花を暴く
兎紙きりえ
第1話
泥の匂いが鼻に昇ってきた。
桜の咲く頃も既に目と鼻の先だというのに未ださすらう寒風が涙の跡を攫っていく。
辺鄙な町の片隅に、のどかな雰囲気を切り裂くみたいに立っている白亜の巨棟。
大きな墓標にも似たその一角の、忘れ去られた花壇の前で私はわんわん泣いていた。
目の前の花を暴いてしまった罪が酷く心を締め付ける。
私は来たる罰の時に震えるだけの罪人の気分を味わった。
どうやらもうすぐ私は死ぬらしい。
余命を告げた先生の言葉は実感となって私の心にすっぽり収まった。
恐怖とか絶望だとか、俗に言う『死への感情』も無いままに、ただ実感として、そう思った。
ついに私が消えるのか。
なんだか可笑しくなるほどに、落ち着いていた。
長年の生活で慣れてしまったのかもしれない。
死がいつも隣に寄り添っていたせいで感覚が麻痺しているのかもしれない。
そのどちらもを否定するならば、もしかすれば私のいる部屋がそう思わせるのかもしれない。
無機質で退屈な病院の一室は、それこそ病的なまでに白く、潔癖であったから。
所々に混ざる淡いクリーム色と、ぴこぴこ数字を刻む変な機械くらいだろう。この部屋において色を出しているものは。
あ、そうだ。とベットの下を覗き込む。
軋んだその足にある錆はこの前見つけた新しい色だ。
こんな白ばっかりの部屋にずっと居るから、他の色には敏感になってくる。
週に一回様子を見に来る家族なんか刺激的な色の塊だ。
今日のパパのスーツはぴかぴかだ、何かいい事でもあったのだろう。おやおや?今日のスーツはよれよれで傷だらけ。お仕事上手くいってないのかな。
ママはいつも優しく温かいけど、時々こちらまで寒気がするほどおそろしく顔色が悪くってぐったりしている。
お疲れ様モードってやつなのかな。
喧嘩でもしたのかも。
そういう時は少し申し訳なくも思う。だからといって何かしてあげられるわけでも無いんだけど。
私が入院してから生まれたという弟2人はたまにやってきては知らないゲームの話をしてきて、私が話についていけないと分かるや否や、私に興味を無くしたように、これまた知らないゲーム機で遊び始めてしまう。
あんなにぴかぴかと色が弾ける画面をよく見ていられるなと羨ましくもあり、同時にやはり私にはよく分からない、という感想だけが残る。
「私達も手を尽くしてはみたのですが……これ以上は……」
先生の言葉も同じだ。いつもよく分からない。
難しい顔をして話す病気の事も、全部が全部同じに見える薬の名前も形を言われても何がなにやら、だ。
けれども、貴方はもうすぐ死にます。なんて突然分かりやすいことを言うんだもの。
聞いてるパバとママの顔がビックリするくらい青ざめてたから、それが冗談じゃないことくらいすぐに分かった。
だから、私は明日死ぬんだろう。
いつ死ぬかは分からないけど、先生の話を聞く限り、チューブと注射をいっぱい繋いでなんとか生かそうとしてくれてるみたい。
パバもママも見た事もないくらいの形相で先生の話を聞いていた。
私だけが蚊帳の外で私を生かすか殺すかの話が進んでいく様を横目に見ながら私は思う。
そんなの死んでるのと同じじゃないかって私は思う。
どうにかして生かして、と、私がお願いしてるわけじゃないのに……なんて言えるわけもなく、それに別に死にたいってわけでもないから、ただ黙ってじっとしていた。
それが他の人の目には可哀想な姿に写るみたいでいつも病室の掃除をしてくれる看護師見習いの人が背中をさすっては「大丈夫だよ」と言ってくれる。
先生もすごく辛そうに私を見る。
心がチクチクするような視線を集めてることに耐えきれなくて、逃げ出すようにその部屋を出た。
「外の空気、吸ってくる」
どっかの本で読んだセリフを背伸びして言ってみたけど、返って来るのはやはり痛々しい視線だけだった。
大人ってホントにへんなんだから。
重苦しい空間を抜け出して、リノリウムの床を早歩きで駆ける。
病室においてある私の鞄。
本とかキラキラのクリスタルとか大事にしてた物をとにかくいっぱい詰め込んだ私の宝箱。
その一番下から綺麗に折り畳まれた純白のワンピースを取り出す。
