第14話 今度こそ

「あたしがまだ一歳の頃に病気で父が他界したという話を、小学生になった頃に母から聞きました。だから、らしいとしか言えません。父と過ごした記憶があたしにはないので」


 和久井さんは口をキュッと結んだあと、話を続けてくれた。


「母は女手一つであたしを育ててくれました。父が亡くなっていたということよりも、あたしはそのことが嬉しかったんです。それから、あたしが中学生になると、母は別の男性と再婚しました。

 母はもしかしたら寂しかったのかもしれません。あたしも反対はしなかったし、母が幸せになってくれるならそれでいいって思いました。結婚式は大々的には開かれませんでしたが、身内だけで集まって、二人を祝福しました。

 だけど、三年前の震災で、母は命を落としました。出張先での出来事でした。父は泣いていました。あたしもたくさん泣きました。唯一の、血の繋がった家族だったので。

 それからというもの、あたしは父と二人きりで生活することになりました。母というものがいなくなって分かったんですけど、血の繋がっていないあたしと父は、結局は赤の他人でした。会話もなく、次第に目も合わせなくなっていきました。

 父は魚市場で働いています。朝早く家を出て、あたしが帰る頃にはもう寝室で寝ているという日々が続きました。あたしはテーブルに置かれたお金で弁当を買って、一人でお風呂を沸かして、一人で寝て。朝起きる頃には父は家におらず、テーブルにはまたお金が置いてある。そんな日々」


 和久井さんは途切れることなく、饒舌に事情を話してくれた。言葉を精密に選んだり、空気を読むのが得意な和久井さんにしては、上辺のない語群だ。


 もしかしたら和久井さんは、ずっと誰かに話したかったのかもしれない。


「最近、父から相談を受けました。父は再婚を考えているみたいです。お相手もすでに見つけていて、うまくいけば一緒に暮らせるかもしれないと、半ば興奮気味に。そのときあたしは思ったんです。ああ、人の愛って、結局こんなものなんだって」


 和久井さんは諦めたかのように嘲笑う。


「父を亡くした母は新しい男性と再婚し、母が亡くなると、再婚した男性は女性と再婚する。それっておかしいとは思いませんか? 永遠の愛を誓うと言って結ばれた二人であったはずなのに、片方がいなくなった途端、目を盗むかのように新しい相手を見つける。まるで隙間を埋めるように。いいですよ、また運命的な出会いがあって、新しい幸せを望むのは。でも、じゃあ、あたしは?」


 私の手を握る力が強くなる。


「あたしは、どうなるんですか? 料理だって覚えました。家事だってできるようになりました。褒めて貰えるように勉強だって頑張りました。それなのに、どうしてあたしだけ、愛からこんなに遠い場所にいるんですか?」


 和久井さんが、答えを求めている。余裕を失った表情が、痛々しく電灯の下に晒される。


「父は再婚予定の女性に会うため、家を空けることが多くなりました。父はあたしのことなんてどうだっていいんです。むしろお荷物だって思ってます。けど、それも当然ですよね。だって今の父は、あたしの実の父じゃない。そこに再婚相手の女性が加わったら。あはは、笑っちゃいますよね。あたしに居場所なんて、ないんです」

「だから、家に帰りたくないなんて言ったの?」

「はい。帰ったところで、テーブルの上にお金がぽんと置いてあるだけなので」

「・・・・・・でも、だからって、自分を売るような真似はしちゃだめだよ」

「もう、分かりましたってば。散々お説教されたので、それに、灯波先生は約束をきちんと守ってくれたので、あたしも守りますよ。すごく、情熱的に抱いてくれたので」


 まるで花が開くように、和久井さんがふわりと笑う。慈愛の混じる柔らかな笑みと、会話の中身が合っていない。そのアンバランスな表情を見ていると、混じり合った肌の熱と、時々、本当に幸せそうに息を漏らす和久井さんのことを思い出してしまう。


「それは、よかった」

「はい。よかったです」


 和久井さんが私の手をにぎにぎ。それから指と指をするする。あっという間に恋人繋ぎになった。私は恥ずかしくなって、思わず手をパーにした。


「けど、お金が欲しかったのはしょうがなかったんです。許してください」

「そうだ、それ。あんなことまでして、何に使う気だったの?」

「灯波先生、あたしが前にどこか遠くに行きたいって言ったの、覚えてます?」

「うん。覚えてるよ。私が戸締まりしてたときだよね」

「覚えててくれたんですね。嬉しい」


 私のパーを、和久井さんが強く握る。離さない、とでも言われているようだった。


「あたし、高校を卒業したら県外に行きたいんです。一人暮らしをして、誰の力も借りずに生きていく。そうすれば、きっと父も、再婚相手の女性も、あたしという邪魔者がいなくて楽になれると思うので」

