しんでいる。
それに気付いたタクトは、コウの方を振り返り、彼に近寄る。
「あー!! 自分だけずるい!!」
「お前は高いやつがいいんだろ? これは高くねーぞ」
「それでも、コウと一緒に飲みたい!!」
しかし、そんなタクトの言葉を無視し、黙々と飲み続ける。
いつか何か応えてくれるとじっと彼のことを見つめ続けているが、飲み干したグラスにボトルの中身を注いだだけで何も言わなかった。
「もー!!」
タクトはラップトップの前に戻ると、カタカタと指を動かして何かを操作している。それでもコウはタクトに見向きもしない。
しばらくすると音が止み、タクトの手がキーボードから離れていった。そして電源をラップトップから外すと、それを持ち上げてコウの方に近寄っていく。
そこに映されていたのは、注文確定と大きく書かれていた画面であった。
「コウ、見て! 高いワイン頼んだからね!」
「どうせ無駄遣いになんだろ」
「そんなことないもん!!」
これ以上口で反撃できないと察したタクトは、ラップトップを抱えたまま部屋から飛び出していった。
「はぁ……」
溜め息を付きつつも、タクトの姿を確認しないコウ。その場でゆっくりとワインを飲んでから、読みかけの本に再び手を伸ばす。
内容が頭の中に入っているのか傍から見たら分からないが、淡々とした勢いでどんどんページを捲っていく。
しばらくすると、最後のページに辿り着いたようでその手で本が閉じられた。
その間、グラスの中身は一滴も減らなかった。
意識がようやくそちらへと戻っていったのか、味わう素振りもなくグラスに残っていた中身を一気に飲み干した。それからボトルの中身を注ぎ足したが、数口程度でこれ以上入ることはなかった。
無言で入っていくのを眺め、ボトルから一滴も出てこないことを確認してからテーブルに置く。
酔いが回ってきたのか、力加減が分からずに大きな音を立てる。
残りのワインをすぐに味わうのかと思えば、グラスを持ったままじっと見つめている。その体勢のまましばらく動かない。
ハッとして気付けば意識が半分なくなっていた状態から戻ってくると、コウはすぐにグラスを空にした。
本をテーブルに置くと今度は立ち上がり、ボトルとグラスを持って部屋の灯りを消してからキッチンへと向かった。
グラスをさっと洗ってボトルをシンクに置き、欠伸をしながら洗面所へと向かう。
鏡を見ながら歯を磨き、寝る支度を整える。一人であれば適当に済ませていたが、タクトが口うるさく言うおかげですっかり身に沁みていた。
口をゆすいで用を済ませ、自分の部屋へと去っていった。
***
ピンポーン──
静かな部屋に玄関のチャイムの音が響き渡る。タクトはバタバタと急ぎながらそこへと向かう。
「こんにちは、お届け物です」
「はーい」
返事をしながらドアを開ける。注意書きのシールがでかでかと貼られた箱を持った人が立っており、タクトの姿を確認すると伝票の準備を始める。
「こちらにサインをお願いします」
渡されたペンで指定された場所に自分の名前を書き、それらを返す。それと引き換えに、タクトは荷物を受け取る。
「ありがとうございました」
去ったと同時にドアを閉めて施錠する。荷物を慎重に運びながら、部屋へと戻る。
誰もいないその場所で、テーブルにゆっくりと箱を下ろす。離れたところにあるペン立てからカッターを取り出し、カチカチと弄りながらいそいそと戻っていく。
再び箱と対面すると、カッターの刃をぐっと出して箱の隙間に優しく入れる。箱の隙間を塞ぐ粘着テープだけを丁寧に切っていく。
一辺と少しを切り終えて今度は反対側を同様に開封していく。慣れた手付きで手を動かしていき、あと少しで開けられるところになった。厳重に封をされているそこは、一直線に通すだけでは切れない構造となっている。
半分程度いったところで一旦離し、中心の差し込み口の窪みを探り当てながら刃を差し込む。より慎重になりながら切る。
終端手前で止め、抜いてから少し繋がっている部分を指で切っていく。
そうして完全に切れた箱を開けると、割れないように厳重に梱包されたものが入っている。タクトは目を輝かせながら梱包材を一つずつ剥がしていく。
紙は小さく畳みながら、気泡梱包材は気泡を潰してから畳んでいく。
どんどん床に積み上げていきながら全てを取り除くと、木箱に入ったワインが三本並んで入っている。それらを箱から取り出し、テーブルに寝かせるように並べていく。
「わぁ……」
改めて並べられる高価なものに、感嘆の声が漏れる。この光景がタクトの余計に心を踊らせ、鼻歌交じりにテーブルの上を片付けていく。