ホントはママの服だけど、とっても可愛くって着てみたくって、持ち出してから今の今まで言えずにずっとしまってあったもの。
着替えてみるけど、小柄なママの服でもまだまだ子どもの私にはサイズが合わなくて、足先まで覆い隠してしまいそうな裾が床を撫でた。
「いけない、汚れちゃう!」
慌てて裾を持ち上げて病室を飛び出す。
この服が似合うことはもうないのだと思うと手が震えるから、ぎゅっと裾を握る力を強めた。
そのままいつもの正面玄関にはいかずに、エントランスの脇にある、前に看護師見習いの人に教えて貰った秘密のドアを開ける。
びゅう、と吹く風に向かい入れて貰うみたいに私は外に出た。
コンクリの足場はすぐに終わって、土の匂いが一面に立ち込める植木スペースが続いていた。
白亜の巨棟は近くで見ると少し黄ばんで、汚れているからそっちはなるべく見ないように私は急いだ。
どこに行くかは最初から決まっていた。
病室の窓から見えたその場所。
正面玄関の近くに置かれた花壇とは打って変わって、忘れ去られたみたいに手入れのされていない花壇に一輪、白い花が咲いているのだ。
惹かれるままに、とてとてと、花壇に向かう。
目的の花壇にはすぐに辿り着いた。
人目につきにくい、建物の角に隠れているだけで特別遠いわけじゃないから当然か。
それでも、と。
足元の、荒れ果てた花壇の中で、雑草にまみれながらも咲くその白の花が私にはどうにも特別な気がしてならなかった。
愛らしく、美しく、尊いものに思えていた。
そのはずだ。
だというのに、私はその花に手を伸ばしていた。
ふつふつと湧き上がった、心の中にあるなにか大きな流れみたいなものに流されるままに花の根元、そこにある土を掴んでは退けていく。
ああ、こんなことは望んではいないのに。
見たいなんて思っていなかったのに。
気が付けば、その花の正体を暴いてしまっていた。
か細く伸びた茎の先、見えない地面のその下に。
醜悪に広がる根が広がっていた花の姿を。
嗚呼、水が欲しい。栄養が欲しい。
もっと、もっと、もっと。
伸びた長さは欲望の深さ。
原始的で、本能的な生物としての証。
罪知らぬ無垢な白の花も。
その根を掘り起こせば手は真っ黒く、湿った泥で汚れていく。
素知らぬ顔をしていても養分を吸い出す様を曝け出されては可憐な嘘が剥がれていく。
あんなに美しかったワンピースが土色に染まった。
汗を拭うと、手についてた泥が口へと落ちてきてじゃり、と音を立てた。
ぷちぷちと他の根っこを切り裂きながら、いとも簡単に、なんの気なく他の命を終わらせながら掻き分けた土にあるのは結局そんな残酷な真実。
見たかったのは美しい花の続きなのに。
今、そこにあるのは醜く生え伸びた毛先まで顕にされた花の一輪と、無惨にも理由もなく散らされた無数の命。その命を奪った穢れと、花の秘密を暴いた罪悪と、花への失望だけを手に入れた私だけ。
じわじわとせりあがってくる泥の存在が喉元に突きつけたナイフみたいに怖くて、私はその花壇から逃げ出した。
あの角を曲がれば、もう花壇は見えなくなる。
最後にと振り返ってみる。
花は己の秘部を晒されたことに恥じてしなだれていた。
ぶわっと広がる冷や汗の感覚が頭のてっぺんからつま先まで、まるで電流かのように一瞬で駆け抜けていった。
伊吹おろしの冷たい風が私から熱以外の全てを置き去りにして通り過ぎた。
ぽつり。落ちた水滴を合図に私は一人、とぼとぼ病室に戻る。
すれ違った仲のいい看護師見習いの人が心配して駆け寄ってくるけど何を言おうにも震えた口からは掠れた吐息が出てくるだけ。
口の中でじっくりこねくり回して言葉にしてしまえばいいのだろうけど、さっきまでの光景を、自身の犯したことも口走ってしまいそうで、それがとても恐ろしくって、どちらにせよ何を言う訳にもいかなかった。
私は明日、死ぬのだから。
あの片隅の花壇の、罪の跡を知る人は居ないのだから。
花を暴く 兎紙きりえ @kirie_togami
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