「和久井さん、でも」

「本当は大学にも行って、一度でいいから自分のやりたいことを模索してみたいです。でも、うちにはそんなお金ありませんし、父が許すはずありません。けど、あたしはそれを不幸だなんて思っていません。望み通りにならない現実と向き合うことこそが、人生だって思うので」


 学生の頃、私はこれほどまでに大人びていただろうか。執拗なまでの取捨選択に迫られ、我が儘だった自分を忘れて納得のいかない道筋に諦めたように従順になれていただろうか。なれていたわけがない。


 なってしまえばきっと、何もかもが嫌になる。趣味嗜好が歪んで、形が変わってしまえば大人になって背が伸びたときに自分自身が入りきらなくなる。飛び出た部分は無防備に感情の嵐に晒され、荒んでいく。そうなってしまえば、その後、どんなことが身に降りかかるかなんて考えるまでもない。


 きっと、生きるのが嫌になる。


「だから、これでいいんです」 


 話はそれで終わり。とでも言うように、和久井さんは目を瞑った。


 私は今の話を聞いて、むしろ安心していた。


 和久井さんにも悩みがあって、それを私に話してくれたということは、少なからず、その解決を望んでいるということだ。それができるのは友達でも、家族でもない。教師という存在に他ならない。


 少しでも頼りにしてくれていることが嬉しい。少しでも支えになれているなら嬉しい。


 私はそのために教師になった。人を、生徒を、自分一人の力だけじゃどうにもならないような問題から救うために。


 私はパーをやめて、和久井さんの手を握り返した。予想していなかったのか、和久井さんは目を丸くして自分の手をジッと見ている。


「来月の頭に、三者面談があるの。和久井さんも知ってるでしょ?」

「はい。でも、あたしの父は来ないですよ」

「知ってる。提出してもらったプリントには欠席にマルが付いてたから」


 昨今、共働きの家庭が増えているということもあり、三者面談は必ず親御さんが同伴しなくちゃいけないということはない。最悪、土曜日に面談を開いて学校に来ていただくという方法も取れるけど、基本的には仕事などの関係で面談には来られないという方もちらほらといる。


 だから和久井さんみたいなケースも、珍しいことじゃないんだけど。


「でもね、三者面談って、先生が生徒の方針を親御さんと一緒に決めるってこと以外に、生徒が、自分自身の未来のことを真剣に親御さんに伝える場でもあるの。ほら、家だとそういう改まった話ができないこともあるでしょ? だから和久井さんも、今更面と向かって話すのは恥ずかしいかもしれないけど、三者面談なら、お父さんにも打ち明けられるんじゃないかな」

「けど・・・・・・」

「先生が付いてるから。ね? 一度だけでいいから、思ってること、話してみようよ。そうしたらお父さんも、分かってくれるかもしれないよ」


 和久井さんは眉間にシワを寄せて、少し考えるような間を置いた。それから真っ直ぐ、私の目を見つめてくる。


「大学だって、もしかしたら行かせてくれるかもしれない。奨学金制度だってあるんだし、そのことも詳しく話し合おうよ」

「・・・・・・分かりました。灯波先生が言うなら」

「ありがとう。余計なお世話だったらごめん、なんだけど」


 全部私の勘違いで、私が勝手に暴走してるだけだったらどうしようと思っていたけど。和久井さんはゆっくりと首を横に振った。


「ただ、父は来ないと思いますよ。授業参観だって、卒業式だって、来なかったんですから」

「まぁ、そのときはそのとき。大丈夫、和久井さん。私を信じて?」

「灯波先生って時々、すっごく、カッコいいときがあります」

「え、カッコいい? そうかな・・・・・・」

「はい。可愛いのに、カッコいいです」


 そう言って、和久井さんは自分の発言に照れたように、はにかんだ。


「灯波先生、あたしが寝るまで、手を離しちゃ嫌ですよ」

「いいけど、手汗かいちゃうかも」

「構いません。灯波先生の汗なら」


 思いも寄らぬところを受け入れられると、勢いよく零れた水みたいに、心の奥が跳ねる。


 だけどそれは、雪解け水のように純真で、透明だ。澄んだ向こうに見える、転んでしまいそうな背中を抱きしめてあげられるのならいくら零れたって構わない。拾い方は、もうこの身に刻まれているから。


 私はもう、空っぽになった家の前で立ち尽くすような真似はしたくない。 

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