終末医療のアスクレピオス
コール・キャット/Call-Cat
終末医療のアスクレピオス
‐1‐
日本某所、その診療所はまるで現世から隔絶されているかのようにひっそりと佇んでいた。
周囲を森に囲われ、どこからともなくさえずる鳥達の声が静寂を破って遠く遠く響き渡る、そんな場所に今日は珍しく、他の音が交ざりあった。
ブロロロロロロ……──
それはこの場所にはどうにも似つかわしくない鋼鉄製の嘶きだった。そのくせ人間社会においては誰もが知る、見慣れたもの。
異形の闖入者に森に住まう住民達は空へ羽ばたき、草木の中で息を潜め、穴倉へ飛び込んでいった。
そんな森の住民のことなど気にする様子もなく、その一台の車は診療所の前で制止した。運転手はバタンッと力強くドアを押し開けると、何度もよろけながらも慌ただしく診療所の戸を叩いた。
黒髪交じりの白髪に枯れ枝のようなしわの刻まれた腕。その老人はその手が砕けてしまうのではなかろうかと思うほどに切羽詰まった様子だった。
「先生! 先生いらっしゃいませんか! お願いします、助けてください! 先生!」
ドンッ。ドンドンッ。ドンドンドンドンドンッ……。
戸を叩きつけること数分。まるでその騒がしさを疎ましそうに欠伸をしながら一人の男が現れた。
「まったく。人が気持ちよく寝ていたというのに、なんなんだ突然」
若い男だった。まだ眠気が抜けないのか、どうも眠たげな眼をぐしぐしと擦りながら文句を言うその人物に老人が飛びつく。
「あぁ先生! お願いします、妻を! 妻を助けてください!」
「……話を聞こう。どうぞ中へ」
老人の剣幕にただならぬものを感じたのか、男は一瞬で眠気が醒めたかのように焦点の定まった眼で老人を見つめると室内へと迎え入れた。
‐2‐
「──で? こんな辺鄙なとこにわざわざ助けを求めるとはどういうことです?」
診療所の中に設けられた面接室にて。男は二人分のコーヒーをテーブルに置きながら問うた。
そして問われた老人の方はコーヒーには手を付けることなく答えていく。
「数日前、外出中に事故に遭いまして。……酷い事故でした。相手方の居眠り運転で……咄嗟のことで避けることも出来ず……正面衝突でした。わしはかろうじて軽傷で済んだんですが、妻が……まだ意識が戻らないのです」
「なるほど、それはお気の毒に。しかし意識が戻るかどうかは本人の生きようとする意志次第だ、私がどうこう出来ることでh「──なんです!」
男の言葉を遮るように老人が声を張り上げた。それだけに留まらず、食い掛かるようにして身を乗り出してきたためにカップが倒れ、その中身がテーブルの淵を伝い涙のように滴り落ちていった。
「妻は……妻は、手術すらまだなんです!」
「なに?」
へなへなと椅子に座り込み、いまにも泣き出しそうに声を震わせる老人に男は眉をしかめた。
「事故に遭った時に、破片がいくつも刺さったらしく……おおまかなものは取り除いたらしいんですが、頭の中に破片が残ってどうにもならんらしく……」
「ふむ。つまり破片を取り除くことが出来れば意識が回復する可能性がある、そういうことですな?」
「医者の話ではそういうことかと」
「しかし、それなら何故こんな辺鄙なとこに住んでる私なんかの元へ? あんたの車のナンバーをほんの一瞬だけ見たんですがね、地元には大学病院もあるでしょう? そこには優秀な医師だって、最新の設備だってあるはずだ」
「勿論頼みましたとも。しかし、どなたにお願いしても断れるばかりで。他の病院も似たようなものなんです」
「それでここへ、か……」
「お願いします先生! どうか妻を助けてください! もう先生しか頼れる人がいないんです! お金ならいくらでもお支払いします! どうか! どうか……」
本当にもう頼れる相手がいないのだろう、老人は必死に祈るようにしながら懇願する。そんな老人の様子に男もどう声を掛けるべきか一瞬だけ逡巡し、意を決したように口を開いた。
「金なんてどうでもいいんですがね、どうしてそこまでして奥さんを助けたいんです? どうも私には理解しかねるんですがね」
「それは────」
瞬間、窓から風が吹き付け、どこからか舞い込んできた桜の花がふわりと涙のように滴って出来た褐色の水面に降り立つ。
その、褐色の水面に映った男の顔は綻んでいて。
「なるほど。そういうことであればこの依頼、承りましょう。事態は急を要する、すぐに患者を連れてこよう」
