第35話 ざまぁにしては余りにも惨く

異世界人勇者が率いるパーティは港町フォーネを出発し、数時間の船旅の末に慟哭の森前のターミナルに到着した。そこで一同は宿を取った後、料理が美味いと評判の酒場へ向かった。



訪れた酒場は酒と美味い飯を楽しむ冒険者たちの幸せな雰囲気に満ちている。しかし、ジュリオ達のテーブル周辺だけは、淀んだ空気が充満しているのだった。






「俺達の飯はまだ来ねえのか? 何で後から頼んだ連中には料理が来てんのに、俺達にはまだ来ねえんだよ。クソがッ」






異世界人勇者は酒を勢い良く飲み干すと、ジョッキを乱暴にテーブルへと叩きつける。




注文した料理がいつまで経っても来ず、異世界人勇者は大変に不機嫌であった。


しかも、酒を空腹時に飲み干したせいで、嫌な酔い方をしている。




この『嫌な酔い方』を、ジュリオは良く知っていた。


幼い頃に何度もそんな母や父を見てきたからだ。



…………『嫌な事』を思い出してしまいそうだったので、感情を手放し床のシミを数え始める事にした。




 



「仕方ないですよう〜♡ お店も混んでますもの♡ お酒でも飲んで、楽しく待ってましょうね♡ ヘアリーの分もあげますから♡」






ヘアリーはすぐに異世界人勇者の腕に抱きついて、体を擦り寄せながら甘い声を出した。自身の酒を異世界人勇者に差し出し、チヤホヤしながら飲ませている。


この異様な程の立ち回りの上手さは、きっと新聞記者時代に身に着けたのだろう。



ジュリオはヘアリーに感心するばかりである。




そんな時、店員の女性が近くを通りかかったので、異世界人勇者は片手を上げて話しかけた。






「おいお姉さん! 俺達の飯まだ? 注文してから随分時間かかってるみたいだけど」



「看板見ませんでした? うちのお店はペルセフォネ人専用なんですよ」



「は?」



「まあ……そんなに餓えてるなら、残飯に味噌汁ぶっかけた猫まんまとかならすぐご用意できますけど。好きなんでしょ、味噌。あんたら異世界人がドヤ顔で普及させたあの猫の糞みたいな調味料」






店の空気が、しん……と静まる。


その後、あちらこちらからクスクスと笑い声がしてきた。




紛れも無い、異世界人差別である。


王族や貴族が異世界人を差別するのは何度も見てきたが、まさか一般市民までもが露骨に差別をしてくるとは、思いもしなかった。



一般市民はチート能力を駆使する異世界人に憧れを持っていると聞いていたが、差別感情の有無は人それぞれという事なのか。






「お前、誰に口聞いてんのかわかってんのか? 俺は勇者だぞ!? お前らの為に戦う勇者だぞッ!!」






差別を受けた異世界人勇者はブチ切れてしまう。


元々料理が来ずに不機嫌な状態で、酒を二杯飲んで悪酔いしているのだ。


こんな酷い状態だと、何をするかわからない。






「そんなに飯が食いたいなら、コンビニの廃棄弁当でも食べれば? あんたらコンビニ大好きだもんね。あんなの薬品臭くて野良犬だって食べないのに。異世界人の舌はこの世界の野良犬以下なんじゃないの?」






女性店員の言葉で店がどっと沸き、嫌みったらしい拍手喝采が起こった。




店中から笑いものにされた異世界人勇者は、顔を真っ赤にして唇を震わせている。




ジュリオは、露骨な異世界人差別を目の当たりにして悲しくなった。


異世界人の女性を母に持つが故に、酷い差別と苛めに晒されてきた弟ルテミスを思い出してしまう。幼きルテミスの泣きじゃくる姿が頭に浮かび、胸が痛くなる。






「このクソ店員が……ッ! 一体、誰のお蔭で平和に暮らせると……」



「平和? ふざけんな! あんたらのチート能力やおかしな文明が、この世界の人からどんどん職を奪ってる事に気づいてないの!? あんたらがコンビニ何か建てなけりゃ、うちの店は潰れなかったのに!」