箱を閉じた状態に戻し、カッターを持って立ち上がる。カッターは元の場所に、箱は彼の自室へと、それぞれ移動させていった。
空いた手は部屋からエプロンを探し、見つけると身に付けながら出て行った。
そのままキッチンへと向かい、丁寧に手を洗う。よし、と意気込んで冷蔵庫の前に立ち、事前に買ってあったものを取り出していく。
鶏肉、白身魚、トマト、レタス、レモン、にんにく、ローズマリー、すでに混ぜ合わせた調味料。それらを手にして広い調理台へと移動する。
次に、シンクの斜め上にある棚から塩、胡椒、その真下からはオリーブオイルを手にとって食材の横に並べる。
それから、包丁、まな板、ボウル、ザルを取り出して中央に並べていく。
そうして準備を整えると、まず白身魚を手にする。皮を丁寧に剥がしていき、身を一口大に切っていく。切り終えると、ボウルに混ぜ合わせた調味料と切った魚を入れて味を染み込ませるように揉み込んでいく。
しっかりと全体に混ざったところで包丁と手を洗い、ラップを掛けて冷蔵庫へと戻していった。
再び戻ると今度はレタスを一枚一枚剥がし、まだ切っていないトマトと一緒に中に入れる。それらを水で洗い、ある程度水気を切ってからまな板の横まで戻し、トマトを食べやすい大きさに切ってから置いておく。
その次に鶏肉に手を伸ばす。皮面を下にしてスジを切り、同じように一口大に切る。全て切り終えると今度は反対側にして皮面に包丁を少し差し込んでいく。
包丁を流しに持っていきながら再び手を洗い流し、並べていた調味料の中から塩、胡椒をそれぞれ振っていく。適量が全体的にまぶされたところで、ローズマリーを人差し指の半分程度の長さにちぎり、切った鶏肉に揉み込んでいく。
皮付きのにんにくを手に取り、一欠片ずつに分けていく。そのうちの半分をみじん切りに、もう半分を輪切りにしていく。切り終えるとその横へ切って味付けをした鶏肉を乗せる。
にんにくのにおいを放つ包丁を流しに戻し、再び手を洗う。
切ったばかりのにんにくと鶏肉を乗せたまな板とオリーブオイルを手にしてコンロへと向かい、一旦それらを手前に置く。
真下のスペースからフライパンを取り出すと、中火でフライパンを温める。
ある程度したところでオリーブオイル、みじん切りにしたにんにくを入れて馴染ませていく。
独特の香りがしたところで、輪切りにした方を入れてオリーブオイルの香りを移していく。タクトはその香りを楽しみながら、皿を探す。
適当に取り出した小皿を手に、大きいにんにくの欠片だけをそこへ移していく。
液体だけになったフライパンに肉を敷き詰めるように、皮の面を下にして並べていく。なんとか全てを並べたところで、弱火にして蓋をする。
手が空いたところで、タクトは溜まった洗い物を片付ける。においの強いものは念入りに洗い、しっかり洗えたか確かめる。
確認を終えたところで洗い終えたものを干していき、再び冷蔵庫へと向かう。味を染み込ませているボウルを取り出し、耐熱皿へと並べていく。
並べ終え、ボウルに残っている調味料を全体に掛ける。香辛料がタクトの鼻腔をくすぐり、自然と笑みを浮かべさせる。
それをオーブンレンジへと運んでいき、温度と時間を設定して焼き始める。
ようやくタクトの手が空いたところで、彼は何かを思い出したように再び冷蔵庫へと向かう。上の段に置かれた瓶を手に取る。
色鮮やかな棒状の野菜の酢漬けがぎっしりと入っており、ゆっくりと蓋を開けていく。酸味の強いにおいが放たれる。
そこから野菜だけを取り出し、新たな皿の上に並べていく。色が重ならないように順番を考えているようだ。
全て並べ終えると、皿だけを持ってワインの置いてある部屋に向かう。ワインボトルをテーブルの中央に並べ、その横に皿を置く。鮮やかなその光景に、タクトの口がにんまりとなる。
しばらくその光景を眺め、ふとフライパンで焼いていた鶏肉の存在を思い出す。普通の足取りで戻っていき、再びその前に立つ。
蓋を開け、湯気と共に香ばしいにおいが放たれる。はぁ、と溜め息を漏らしながら火を止めて皿に盛り付けていく。皿の中央に並べられたそこにフライパンに残った液体を掛けるが、周囲には余白がかなりあった。
まな板のところまで行くと、水気を切っていたレタスを手でちぎり、その上にトマトを並べていく。
野菜で囲われた鶏肉が完成し、心を踊らせながら運んでいく。
テーブルの上は徐々に彩りが増えていき、華やかなものへと変化している。まるで、タクトの心を表しているようだ。
残り一つの料理のために再度キッチンへと戻る。まだ焼き上がりまで少々時間が掛かるようで、手持ち無沙汰になったために広げていた調味料を元の位置に戻し始めた。使った痕跡のないようなきれい状態にしているようで、時間を掛けているようだった。