同じく褐色の水面に映っていた老人は泣き崩れるように感謝の言葉を繰り返していた。
‐3‐
男は老人の運転する車で彼の妻がいるという自宅へと向かうと妻の容態を確認しつつテキパキと運搬の手筈を整え始めた。
「ふむ。話に聞いてはいたが相当大きな事故だったんだな。至る箇所に縫合した痕がある。むしろよく死ななかったもんだ。余程腕の良い医者だったんでしょうな」
「はぁ。なんでも黒柳っちゅう先生でして、その病院内でも一番の腕利きだそうで。んなもんですから、どこの病院に行っても門前払い同様の扱いで先生のもとへきたっちゅうわけです」
「黒柳?」
老人の口から出てきた名前に男が反応した、その直後だった。男の背後で買い物袋が落ちる音と共に若い女の声が聞こえてきたのは。
「え? お父さん? 一体、なにをして──」
「恭子」
振り返るとそこには髪を後ろに束ねた女が目を見開いて立っていた。そして知らない男が寝たきりの老婆を車いすに落ち着かせているのに気付いて慌てたように詰め寄ってくる。
「あ、あの! 一体母をどうするつもりですか!? そもそも、誰なんですあなた!?」
「……一介の医者ですよ。そこの依頼人きっての頼みであなたのお母さまを手術いたします」
「手術って……それはもう終わったはずじゃ」
「頭部以外のはね。これを取り除かない限り回復は難しいようですから」
「回復……だ、だめです! そんなの許可できません!」
「あなたの父親からの依頼ですからね、あなたの意見を聞く道理はないと思いますが?」
「そんなの横暴です! だいいち、成功するかどうか」
「成功しない手術を易々と請け負ったりはしませんよ。さぁ、そこを退いて頂けますか」
「で、出来ません!」
それでも依頼人の娘は譲るつもりはないらしい。ドアの前に立ち塞がったまま屹然と男の目を睨みつける。
そんな娘の気丈な姿に男は「はぁ」と肩を竦める。
「あんたは同じことをそこにいる父親にも言えるのか?」
「えっ──」
言われてハッとしたように老人へと視線を動かす。視線の先、彼女の父親である老人は何も言わず、だがその目に宿った妻を助けたいという想いだけは強く灯しながら娘の視線を受け止めていた。
実の父親に、長年連れ添った妻を──娘にとっても実の母親を助けるな、などと。
そんな気持ちが言外に込められたことを、言えるのかと。
「わ、わたしは……わた、しは……」
「では失礼する」
そっと肩を押しやると娘はへなへなとその場にくずおれた。その傍を老人と共に横切りながら男は家を後にした。
‐4‐
診療所に戻ってからの男の手際はとても鮮やかだった。
レントゲンを始めとし、老人には何に用いるのか見当もつかないような機器をいくつも操りながら手術に必要なデータを次々に取り揃えていく。
「ふむ。話に聞いていた以上に破片が深くまで入り込んでいるな。……だが手術が出来ないほどでもない」
いくつものレントゲン写真からそれと思しき破片の数々に目途を付けていく。それらのデータを総合的に見て男は不安そうに椅子に腰かける老人へと向き直った。
「私の見立てでは破片を取り除けば意識が回復する可能性は充分にある」
「ほ、本当ですか!? じゃあ、妻は、妻は目を覚ますんですね!?」
「あぁ。だが事故から時間が経っている以上、これ以上悠長にはしていられん。早速手術を──なんだ?」
突然家中に無機質な音が響き渡る。その音にあからさまに不機嫌そうに顔をしかめながら男は「少しお待ちください」と老人をその場に残して部屋を出て行った。
しばらくすると男が何やら言い争うような気配が老人の耳まで届いてきた。距離があるため話の内容までは分からないが、とてもではないが穏やかな雰囲気ではないその空気に老人はもしや娘が手術を取りやめるように追ってきたのではないかと考え、足早に声の元へと向かっていった。
しかし、そこに居たのは予想外の人物だった。
「あんたは……黒柳さんじゃないかい? なしてこんなとこに……」
「やはりここにいましたか」
足を運んだ先、玄関の戸を境界線にするかのようにして男と対峙していた人物は老人にとっても面識のある人物だった。
名を黒柳。事故に遭った妻を診てくれた──そして助けられないと告げた──医師である。そんな人物の到来に何を言うべきか言葉に詰まっている老人に代わり男が開き直るように口を開く。