女性店員の表情には、悲痛な怒りが見て取れた。



コンビニのせいで店が潰れたと怒る女性に、異世界人勇者はどう怒っていいのか迷っているようだ。



確かに、異世界人の文明のせいで職を無くした悔しさはわかる。


だからといって、差別行為を正当化する理由にはならない。



今回ばかりは、ジュリオの心は異世界人勇者の味方だった。






「さっさとあんたらの世界に帰んなさいよ異世界人! チート能力でイキることしか出来ないクソ猿共が! これ以上私達の世界を蹂躙するなッ! 私達の世界から出てけッ!!」






流石にその台詞は無いだろう、とジュリオは思う。



異世界人だって、来たくてこの世界に来てるわけじゃないのだ。ある日突然この世界に召喚されただけに過ぎない彼らに、出ていけとはあんまりではないか。




思わず反論しそうになった、その時だ。






「あぁあぁ! うるせえうるせえうるせえ! ぶっ殺してやるこのブスッ!!!」






異世界勇者は何かをブツブツと呟くと、何もない空間から、まるで思春期の少年が夜中のテンションで描き殴ったような、装飾だらけのゴテゴテとした黒い大剣を取り出した。


フーッフーッと荒い呼吸をして真っ赤な顔で怒り狂う様子から、多分酒が回っているのだろうと思われる。




大変な事になったとジュリオは青ざめ、思わずヘアリーの顔を見た。


ヘアリーはキリッとした表情を浮かべて頷くと、すぐに喧嘩の仲裁をしようとする。






「勇者様♡ ……ちょっと、落ち着きませんか?」



「は!? 俺が悪いってのか!? 差別したのはあのブスだろッ! 何であいつの味方すんだよ!?」



「味方なんてしてないです! でも、この場でチート能力の剣を振り回したら貴方の負けです勇者様!」






悲痛な顔で異世界人勇者にすがり付くヘアリーは、ぶりっ子演技を完全に忘れているようだ。



ヘアリーには異世界人のおでん屋の店主という家族がいる。だからこそ、異世界人勇者がチート能力で大暴れするのを止めたいのだろう。


ここで異世界人がチート能力で大暴れしたら、この世界で生きる異世界人の立場が悪くなるだけなのだから。






「ヘアリー。まさか……お前も、俺を差別するのか? お前もペルセフォネ人だからか!?」



「!? 違います! 私が言いたいのは差別に対抗するのは暴力でなく時間と対話による人道的な」



「お前も俺をバカにするのかよヘアリーッ!?」






異世界人勇者は、泣きそうな顔でヘアリーに張り手をした。


耳から顎にかけて流れるような打撃である。


殴った手を痛がる様子から人を殴り慣れた雰囲気は無いが、まるで『人が人を殴る様子を日常的に見て学んだ』様な動きではあった。


そして、そんな様子を日常的に見て学ぶ機会など、悲しいが一つしかない。異世界人勇者が育った家庭事情に、大体の察しがついた。




だが、そんな事を考えている場合では無い!




ヘアリーは床に叩き付けられるように倒れると、殴られた箇所を手で庇うように身を縮めているのだ。






「ヘアリー! 大丈夫!?」






傍で怒り狂った異世界勇者がいるというのに、ジュリオはそんな事を忘れ、真っ先にヘアリーへ駆け寄った。






「ふざけんじゃねえよ……どいつもこいつも……俺は勇者だぞ? この世界の連中は……誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ……」






異世界勇者はブツブツと何かを呟いているが、そんな事にかまっている場合ではない。



問題はヘアリーの怪我だ。殴られた片耳からは血が出ている。殴られた衝撃で怪我をしたのか!?



