吾輩は便器である

一路傍

第一話

 実は、吾輩はかつて魔王であった。


 と、まず過去形で記したのは、先日、かの憎き勇者めに破れてしまったせいだ。


 おかげで吾輩は逃れる為、異世界へと転生する魔術を吾輩自身にかけて、今ではこの現代日本にてトイレとして独り静かな余生を過ごしている。いや、より正確に言えば、便器として――と言った方がいいだろうか。


 悔いは……さほどない。


 孤独や寂しさも……あまり感じない。


 そもそも、魔王の頃より孤高だったのだ。トイレの個室も、玉座も、さして代わり映えはしない。


 ただし、楽しみはというと……むしろ意外と勝る。というのも、便器などというと、汚い、臭い、かっこ悪い、と相場が決まっているものだが、何しろここは――私立校の女子トイレなのだ。しかも、小学校高学年用ときたものだ。


 吾輩、これでも魔王のときは全世界を恐怖という名の煉獄に陥れた存在であって、いわゆるロリコンなどでは決してなかったはずなのだが……転生してしまったことで吾輩の性質や資質にちょっとした変化が起きたのか、今となっては立派な便器として高学年女子の排泄行為をあんぐりと眺めるのを毎日とても楽しみに……げふん、げふん……ではなかった、ええと、ああ、そうだ、毎日陰ながらも元魔王としてしかとサポートする所存なのである。うむ。本当だぞ。


 ところでだ。これまたつい先日のことだ。


 何と、吾輩に友人が出来たのだ。彼女の名は――木乃下桜ちゃん、十一歳。


 この春に転入してきたばかりのシャイガールらしく、なかなか学友ができずに悩んでいるようで、休み時間もよく女子トイレの個室にこもりきり、吾輩の便座に乗って、こうして独りちる――


「ねえ、わたし……どうすれば友達できるかな?」


 そう問われても、吾輩はかつて冷酷無情な魔王だったのだ。


 平伏する配下は多くいたが、胸襟を開いた心の友などいるはずもなかった。


 だから、さしもの吾輩といえど、何とも答えようがなく、仕方なく便座の保温機能を使って、人並みの温もりを桜ちゃんにほっこりと伝えようとした。


 すると、彼女は一瞬、「きゃ」と驚きつつも、また寂しい言葉をこぼした。


「このまま……ずっと独りきり……なのかな?」


 そんな弱音に吾輩はふと憤った。


 常勝魔王軍に弱者などいなかった。ゆえに、何があっても吾輩が傍にいてやるぞという鉄の意思を込めて、温風機能をついオンにする。


 当然、桜ちゃんは「ええっ?」と目を丸くしつつも、そのタイミングでちょうど予鈴が鳴ったこともあってか、小さく可憐な笑みだけ浮かべると、


「壊れているのかな……教室に戻るね」


 と言って、名残惜しそうに、吾輩の便座をさすさすしつつも個室から出て行った。


 その後、用務員のおっさん♂が本当に壊れているのかどうか、調子を確かめにやって来て、吾輩と数時間も格闘したわけだが、それはわりとどうでもいいエピソードなのでここでは割愛したい。とまれ、桜ちゃんとは、そんなふうなやり取りが何度も、いや、何日も続くことになった。そして、五月に入ったある日のことだ。ついに事件が起こってしまったのだ。


 その日の夕方近く、授業中の静寂を破ったのは――


 ドタ、ドタ、ドタ、と。駆けつけてくる忙しない足音だった。


 何事かと思っていると、吾輩の個室のドアがばたんと開いた。立ち尽くすのは桜ちゃんだ。顔が上気している。目もどこか虚ろだ。お腹をさっきからじっと押さえている。間違いない。これは……


 下痢だな。


 吾輩、とっさに悟った。


 とはいえ、元魔王かつ、今では威風堂々とした便器たる吾輩だ。


 故に、多くを語らず……いや、まあ、もう便器なので口などないのだが……何にしても、吾輩は桜ちゃんの全てを受け止める気概でいた。


 まず、ショーツが一目散に脱がされ――


 次に、可愛らしい菊のお花がひくひくと動き――


 最後に、張りつめていた括約筋がわずかに緩み、くわっとつぼみが開花すると――


 それは、さながら天から堕ちる瀑布のようだった。雷も轟々と鳴り響いた。世界を蹂躙する最上位土魔術が幾度も地に叩きつけられたかに見えた。


 これほどの苛烈な闘いを目の当たりにするのは、さしもの吾輩でも久しぶりだった。かつて勇者パーティーと対峙したとき以来だろうか。吾輩ですら手に汗握ったほどだ。まあ、便器だから手もないのだが……