だが、あまり数を出していなかったためすぐに終わってしまった。どうしたものか、と考えていると玄関からガチャガチャと音がした。
「ただいまー」
「あ、コウ、おかえりー」
バタバタとした足取りで帰ってきたコウの元へと近寄る。
「……今日はなんかあるのか?」
「この前頼んだワインが届いたんだ。だから、俺がいっぱいそれに合うもの作ったよ」
笑顔でそう語るタクトであったが、コウの表情はあまり晴れやかなものではなかった。しばらく疑いの眼差しを向けていたが、ふと手に持っていた白い箱の存在を思い出して彼に差し出す。
「そうだ。土産を買ってきたんだ。デザートだから冷やしておけ」
「やったー! 冷やしておくね。何かな何かなー」
タクトは箱を少し開けながら冷蔵庫へと向かう。その中には薄いピンク色のものが入っていた。
「美味しそう……」
開けたところをそのまま閉じ、冷蔵庫の中央へと入れた。
その姿を確認したところで、コウは黒いジャケットを脱ぎながら自室へと向かっていく。
ホコリをブラシで払い、太めのハンガーに掛けて部屋の中に干しておく。ヒョウ柄のズボンも同じようにして整え、その隣に並べる。
シャツを脱ぎ、部屋着に着替えながら洗面所へと向かっていると、キッチンの方から何かを知らせる音が鳴っていた。
オーブンレンジが焼き上がった音であった。コウはちらりとそちらを眺め、タクトが何か作業をしようとしている姿を目にしてから洗面所で手を洗う。
ようやく一段落したところでタクトの元へ近付いてみると、空腹を加速させるようなにおいを放つものがそこにはあった。
「スパイス……タンドリーチキン、じゃねぇな」
「惜しい! タンドリーフィッシュでした」
「なかなか美味そうなもん作るじゃねーか。どれ……」
「だーめー。熱いしせっかくだからワインと一緒に!」
コウの手を制しながらタクトは焼き上がったばかりのタンドリーフィッシュを運んでいく。これでようやく夕食の準備が整ったようだ。
よし、とエプロンを脱ぎながら戻ろうとすると、フォーク二つとワインオープナーとトーションを持ったコウが部屋に入ってきた。
「コウ、ありがと。ちょっと待っててね」
バタバタとエプロンを洗面所の洗濯機のところへ入れ、キッチンの棚からワイングラス六つを手にしてから部屋へと戻る。左側の定席にコウはすでに座っていた。タクトもその隣に座る。
「さっきのはタンドリーフィッシュで、チキンのガーリックソテーとピクルスか? やけに一皿の量が多いし、パンも何もねぇのか」
「ピクルスは合ってるけど、チキンはローズマリーも使ったよ。俺的にはワインはつまみながら食べるイメージだからこれだけ。あとはデザートにコウが買ってきてくれたムース」
「まぁいい。久々にタクトの料理の腕前を拝見といこうか」
そう言いながらコウは並べられたワインから自分に一番近い左端のボトルを取った。それは赤ワインであった。
ワインオープナーのナイフを出し、ボトルの口を覆うカバーに切れ込みを入れる。かなり手慣れているようで、ボトルを回すことなくきれいに切られていく。
あっという間にくるりと一周させると、サッと取り外して出てきた破片をテーブルの端に置く。
ナイフをしまい、今度はスクリューを出す。少し寝かせた状態で先端をコルクに突き刺し、しっかりと確認したところで全体を垂直に起こす。真っ直ぐ垂直に、何度もやってきたその手はいとも簡単にやっていく。
その手付きを、タクトは横で目を輝かせながらまじまじと眺めていた。
ある程度のところまで入ったところでコウの手は止まり、ボトルの端にナイフを引っ掛ける。左手でボトルとナイフを押さえ、右手で引き上げていく。
垂直方向に引き上げるようにしていくと、その手はいとも簡単にコルクを抜いて開栓したのだった。
「おー……。さすが現役ソムリエ」
「まだ見習いな」
最後は優しく手で引き抜き、コルクが完全にボトルから離れていった。
刺さったままのそれを、無意識のうちに香りを確かめるコウ。その姿に首を傾げながらも普通であると認識されていた。
視線に気付き、刺さったままテーブルへ置いてからボトルをタクトのグラスに傾けていく。少量入れたところで、自分のグラスにも注いだ。
入れ終えたところでトーションで拭いながらゆっくりボトルをテーブルに置き、ようやく準備が整った。
タクトがグラスを持つと、自然とコウも同じ動作をする。
「それじゃ、カンパーイ」
軽くグラスを鳴らし、タクトは念願のワインをゆっくりと口にしていく。
その横でいつも通りに飲んでいくコウ。特に味わうこともなく、あっという間に飲み干してしまった。