それに、耳を強く殴られたのなら、頭への衝撃が不安である。嫌な想像ばかりが巡った。



ジュリオはその場に膝を付きヘアリーの怪我をした耳に手を当て、ヒールの詠唱を唱えようとしたが、異世界勇者の怒鳴り声で集中力が途切れてしまう。






「このカマ野郎が!! お前も俺もバカにしてんだろ!? お前もペルセフォネ人だもんな! こいつと一緒に俺の事バカにしてんだろ!?」



「黙ってくれる? 見てわからない? 怪我人の手当てをしてるんだよ、今。…………誰のせいだと思ってんの?」






ジュリオはバカだが一応王子であるが故に、上品で傲慢な育ちをしている。


だからこそ、怒鳴られても怒鳴り返す様な事はせず、相手を小馬鹿にしたような皮肉めいた言い方しか出来ない。そんな上から目線な対応が、火に油を注いでしまう。






「うるせえこのカマ野郎ッ!!!!」






ジュリオは、ブチ切れる異世界人勇者を無視してヘアリーの治療中に集中している。



だからこそ、自身に振り下ろされる異世界人勇者の剣に全く気が付いていなかった。







「ジュリオ様!!!」



「え……? カンマリー……今、なんて」






ジュリオ『様』と、今確かにカンマリーは言った。



普段、カンマリーはジュリオの事をジュリオさんと呼ぶ。それなのに、何故。




しかし、そんな疑問はすぐにぶっ飛んだ。



目の前には、自分に振り下ろされたであろう異世界人勇者の大剣を、カンマリーの刀が受け止めているという、危機一髪な状況があった。


細くしなやかな刃は、チート能力による大剣を余裕で防いでいる。


刀に比べて異世界人勇者のチート能力による大剣の方が、圧倒的な大きさと太さがあるというのに、カンマリーの刀はそんな大剣をまるで長ネギかちくわを防ぐかの様に、ビクともしていなかった。




まるで、チート能力など全くの無効とでも言いたげな刀である。




そんな事を思った後、しばらくしてからジュリオは『あのチート能力による大剣は、僕をぶった切るつもりだ』と言うのがわかり、背筋に嫌な寒気が走った。






「……勇者殿、お疲れでしょう?……しばらく、風に当たられてはいかがですか?」



「カンマリー!? どうして……お前まで、俺をバカにするのか……」






異世界勇者は打ちひしがれた顔で大剣を消滅させると、憎らしげにジュリオとヘアリーに顔を向け、まるで仲間に裏切られたかのような被害者面を浮かべて店から出ていった。




そして、異世界勇者は明日の昼になるまで帰って来なかった。






◇◇◇






悲惨な夜が開けた、翌日の昼のことである。 



宿に戻ってきた異世界人勇者は、不機嫌面のまま一言も喋ろうとせず、黙々と慟哭の森に向かう準備をし始めた。ヘアリーを殴った事に対する謝罪は一切無しである。




それに対し、一同は特に文句を言うでなく、黙って異世界人勇者の後を着いていくのだった。



何故なら、このような事はしょっちゅうであったため、一々怒るのが無駄だからである。




諦めを顔に滲ませた一同は、不穏と緊張感が入り交じる空気に表情を曇らせながらも、ついに恐怖のダンジョンである慟哭の森へと足を踏み入れた。




時刻は夕方に入った頃。


普通のアナモタズはこの時間になると眠りにつこうとするため、一番狩りやすいという話だ。


確かに、森の入り口付近のアナモタズは、眠たそうな緩慢な動きをしており、容易く狩ることが出来た。



次々とアナモタズを仕留め高価な素材を収集し、一同は慟哭の森を進んでゆく。



だが、森の奥へと進むにつれて、より体のデカく凶暴な性格の個体のアナモタズが出てくるようになった。


しかも、夜だと言うのに元気に動き回っている。




それでも、チート戦力を持つ異世界人勇者が黒い大剣を振るうと、アナモタズはいとも簡単に断末魔をあげて地面に崩れ落ちてしまう。やはり、異世界人のチート能力はとんでもない。


この世界の理を凌駕する脅威に、ジュリオは言葉も無かった。




そんな風に、アナモタズを狩りまくっている内、いつの間にか夜になっていた。



慟哭の森も入り口付近に比べ道が悪くなっており、鬱蒼とした木々は魔物と見間違えるほど枝葉が荒々しく見える。


手つかずの自然は人にとって魔物に等しいとさえ思う。






「アイツが言ってたのは……あの休憩小屋か……」






異世界勇者は不可解な独り言をぶつぶつと呟き、目の前にあるボロ小屋へと歩いて行ってしまう。


言葉の違和感に気を取られながらも、休憩小屋という意味が分からず、ジュリオは小声でヘアリーに尋ねた。






「ごめんヘアリー、休憩小屋って何?」



「休憩小屋というのは、ダンジョン内にある冒険者の為の休憩所です。冒険者が自由に使える施設ですね」






ヘアリーは小声で教えてくれた。


例えボロ小屋でも、安全に夜を過ごせるなら大助かりだ。



無言のまま小屋へと進む異世界人勇者の後に、ジュリオとヘアリーとマリーリカ姉妹も続いた。


  