「こちらの依頼人の娘さんから連絡を受けたんでしょうが、黒柳先生ほどの方なら私の腕なら問題ないと分かるはずでは? それともなんです、無免許医に自分の救えない患者を救われるのはお気に召さないですか?」
「儂がそんな下らんことで動くと思っているのかね?」
「失敬。では言い直しましょうか。自分が見殺しにした患者を助けられるのは都合が悪いですか?」
「え?」
「……」
男の言い放った一言に驚いたのは老人だった。見捨てた、とはどういうことなのか。
そんな老人の反応を見て男は鼻で笑い飛ばすように告げる。
「この黒柳医師は私の恩師でね。手術の腕に関しては私が知る限り最も優れている。つまるところ、私ですら助けられる奥さんを黒柳医師はあえて見放したんですよ。これを見殺しと言わずなんと言うんです?」
男の言葉を受け老人は黒柳医師を見据える。彼は何も言わず、ただじっと老人の目を見返していた。その視線は、その沈黙は、男の言葉が真実であることを如実に物語っていた。
だからこそ、老人の胸の内に炎にも似た感情が燃え上がった。燃え上がって、それだけでは足りずに目の前の医師に掴みかかっていた。
「そんな、なんで……なんでそんなことを! わしは、あんたらお医者様をしん、信じて、妻を、なのに! なんで」
「それが、奥方のためと判断したからですよ」
その激情を受け止めながら黒柳医師はそう言った。なんら悪びれもせず、心の底からそうすることが正しいことであると思っている者特有の声音で。
「なっ」
そのあまりにも屹然とした佇まいに老人の方が呆気にとられる。そうして力の抜けた老人の手をそっと引き剥がしながら黒柳医師は男へ視線を戻した。
「君も医師の端くれなら、目先のことばかりではなくもっと視野を広げたらどうだね。だからあの時だって」
「その話は関係のないことでしょう。それに医師の端くれだからこそ、私は目先の患者を救いたい」
「志だけではやっていけん」
「その志だけは捨ててはいけないと私はあんたから教わったと思ったのですがね」
心から侮蔑するように吐き捨てる男に黒柳医師は「考えは変わらんか」とだけ問う。それに男も「当然」とだけ返した。
そしてしばしの沈黙が続いたかと思うと、不意に黒柳医師が背を向けた。
「さすがに今回ばかりは見過ごすわけにはいかん。失礼するよ」
「えぇ、ご勝手にどうぞ」
そう言って男は苛立ちをぶつけるように戸を閉めると鍵だけでなくチェーンまでも厳重にかけながら老人の方へと振り返った。
「さて。気を取り直して手術を始めよう。念のためあなたにも手術室に居てもらおう。さぁ、こちらへ」
かくして、一人の医師に見捨てられた一人の患者を救うべく、一人の無免許医による手術が始まった。
‐5‐
ブー……ブー……ブー……──
それは手術から一時間近くが経とうという時だった。
黒柳医師が来訪した際にも鳴り響いていた無機質な機械音が静寂に包まれていた手術室にけたたましく響き渡ったのに老人が何事かと男の顔を見やる。
「……来たか」
すると男は額に浮いた汗を軽く拭いながら、さして気にした様子もなく手術を再開しだした。それでもなお無機質な機械音はそのけたたましさを鎮める気配がない。
「あの、先生。誰か来たんじゃないですか? もしや急患、とか……」
自分のことを思い起こしおずおずと尋ねる老人に男は手術を続ける手を動かしたまま言う。
「あなたのような依頼人は滅多にきませんよ。十中八九、黒柳医師の差し金でしょう。もっぱら、私のことを警察に通報したんでしょう」
「け、警察!? そんなまさか!」
「黒柳医師はこの手術に反対のようでしたからね。警察だって無免許医が手術をしているなんて聞かされて動かないわけにはいかんでしょう」
通報者が大学病院の医師であればなおさらね、と付け足しながら男は「やれやれ」と肩をすくめてみせる。
「まぁ、こういう稼業なもんでね、別に珍しいことじゃありませんよ。ヤクザなんかを相手にした日には抗争相手がこぞって突貫してくる分、可愛いもんですよ」
そう言っている間にも警官は強硬手段に打って出たらしい。ドアが蹴破られる気配と共に数名の人間が怒号を上げながら家中を駆け回る音が聞こえてきた。
「せ、先生、どうしましょう?」
「どうもこうも、手術を続けるだけですよ。もう少しで終わるんで安心してください」