 それはともかく、その間も詠者はずっと呻き、もがき、あるいは苦しみ、そしてついには、「ひっ、ひっ、ふうう」と、細く、荒い、謎の呼吸を繰り返して、最終的に何とか全ての穢れを排してみせると、当の桜ちゃんは放心したかのようにぐったりとした。


 吾輩もつい、「うむ、これは……給食のカレーだな」と冷静に分析するに至った。


 すると、そのときだ。不思議なことに、カレーの具材らしき未消化のまま排泄されたじゃがいもらしき角切りの物体がいきなり吾輩に話しかけてきたのだ。


「ついに見つけたぞ。魔王め!」

「その声……まさか、まさか、まさか! 憎き勇者かあああ!」


 もちろん、我々に発声器官などないからして、この会話は全て高度魔術通信みたいな思念的な何かによるものであることは言うまでもない。それはさておき――


「勇者め。貴様、何故にここにいる?」

「お前の息の根を止める為だ。俺も転生魔術でこの世界にやって来たのだ」


 つまり、勇者は吾輩みたいに一度死にかけて強制的に輪廻転生したわけではなく、実体はまだもとの異世界にあるらしい。


「吾輩を倒す為だけに……わざわざ、じゃがいもになったのか?」

「そうだ。文句あるか?」

「よくもまあ、ここまでたどり着けたものだな」

「実を言うと、お前のもとに来るまでに、何万回と転生を繰り返してきた」

「涙ぐましいまでの執念だ」

「全てはお前をぶちのめす為だ! どうせ、この世界でも悪逆非道の限りを尽くしているんだろう?」

「や。吾輩、今となってはただの便器でしかない」

「…………」


 勇者こと未消化のじゃがいもは押し黙った。


 どうやら現実を受け入れるのに時間がかかっているようだ。


 あまりの執念深さに視野狭窄になってしまっていたのだろう。それでも一応は勇者だ。賢者と並んで頭は良い人物のはずだ。そんな勇者がさっきからじっと呻いている。それもそうだろう。はてさて、こんな便器なぞにいったい何が出来るというのか――


 残酷な現実に気づいて、勇者は眉間に皺をぐぐっと深く寄せてみせる。とはいえ、吾輩を倒す為に幾万回と転生してきたのだ。ここまできて簡単に退くわけにもいくまい。


 一方、吾輩はお尻をふきふきしている桜ちゃんに向け、温かいシャワーを投げかけた。それを勇者はどうやら勘違いして、自身への攻撃と受け止めたのか、


「おのれ、魔王! やはり、性根は変わらぬか!」


 そう叫んで、いつも腰に携えていた聖剣エクスカリバーへと手を伸ばしかけて、


「俺の最大にして! 最高の! 秘奥義――」


 そこまで言ってから、やっと自分が今となってはただの未消化のじゃがいもの角切りで、腰には剣など何もないことに考えが至ったのか、


「…………」


 再度、沈黙すると、吾輩はやれやれとため息をついてから排水を始めた。


 じょぼーっ、と渦を描いて流れていく汚水に乗って、当然のことながら勇者こと未消化のじゃがいもも断末魔の叫びを上げる。


「くそー。卑怯だぞー!」


 そう言われても、吾輩は便器である。


 汚いものはちゃんと流さないと、職務怠慢を疑われてしまうではないか。


 しかしながら、さすがに執念で何度も転生を繰り返してきた勇者ことじゃがいもの角切りはしぶとかった。勇者は排水管に意地となって引っ掛かると、


「流されて……たまるものかあああああ!」


 と、乾坤一擲。汚水を逆流させてしまったのだ。


 この惨事に、吾輩以上にあたふたとしたのは桜ちゃんだった。


 転入したてで友達もろくに出来ていない。しかも、恥を偲んで授業中に大きい方をしに来た。その上ここに至って、それがトイレを流れなかったなどと後ろ指差されようものなら、いたいけな彼女の心にどれだけ深い傷を残すだろうか。


 さらに、だ――


 折悪しく、ちょうど終業のチャイムが校舎に鳴り響いた。


 放課後となって、ぞろぞろとクラスを飛び出してくる、やんちゃな足音が続く。


「勇者め。貴様……市井の少女を貶める気か?」

「何とでも言え。俺はお前に決して屈しない!」


 無駄な正義感に、さしもの吾輩も腹が立った。


 もっとも、今は勇者に対する憎しみを吐き連ねるときではない。


 実際に、女子トイレの入口ドアはもう開かれようとしているのだ。最悪の場合、心ないクラスメイトによって、桜ちゃんは未来永劫、汚名を注がれるかもしれない。たとえば、吾輩がちょっとばかし強かったせいで、魔王と呼ばれて、皆から遠ざけられてきたように。


 桜ちゃんはというと、すでに涙目だ。


「こうなったら……吾輩がやるしかない!」


 故に、吾輩は気高き便器として、たった一つの冴えたやり方に挑むことにしたのだ。

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