◇◇◇







小屋の中は外観とは違い、人が休める程度には整ったもので、ジュリオは少し安心をする。


焚き火の明かりが優しく室内を照らし、見ているだけでホッとする心持ちとなった。




時刻は夜から深夜へと進んでおり、一同の顔に疲れが滲む。



ジュリオは小屋の隅で壁により掛かりながら、膝を抱えて座っていた。


体力は限界に近く、気を抜いたら一瞬で眠ってしまいそうになる。




ヘアリーとマリーリカ姉妹は、外の様子を見てくると言い小屋から出ていった。


昨夜の異世界人勇者によるヘアリー平手打ち事件の後だ。同じ空気など吸いたくも無いのだろう。それに関してはジュリオも同じだ。


しかし、疲労には勝てずジュリオは動けなかった。




ああ、瞼が重い。


小屋の中にいるという安心感のためか、ジュリオは眠気に飲まれかけていた。




薄い壁に寄り掛かると、板壁の隙間から何かが聞こえてくる。




そりゃあ、こんな深くてワケのわからん森なのだから、変な音くらい聞こえるだろう。




まるで、生き物の荒い呼吸と地鳴りのような鳴き声なんて…………




地鳴りのような鳴き声!?




ジュリオの眠気が吹っ飛んだ瞬間、






「いゃぁあああああああっ!!!! なんでアナモタズがッ!? やだっ! やだやだやだやだやだやだ来るな来るなぁぐぅッ!」






小屋のすぐ外で、ヘアリーが絶叫した。



続いて、ドスドスと言う大きな足音と獣の咆哮が聞こえ、ジュリオはわけがわからなくなる。






「……ざまぁ……だな。……くくっ……」






異世界勇者は笑っていた。


仲間の悲鳴が聞こえたと言うのに、異世界人勇者は小屋の中で寝っ転がって笑っている。



何事かこれは。


夢か? 夢なのか?



咄嗟に自分の腕に爪を立てたが、しっかりと痛みがある。


これは現実であった。






「あ、あの……なに? ねえ、どうしたのこれ」



「どうしたのって、アナモタズが飯食ってんだよ」






起き上がった異世界勇者は暗い目をして笑っている。歪んだ笑い顔は悪辣で、ジュリオの背筋に悪寒が走った。



 



だが。


今はそんな場合ではない。






「やめてやめてお願いお願いお願い! 右腕は食べないでッ!!! 記事がっ、私は記者なのっ! いや、助けて、助けてぇっ! お父さア"ッ」






ヘアリーの声が。


恐ろしい悲鳴が途絶え、すすり泣く声と「助けてお父さん……」と言う掠れた声がする。






「なあ、勇者の俺にヘアリーを助けて欲しいか?」






異世界人勇者は感情の無いガラス玉のような目でジュリオを見ながら、ゆっくりと立ち上がる。



そして。






「じゃあ土下座しろよ。土下座」






と指で床を指した。



今はこいつを刺激してはいけないと思い、言われるがまま床に膝をつく。


手を付き頭を垂れると、上から「そうじゃねえだろ」怒鳴られ、後頭部を踏みつけられ床に顔面をぶつけた。  





「いッッだぁッ」



「土下座ってのは額を床に擦りつけんだよ。常識だろ常識」






後頭部を硬い靴底でグリグリと踏みつけられる。






「はやく、はやくヘアリーを助けて……ッ痛ッぅ……」



「だからお前が行けよお前が。……ああ、無理か。お前は戦えないもんな。アナモタズの餌になって終わりだからなぁ。あはははっ」






一際強い力で踏みつけられうめき声が出る。






「旅パの宿命だよな。メンバー入れ替えって。いらねえやつと新しいやつ交換すんの」



「何を言って……ッぐぅ」



「俺の言う事聞かないレイシストブスなんかいらねえんだよ。どうせ女の一匹二匹減っても、冒険者ギルドで補充すりゃ良いし。ゲームだと大体メンバー入れ替えしてるもんな。いらねえヤツを馬車とか酒場とかに放置してさ。あはは」