次の一杯を入れていると、タクトの表情が次第に変わっていった。段々と眉間に皺が寄っていく。
「うぅ……。渋い……」
「だから言っただろ。タクトのお子ちゃまな感覚じゃ分からねぇって」
「んー……」
「ワインは高けりゃいいってもんでもねぇ。味やアルコール、そもそもグラスから変わってくる。それに、タクトは割と甘めの味付けが好きだろ。スパークリングかジンジャーエールでも割っておけ」
そう言いながら、コウの手はタクトが作ったチキンへと伸びていた。タレを絡ませながら、一切れ口に入れて味わう。
「でも、自分の好みのワインを選ぶセンスはねぇが、ワインに合う料理は悪くないな」
「ほんと!? 美味しい?」
「あぁ。俺的にはもう少しにんにくを減らしてほしいがな」
コウに自分の料理を褒められたことにより元気を取り戻したタクト。自分で作ったものを味わいながら、再びワインを口にした。
料理の口直しになったのか、いくらか表情は和らいでいたがそれでもまだ赤ワインの味わいに慣れていないようだ。何度も肉を食べながら、少しずつ飲んでいる。
「タクト、ちょっと待ってろ」
見ていられなくなったコウがそう言いながら立ち上がり、キッチンへと向かった。食器棚からマドラーを取り出してから冷蔵庫を開け、寝かせてあったペットボトルを一本取り出す。それはジンジャーエールであった。
席へ戻り、彼の言い付け通りきちんと待っていたタクトのグラスに、残っていたワインと同量のジンジャーエールを入れる。そこへゆっくりとマドラーを入れてかき混ぜる。
「ほら、これならお前でも飲めるだろ」
差し出されたグラスをゆっくりと近付け、恐る恐る口にする。タクトの口の中に入った瞬間、そこから甘みが広がっていき、彼の表情が一気に晴れやかになっていく。そして一気に半分ほど飲み干した。
「これ美味しい!!」
「だろ。キティって名前だ」
「なんか可愛い名前だね」
そう言いながら再び味わうタクト。あんまり飲み過ぎるなよ、と声を掛けられて間に何かを食べながら飲み続ける。
その手がタンドリーフィッシュへと伸びていき、コウはその存在を思い出した。コウも同じように一切れ取ると、しっかりと味わっていた。
「ん。上出来だな。こっちは赤よりも白の方が合いそうだな」
白ワインのボトルとワインオープナーを彼の元へと近付ける。赤ワインのコルクを外してから白ワインのボトルを開けていく。
全然酔っ払っている様子もなく、手際よくあっさりと外してしまう。新たなグラスを取り出し、そこへ白ワインを入れる。
「タクト、まだこっちの方が飲みやすいと思うぞ。お前の作ったタンドリーフィッシュによく合う」
コウはタクトにそう言いながら差し出す。妙に優しいその仕草に、一瞬のときめきを覚えながら受け取る。
飲みやすいと言われたせいか、特に躊躇った様子もなく口に含んでいくタクト。しかし、しばらくするとあまり美味しくなさそうな表情を浮かべていた。
「うー……。赤よりは飲みやすいけど、うーん……」
「こっちも早かったな。同じようにジンジャーエールでも割っておけ」
「白の方は何て名前?」
「オペレーターだ。白い方がかっこいい方とでも覚えておけ。店に行ったときかっこつけられるぞ」
「俺はコウ以外にかっこつける人がいないからそれはいいもん。覚えてはおくけど」
むすりと口を尖らせながらボソリと呟く。
しかし、何かに反応したコウはジンジャーエールを入れながら少しずつ笑っていき、限界になると途中でボトルを置いて手から離した。そして大声で笑っていた。
「ははははは!! お前が、俺の前でかっこつけるだって!? はははははは、十年早えよ!!」
「んなっ!? 確かに、俺とコウはちょっと年離れてるけどさ……。そこまで笑うことないじゃん」
「ワインの味も知らねーで、よくもまぁ言えたこった」
「っ……」
「でもな!」
今にも泣きそうになっていたタクトの言葉を遮り、タンドリーフィッシュを一口食べてから言葉を続けるコウ。
「でもな、こんなに酒に合う料理を作れるお前は相当なもんだぞ。俺は味わうことしかできねーけど、お前は違う」
「コウ……」
「たまに俺の舌には合わねーけどな」
「もう! なんでそんな……むぐっ」
口を開いたところで、タクトの口に食べようとしていたタンドリーフィッシュをぐいと入れる。与えられたものに反射的に口を閉じ、無言で噛み砕いていく。
驚いた表情のまま飲み込むと、自らの料理の味に感動していた。
「あ……これならそのままでも飲めるかも……」
「もう一度言っておくが、あんまり飲み過ぎんなよ。度数そこそこあるからな」