それだけ言うと男は手術を再開していく。素人目には男の言う「もう少し」というのがどれほどのものなのかは分からなかったが、今はただ信じるしかない。
老人はそれ以降は何も言わず、ただひたすらに手術の無事を祈った。
家中を捜索していた警官達がついに手術室に辿り着き扉をこじ開けようと怒声交じりに戸を叩いたのはそれから数分後の出来事だった。
「警察だ! 開けなさい!」「くそ、なんだこの扉、びくともせんぞ!」「道具持ってこい!」「他に入口は!? 回れ!」
そんな剣呑な空気を物ともせず、男は手を動かし続け──やがてその動きが止まった。
「ふぅ。手術は無事終わりましたよ。じきに意識も回復するでしょう」
「っ! 本当ですか! ありがとうございます先生! 本当にありがとうございます!」
男の言葉を受け老人が飛び上がる。そしてよろよろと妻の眠る手術台へ寄り添うように身を寄せていく。
それを見届けると男はそっと老人達の傍を離れるとゆったりとした足取りで手術室から出て行った。──いまだ警官ひしめく、ドアの向こうへ。
「警察だ! 大人しくし──ろ?」
「言われなくとも大人しくしますよ。私に用があるんでしょう?」
当然ながら殺到する警官達に両手を挙げ降伏を示しながら、男はこちらの様子に気付き立ち上がろうとする老人を目で制すると自らの足で外へと出向くのだった。
‐6‐
男を乗せ、パトカーが走り出す。
車は森を抜け、住宅地を抜け、いくつものビルが建ち並んだ道を進んでいく。
都会とは思えないほど閑静なその道のりをなんとはなしに眺めていると、逃走を防ぐためだろう、男を挟み込むように腰かけていた警官の一人が溜息交じりに愚痴を零した。
「ったく。なんでこんな時に厄介事を起こすかね」
「そう思うなら放っておけばいいんじゃないですかね? こりゃ私の勘ですがね、通報があったんでしょう? 悪戯電話だと取り合わなければよかったんじゃ?」
どこか同情気味に、それでいて恨みがましく切り返す男に警官も「電話だったらな」と返す。
「直接こられた以上、動かないわけにはいかないんですよ、こっちは。無免許医が手術を強硬して人命を危険に晒してる、なんて言われちゃなおのことね」
だいたい、と警官は男を一瞥すると空を見上げながら続けた。
「あと数日で世界が終わるっていうのに、なんで助けちゃったんで?」
赤く、赤く、燃え上がるような空を見上げながら、たしかにそう言った。
そんな警官にならうように男も窓の外に広がる燃えるような空を見上げると苦笑交じりに言う。
「なんで助けたか、か。強いて言うなら──」
ほんの数時間前の出来事を思い起こす。
『金なんてどうでもいいんですがね、どうしてそこまでして奥さんを助けたいんです? どうも私には理解しかねるんですがね』
『それは────それは、長年連れ添った妻に、伝えたいことがあるんです』
そう言うと老人は滔々と語り始めたのだった。
『恥ずかしながら、わしは昔気質なもんでして、妻に一度も……その、愛してる、という言葉を……口にしたことがなく。じゃが、世も末と知ってせめて一度だけでもいいから、わしの気持ちをハッキリと伝えようと思ったんです。じゃが』
そこまで言って老人は己の拳をぐっと握りしめた。ぶるぶるとその身を震わせながら、込み上げてくる涙を必死に堪える。
『わしがプロポーズをした思い出の場所に向かう道中、事故に遭い、それも叶わぬやもしれぬと知り、居ても経ってもおられず……!』
それでこんな場所まで来たのか、とは男も老人の懸命に語る姿に投げかける気は起きなかった。そういう依頼人はこれまでにも数えきれないほどいた。──世界が終わりなんてしなければきっと、これからもいただろう想いは。
『たとえ妻に「何故このまま死なせてくれなかったのか」と恨まれたっていい。わしはそれでも、妻に『たとえ死んでも愛しておる』と伝えたいんです──』
──そう語った老人の目は無免許ながらも一人の医師として最後の仕事を請け負うには充分すぎるほど真摯な願いだったと、男は思っている。だからこそ。
「──自分の心を裏切りたくなかった。それだけだ」
じゃないと死んでも死にきれない、そんな言葉を飲み込んで、男はただただ満足そうに微笑んだ。
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