いつの間にかヘアリーの声は聞こえなくなっていた。




ああ。もう、駄目なのだろう。






「何でかな。全然罪悪感わかねえわ。……やっぱり、異世界だからかな」






異世界人勇者が、土下座するジュリオの頭を踏みつけながら、感情のこもらない声で呟いたその瞬間。




バキンッ! と言う板壁の割れる音と共に、小屋ごと大きく揺れる衝撃に見舞われた。



飛び散った板と土のせいで焚き火が消え、部屋一面が暗くなる。



そして。




グォォオオオオオオと雄叫びをあげるアナモタズが、壁をぶち破って侵入して来たのだった。







「は? はは……! 待ってたぜアナモタズ! なあ、わかるか? こいつが最後の餌だ!!」





なんの脈絡も無く前触れも無く、突然小屋の壁をぶち破ってきたアナモタズに、異世界人勇者は怯えと笑いが入り交じる声話しかける。




しかし、アナモタズはグルルルルルと唸り声を上げ、やたらと騒がしい異世界勇者をじっと見ていた。





「は? 何で俺の事見てんだよ。ちげえよ。こいつだよこいつ! この金髪男がお前の餌なの! そう言われてる筈だろこのバカ!」






しかし、グルルルルル……とアナモタズは唸り声を出し、喧しい異世界人勇者から視線を逸らさない。


自身に対して殺意剥き出しのアナモタズに、異世界人勇者もビビってしまったのか、ひたすらにジュリオを指差し「餌だ! 餌!」と叫んでいる。






「なんだよ……!? 何でだよ!? 何で俺の方ばっか向いてんだよ! 俺じゃねえだろ俺じゃッ!!」






完全にパニックになり騒ぎ立てる異世界人勇者は、とうとうアナモタズと遭遇した際の最悪の悪手を踏んでしまう。






「ひ、ひぃっ……」






恐怖に負け、アナモタズに『背』を向けて小屋の奥へと『逃げよう』とした、次の瞬間。





グォォオオオオオオオオオオと雄叫びをあげたアナモタズが、異世界勇者に飛びかかった。






「あぁあああ!!! あのやめてやめてくださいお願いしますぁああぁ!!!」





アナモタズは異世界人勇者の肩に噛み付き、顎を左右にブンブン振って肉を引き千切ろうとしている。絶叫と血の匂いと獣の臭が混ざりに混じって、衝撃のあまりにジュリオの思考が止まった。






「やめて……やめて……死にたくない……死にたくないです……俺が……お母さんを守らないと……お父さんが……お父さんが……」






異世界勇者の声が震えている。


死を前にして錯乱しているのか、まるで幻覚を相手に許しを乞うよう話しかけていた。




アナモタズは異世界勇者の衣服を噛み千切る。


布が割ける嫌な音がした。


食い千切られた鞄からは荷物が散乱し、異世界勇者の血液とアナモタズの唾液が荷物を汚す。


荷物の一つである財布がジュリオの足元に吹っ飛び、そこから小さなカードが飛び出てきた。 



そのカードには『聖華が丘学園高校 三年一組 赤木 優』と異世界文字で書いてある。


この世界のものでない黒い服を着た死んだ目の異世界勇者の写真が貼られていた。




だが、ジュリオは足元を見る余裕など無いし、そもそも異世界文字など読めやしない。



もう誰も、彼の本名を呼ぶ者はいない。






「お父さんやめて……お母さんを殴らないで……代わりに俺を……土下座するから……だから……お母さんを……殴らないで……」






幻覚相手に許しを乞うように話しかける異世界人勇者の震える声は、パキパキゴリゴリガリガリという嫌な音で掻き消された。


その音の正体は、アナモタズが異世界勇者を咀嚼している音だ。




遠くからマリーリカの悲鳴が聞こえる。





ジュリオはただ、震えることすら出来ずに腰を抜かして硬直するばかりである。




こんな筈じゃなかったと、目の異世界人勇者…………いや、赤木優という少年が魔物に食われながら言った。



それはこっちのセリフだとジュリオは思った。




月も星も食らう黒い雲が重く流れる、それはそれは気味の悪い夏の夜のことである。

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