それだけ言い残すと、コウは再びキッチンへと向かった。冷蔵庫に入っている残りのジンジャーエールを全て取り出し、テーブルの上のワインの横に並べていく。
大量のボトルが並んでいく中、タクトはグラスに残っているそれぞれのワインを空にしつつ料理を楽しんでいる。
味の濃い肉と魚の合間に、ピクルスを少しずつ齧っていく。その味の変化が余計にタクトの調子を上げていた。
そんな姿を横目で気にしながら、コウもゆっくりとワインを味わっていた。どうやら白ワインの方が気に入っているらしく、上機嫌になったように見えた。
時折食べ物をつまみながらワインをどんどん空けていき、あっという間に半分以上なくなってしまった。
「コウ~、最後の一本も開けて~」
だいぶ酔っ払ってしまったタクトが残っている一本も飲みたいとせがんでいる。
寄り付いている彼を振り払いながらも、その手付きで最後のワインを開けた。ゆっくりとグラスへ注いでいくと、シュワシュワと音を立てながら薄ピンクの液体が入っていった。ロゼスパークリングワインであった。
「これは初めてだな」
一人でそう呟くと、どのワインよりもゆっくりと味を確認している。一口含んだままほとんど動かずにじっとしている。
一方のタクトは、コウに入れてもらったことを喜びながら、ぐいぐいと飲んでいく。
じわじわとにこやかになっていくコウに対し、タクトはまるで子どものようなはしゃぎようだった。
「コウ! これ一番美味しい!!」
「そうか、よかったな」
言葉とは裏腹に、タクトの様子に不安を抱く。食事を始めた頃よりも、彼の飲むペースは早くなっていき、ジンジャーエールもどんどん空にしていく。
失敗したな、と思いつつも、まだ上機嫌にしているだけであったため特に何もせずに自分の食事を堪能している。
肉と魚を交互に口にしながらワインを味わう。炭酸がさっぱりとした感覚を広げ、食べ物を欲するようになっていく。
他人の心配をしているコウも、徐々にテーブルの上のものを減らしていき、食べ終わる頃には薄っすらと顔を赤くしていた。
「あ~。もうほとんどないの~?」
「お前、まだ食べる気か?」
「う~ん。ごはんはもういいけど、ワインはもっと飲みたいな~。ねぇ、コウのストックないの~?」
若干の物足りなさを感じ、コウは真剣に自分の買い置きしてあるワインのことを考えた。しかし、酔っ払ったタクトの発言であることを思い出してすぐに頭の中から振り払った。
「タクト、お前はこれ以上飲むな」
「え~? なんで~?」
何度もコウに問いながら近付いていくタクト。その目は自然と上目遣いになっており、彼の上に乗っかりながら誘惑していく。
あっ、と小さな声でコウが呟いたと思うと、その口を優しく塞いでいた。
触れ合うだけのキスはしばらく続き、気付けば部屋は静寂に包まれていた。コウは一切振り払う素振りを見せず、ただじっと受け入れていた。
ようやく満足した様子を見せると、ゆっくりとタクトは離れていった。
「ねぇ……ちょうだい?」
甘える声で首を傾げながらそう囁く。
はぁ、と溜め息を付きながら手でタクトを下ろすと、立ち上がって空いた皿とグラスを持ってキッチンへと向かう。
食器を流しに置いて水に漬け、冷蔵庫の隣に置いてある棚を開ける。そこには様々な酒が置いてあり、一番下にあった黄色い箱を取り出して再び閉める。そこからボトルを取り出して中身を露わにする。
半透明なボトルの中には、濃い黄色の液体が入っていた。
それを持ちながら、食器棚から普通のカップを二つ取り出す。プラスチック製の割れにくいものであった。
両手でそれらを持ちながら、タクトの座る部屋まで戻る。
テーブルにカップを並べて置くと、手で簡単に切れるカバーを外し、ペットボトルのようなキャップを開ける。
液体が流れ出ていく音を立てながらカップに並々と注がれていく。
「ねぇ、これなーにー?」
「ほら、飲んでみろ」
入れ終えたカップを差し出し、タクトへ勧める。
一体何なのかを考えながらゆっくりと口を付けていく。それが入っていくと、甘みと酸味を含んだ柑橘類の爽やかな味わいが彼の中に広がっていく。
「柚子……?」
「正解だ。ずっと気になってた最高の一品だ」
「これもワインなの?」
「あぁ。店では出してないが、前に土産で貰ってずっと気になってたんだ。家でしか飲めないからな」
「へぇー……」
真剣になって口数を減らしながら味わっていくタクト。どのワインよりも真剣に、丁寧に味わっている。
そんな姿を観察しながら、コウもようやく飲んでいる。
「タクト」
カップを空にしたタクトの名前を呼び、振り返ったところで自らの方へ抱き寄せる。今にもぶつかりそうになったところで額を合わせて止めた。
「お前の腕なら、このワインに合う最高の料理を作れるはずだ。次に買ったときに作ってくれ」
「うん……。次作るね」
タクトがニコリと笑うと、コウも釣られて同じように笑う。そこへ、タクトの唇が近付けられていき、ゆっくりと触れ合っていく。
唇に残ったワインの甘酸っぱさが互いの舌を刺激し、どんどん絡み合うまでに深くなっていく。奥の奥まで貪りたい、そんな気持ちがコウの中に芽生えていく。
だが、タクトは自ら離れていき、ニコリと微笑みながらコウを見上げる。
「飲ませてぇ~……」
「おう」
コウは自らのカップに残っていた中身をある程度口に含むと、タクトの顎を掴んで唇を重ねていく。微妙に開かれた口からゆっくりと彼の体温によって少し熱を含んだ液体が入っていく。
一滴も零さないように慎重になりつつも、大胆に飲み下していく。ゴクリと喉が鳴る。
一口目を全て飲み干し、再び離れていく。タクトはニヤリと笑みを浮かべながら、もっと欲しい、とねだる。
それに心を動かされてコウはカップに残っていた全てを口にし、先ほどよりも若干荒々しく重ねていく。その勢いがうっかり口の端からワインを零していき、タクトの口の端から伝い落ちる。
堪能したいもっと繰り返したい、とコウの中に様々な想いが募っていき、タクトに触れながら新たにワインをカップの中に注いでいた。
二度目の触れ合いに満足したところで、再び離れていった。再度コウが飲もうとしたところで、その行為を制止された。
「今度は俺が~」
タクトがコウからカップを奪い、それを口の中へと入れていく。しかし、その勢いのままゴクリと飲んでしまった。
あっ、と小さく呟くと、目の前のカップを持った男は堪えながら徐々に笑いが大きくなっている。
自分の行動のせいではあるが、他人に笑われると不本意でしかなかった。頬を膨らませながらコウを睨む。
その行為に愛おしさすら感じており、そっと手を伸ばしたコウの手は今までの中で一番優しく髪を撫でるという刺激を与えていた。
的確に与えられるその刺激はタクトをうっとりとさせ、若干興奮状態にあった彼を落ち着かせる効果すらあった。その手に心を委ね、ゆっくりと目を閉じていく。
「んっ……」
「タクト」
囁くような低く優しい声、それを合図にしたかのように頭を擦り寄せていく。その動きはまるで子猫のようだ。
タクトはゆっくりと目を開けて目の前にいる姿を確認する。今日一番の優しい笑みを浮かべたコウが目の前にいる。
「もう一度、やってみせて」
完全に両目を開いたところへ残り一口しか入っていない飲みかけのワインが入ったカップを渡す。
少し震える両手が包み込むように差し出されたそれを受け取り、しばらく中身を眺めていた。
ようやく意を決して口の中に含み、カップを床に置いてからコウの上に乗っかるタクト。コウの顔より少し上から唇を重ねていき、彼が先ほどやっていたように与えていく。
慣れていないのか、すぐに口の端から溢れてしまっていた。だが、そんなことを互いに気にすることなく、触れ合いが続いていた。
飲み干してもなお続く二人の交わり。タクトの腕がコウの肩をぎゅっと抱き締め、コウの腕がタクトの身体を抱き寄せていた。
ぐっと近付けられたことによりタクトの顔はコウの首元へと移動してうずめていた。
自らの額をコウに擦り付け、少しでも多くの刺激を求めていく。しかし、その動きは徐々に止まっていく。
「タクト」
呼び掛けても返事がない。聞こえてくるのは規則正しい呼吸だけであった。
ようやく落ち着いた様子に、ほっとするコウ。自分の身体に乗っかっているタクトの背中をそっと撫でながら、飲みかけのワインを手にしてカップに注ぐ。
半分程度入ったところでボトルから一切出てこなくなり、完全になくなってしまった。
ボトルからカップに持ち替え、最後の一杯を静かに味わっている。その上にある温もりを感じながら。
この一杯に満足感を得ながら、次はタクトの料理と共に味わいたいと考えていた。
今日のところは、食べ終わった皿を眺めながら料理の味を思い出し、最後の一口をぐいっと飲んでいった。
そうして完全に飲み切ったところで、グラスをテーブルに置いた。それからタクトの身体を起こさないように抱き上げると、彼を後ろのソファへと横たわらせる。
身軽になったコウはテーブルに並んでいる皿やグラスといった食器全てをまとめていき、そのまま持ち上げて運んでいった。それらを流しに置き、全体に水を掛ける。
水圧である程度汚れを落とし、一つずつ丹念に洗っていく。
最後にまとめて泡を洗い流し、空いているスペースに濡れた食器を置いて並べていく。
そうして食器を片付けると、残ったワインボトルを取りに部屋に戻る。四本の空になったボトルをまとめて持ち上げ、流しの横に置いて部屋へと戻っていった。
欠伸をしながらタクトの姿を改めて確認する。ぐっすりと眠っているようだった。
部屋の灯りを消し、その隣へコウは腰掛けてタオルケットを二人に掛ける。
目を閉じ、深呼吸を何度か繰り返す。そうしているうちにもコウの意識はなくなっていき、タクトのような呼吸へとなっていった。
そうして夜は更けていったのであった。
***
タクトが目を覚ますと、移動した覚えのないソファの上にタオルケットが掛けられた状態で横たわっていた。
何があったのかを思い出してみる。昨夜はコウと一緒に、自分の作った料理と共に高いワインを開け、自分で買った三種類のワインを味わっていた。
だが、途中から自分が何をしていたのか全く思い出せないでいた。気付けばこのようになっていたのだった。
ふと頭上に温もりを感じたので確かめる。そこには座ったまま寝ているコウがいた。
「コウ」
呼び掛けただけではびくともしなかった。
目の前にある太腿を大きく揺すってみるが、それでも起きる気配はなかった。タクトは身体を起こして両腕をコウに添え、顔を耳元へと近付ける。
「コウ!!」
大きく叫ばれた声に、ビクリと身体を大きく震わせてようやく目を覚ました。
「……んだよ、せっかくの休日だからもっと寝かせろよ」
「おはよ! ……じゃなくて、昨日の夜食べたまんま寝ちゃったよ!!」
「先に寝やがったくせに何言ってんだよ。それだけなら別にいいだろ」
「良くない!! 歯磨いて、シャワー浴びて、朝ごはん食べてからにして!!」
「分かった。歯磨いて、昨日買ったいちごのムースでも朝食にしてからシャワーだ。それでいいな」
やや強引にタクトを納得させ、先に洗面所へと向かうコウ。歯ブラシを口に入れたところで、タクトが冷蔵庫から取り出している音を耳にする。彼の行動を聞きながら、言われたことをやっていく。
準備を終え、バタバタとした足取りでタクトも洗面所にやって来た。コウは少し身体を横に倒し、彼が取りやすいようにする。
タクトも同じように磨き始めると、今度はコウが終わったようだ。蛇口を捻り、水を出して歯ブラシを洗い流す。それから手で水を掬い、口の中をよくすすぐ。
フェイスタオルで顔を拭うと、タクトの頭に掛けて先に部屋に戻っていった。テーブルには箱に入った状態のいちごのムース二つと、スティックコーヒーで淹れたらしいコーヒーが並んでいた。
コウは箱をビリビリと破いていき、皿の代わりのために広げていく。その中にはプラスチック製のスプーンが二つ入っており、自分とタクトのために並べて置いた。
タクトが戻ってきたところで、夜と同じ席に並んで座る。
「準備ありがとー。ねぇ、このいちごのムース美味しそうだね」
そう言いながら、タクトは一口先にスプーンを入れていた。割れ目からソースが入り込んでいき、ムースと絡まっていく。そこをタクトは掬っていき、口の中で堪能していく。
「んー!! うまー!!」
起きたばかりとは思えないほどのはしゃぎようで、次々と食べていく。
「コウ、食べてる?」
「食べてるから落ち着けよ」
彼の舌にも満足なようで、コウは笑顔で食べ進めていく。時折コーヒーで口直しをしつつ、あっという間に食べ終えてしまった。
コウよりも早く食べ終えてコーヒーを一気に飲みきり、さて、と立ち上がった。
「次、シャワーだよ」
「少しくらい休ませろよ。それともあれか、俺と一緒に入りたいのか?」
「なっ……!!」
タクトの顔がみるみるうちに赤くなっていく。その様子に、コウは大声で腹を抱えながら笑っていた。
その様子に、頬を膨らましながら近付く。
「もぉ! 人が真面目に言ってたのに……」
「わりぃわりぃ。でも俺は、たまには二人で入るのも悪くないと思ってるけどな」
コウの一言に胸をときめかせ、その場でじっとしていることしかできなかった。
そこへ、コウが強引にタクトの腕を引っ張って身体を引き寄せ、二人してソファの上に転がる。
「あ、ちょっ……」
「俺は寝てーんだ。シャワーはその後だ」
「だったら、俺だけでも……」
「うっさい」
強引に唇を塞ぎ、タクトの声を封じる。開いた口にそのまま舌を入れて絡ませていくと、反抗していたタクトが大人しくなり、コウの全てを受け入れようとしていた。
最初は離そうと必死になっていたタクトが、すっかりコウのことを貪るようになっていた。
何度も触れ合いを繰り返していくうちに、全身が密着する格好となっていた。手を絡ませ、身体を密着させ、脚も絡みつく。完全に一つになろうとしたい格好をしていた。
だが、それまで受け入れていたタクトを、コウはゆっくりと離していった。
「コウ……?」
「やっぱ風呂だ。二人で湯船に浸かる」
「朝風呂……。やったー、わーい! じゃあ俺はお風呂の準備してるから、コウは部屋の片付けしておいて」
喜びを露わにしながら向かっていくタクト。
先ほどとの変わりように若干呆れながらも、内心喜びながら言われた通りに片付けていくコウは、ムースの入っていたカップを重ねたところにスプーンを入れていく。コーヒーの入っていたカップとまとめて運んでいく。
昨夜洗ったものはすっかり乾いており、先に食器棚に戻してから手早く新たなものを洗っていく。
給湯器の音声が部屋に響き渡り、湯を張っていることを知らせる。その間に二人はそれぞれの部屋に戻り、着替えを探す。
手早く選んで部屋に戻ってきた二人。タクトが無言で洗面所へと促し、二人で向かっていく。
タクトが引き出しの一つを開け、その中身を見せる。
「コウ、どれがいい?」
「おまっ……何買い込んでんだ」
「楽しそうだからつい。ねぇ、どれがいい? 炭酸とか温泉、ワインもあるよ」
固形の入浴剤をいくつか取り出し、それをコウに見せる。本当に色々あるな、と半分関心しながら眺めていた。
しばらく考え、コウの手は赤系の包装のものを手に取る。
「やっぱワインだな」
「ワイン風呂いいねぇー」
「昨日の復習も兼ねてな」
「え……?」
「忘れたなんて言わせねーぞ」
コウは強引にタクトの身体を抱き寄せ、顔を自らの方へと引き寄せながら唇を重ねた。
「一体あのワインでいくらしたんだろうな?」
「えっ、そっ、それは……」
「とぼけても無駄だぞ。俺の頭ん中にバッチリ入ってるからな」
「うっ……」
今にも泣きそうなタクト。だが、コウの威圧はいつまでも続いており、その顔に浮かべた笑顔がやけに不気味に感じられた。
「分かったら入りながら復習だ。全問正解するまで出さねぇぞ」
「そ、そんな~……」
そう急かしながら、二人は溜まった合図を告げた浴槽へ入る準備を進めていったのだった。
***
「ねぇコウ」
「何だ?」
「俺もう一本ワイン飲んだ気がするんだけど、覚えてないんだ」
「そうか。俺のとっておきだったんだけどな」
ソファでコウがタクトに膝枕をしながら二人は寛いでいた。
タクトは結局数時間が経過しても途切れた記憶の先は思い出せないでいた。
「あれ、やっぱり飲んでたの?」
「俺が止めても飲んでたな。弱いくせに」
「弱いって……そんなことはない、はず」
口を尖らせながらブツブツと何かを言いながらコウの膝の上を何度も往復していく。
しばらくそれを繰り返していたが、コウの顔がよく見える真上でピタリと止まったところで、何か閃いたのか急に笑顔になる。
「コウが俺にそのワインの味を教えてよ。そうすればコウの食べたい料理が作れる!」
「嫌だ。お前自身で考えて作れ。俺はそれ以外の料理はお前のもんだと認めない」
「えぇー、何それ!? ひどーい」
「忘れたとは言わせねーぞ」
タクトの顔をぎゅっと掴むと、真剣な表情で彼のことを見つめるコウ。
笑っていた表情が驚きを含み、徐々にふざけた表情がなくなっていく。その心には、何かが急に思い出されていたようだ。
無言の時間がしばらく過ぎていき、次に口を開いたのはコウだった。
「思い出したか? 俺が選んだ最高のワインは、タクトの料理によって完璧になるんだ。お前自身が信じたその腕が……」
「……分かってるよ。コウと一緒なら、誰にも負けない最強になれる。そう信じてるよ」
タクトの腕がコウの顔にそっと伸ばされる。柔らかい頬に触れ、その感触を自らの顔に引き寄せようとする。
それを察して前かがみになるコウ。このまま唇に触れることも容易であると察し、近付けようとした。
だが、あともう少しというところで突然タクトの手が力強く制止して動かせなかった。
「まぁ、コウは見習いだけど、俺なんかただの素人だけどね!!」
「っ……うっせー! いつまでも俺の金で暮らしてんじゃねーよ!!」
「あはははは!! あと数日待っててよ。そうしたら俺も働くもん」
「何回それを繰り返せば気が済むんだ!?」
「コウが独立できたら?」
ずっと笑っているタクト。そのうち足をばたつかせるようになり、とうとうコウの怒りが限界まで突破した。
顔を掴んでいた手に力を込め、思い切り指を食い込ませる。
すぐに痛みにより動きは落ち着いたが、それでも笑われたことに怒りはなかなか収まらなかった。
しばらくの間、ソファの上では二人の戦いが繰り広げられていたのであった。
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