眠れず上がれず葉隠先輩

寺音

困り事

 窓際のカーテンがふわりと揺れる。それに誘われたのか、彼は大きな欠伸を一つ。

「言っておくけど、僕が手助けできるのは本当に短時間だけだよ。それでも良い?」


「短時間って、どのくらいですか?」

 恐る恐る訊ねた橋本小春はしもとこはるに対し、彼は自分の目の下、くっきりとついた隈に触れた。

「頑張って、五分くらいかな。それ以上だと僕の気力が持たない」

 予想以上に、短かった。


「キミ、僕に何を頼みたかったの?」

「家の鍵を、なくしてしまって……」

 俯きがちに小春が呟く。深いため息を吐いて、彼がゆるりと腕を組んだ。


「それ、五分じゃ無理だね。僕の噂話って制限の話はなかったの?」

 その表情はどこか眠たげで、瞬きをしている内に眠ってしまいそうだった。


「まぁ、良いや。とりあえず、ここまでの経緯を話して。なるべく詳しく、かつ速やかに」

「引き受けてもらえるんですか!?」

 表情を輝かせ顔を上げると、彼はぴしゃりと言い放つ。

「良いから、時間が勿体ない」

 親切なのかそうでないのか、彼の態度はどうにも読めなかった。


 彼はこの県立花物山けんりつかものざん高等学校で噂の生徒、その名を葉隠仙葉はがくれせんば


 通称、の葉隠先輩である。




 五月。早くも夏の兆しが感じられるこの日に、橋本小春は校舎の階段を駆け上がっていた。

 この、冬服とされる制服がまた鬱陶しい。もう全身汗だくだ。心臓の音が耳に響き、喉がカラカラで苦しい。

 ここまで来る間にも、学校へ続く上り坂を走ってきたのだ。

 自分の通う高校は何故こんな山の上にあるのだろう。そんな疑問が頭をよぎった。

 ホームルームまでは、あと数分。急がなければ遅刻である。


 階段を上りきり角を曲がると、ようやく廊下の先に『1ー3』の教室が見えてきた。



「ちょっと、橋本さん!?」

 あと少しと言う所で、突然背後から声がかかった。ソプラノの美声が静かな廊下に響く。

 小春は足を止めて振り返った。

 音楽担当の松本絵里まつもとえり先生である。彼女は小春の所属する合唱部の顧問でもあった。プリーツスカートを颯爽と揺らし、足早に小春の元へとやって来る。


「これ、さっき貴女のリュックから落ちたわよ」

 廊下を走っていたことを注意されるかと思ったが、違うようだ。小春は身体の力を抜くと、先生の手の中へ視線を落とす。

 そしてギョッと目を剥いた。


 見慣れた、メタルプレートのキーホルダー。人気キャラクターが刻まれたそれには、鍵が一つ付いている。

 小春の自宅の鍵だ。


「え、あ、すみません、ありがとうございます!」

「気をつけなさい。落とし物も、廊下を走るのもね」

 やれやれと言うような顔をして、松本先生は踵を返して廊下の角へと消えていく。


 ぼんやりとその背を見送っていると、廊下にチャイムの音が鳴り響いた。

「遅刻!?」

 小春は鍵を握りしめたまま、慌てて教室へと向かった。




「お疲れ様でした! 先生、さようなら」

 帰り支度を済ませ、小春は音楽室を後にする。

 廊下から窓の外を見ると、遠くの空が薄ら橙色に色づいてきていた。

 小春はうんと伸びをする。


 今日は色々と大変だった。

 彼女は人通りのまばらな廊下を歩きつつ思う。

 しかし遅刻の件も鍵を落とした件も、結果的に大事にならずに済んだ。運が良かったのだろう。


 うんうんと一人頷きながら、小春は靴箱へ向かった。合唱部の練習も終わり、後は家に帰るだけである。


「あれ?」

 上履きを脱ごうとした所で、ふと小春は動きを止めた。ドキンと、喉から飛び出してきそうな程、心臓が大きく跳ねる。


「そう言えば、あの時拾ってもらった鍵、どこにしまったんだっけ?」


 拾ってもらった鍵を受け取り、手に握りしめていたところまでは覚えている。しかしその後の記憶が曖昧だ。咄嗟にしまったはずだが、が思い出せないのである。


 まず彼女は着ている制服のポケットを探る。

 ない。

 続けて通学リュックの中を漁った。いつも鍵を入れている内側のポケットにはない。他のポケットにもない。

 汚れるのも構わず、小春はリュックの中身を廊下に出してみる。教科書、ノート、筆箱、スマートフォン、財布、今日授業で着た体操服の入った袋も出てくる。

 体操服の袋の中、筆箱の中まで覗いてみるが、やはり鍵は見つからなかった。


「どこに行ったの……?」

 もしかして、また落としたのだろうか。

 小春はリュックの中身を元に戻すと、再び校内へ戻っていった。




 どこにもない。

 小春は最後に職員室へと向かった。ほとんど席の埋まった職員室は威圧感がある。担任や松本先生の姿も見えた。

 意を決して顔見知りの先生を捕まえ、鍵のことを尋ねるも、鍵は届いてない、とのことだった。

 まるで死刑宣告だ。挨拶もそこそこに小春は焦って職員室を飛び出す。



 当たり前だが、鍵がなければ家には入れない。今日も両親は仕事で遅いだろう。

 遅くまでやっている部活動も終わり、校内は嘘のように静かだ。


 いっそ先生方に助けを求めたら良かっただろうか。しかし、皆忙しそうだったし。

 どうしようどうしようと、頭の中でその言葉だけがぐるぐる回る。


 他に、何か手はないのか。

 途方に暮れて視線を泳がせたその時、目についたのは『保健室』と書かれたプレートだった。


「そう言えば」

 友人から聞いた、ある噂話が頭に浮かぶ。


 そう、この高校には有名な男子生徒がいる。


 噂の彼は滅多に登校してこない。そして登校したとしても、基本保健室に入り浸っている。

 所謂、保健室登校だ。


『彼は心に傷を負い、そのことが原因で不眠症なのだ』

『このままでは、進級すら危ういのではないか』

 そんな話の中にあり、一つだけ毛色が異なるその噂。


『彼は人の困りごとを何でも解決してくれる』


 本当だろうか。

 期待と不安で胸をドキドキさせながら、小春は保健室の扉に手をかけた。鍵は空いていたようで、うっすらと隙間ができる。

「失礼します」

 言うと同時に小春は扉を開け放ち、その身を滑り込ませた。



 保健室に明かりはついていなかった。少し黄ばんだ白色のカーテンが、薄暗い部屋でぼんやり光る。

 窓は開け放たれており、着ているシャツ越しに少しひんやりとした空気が触れた。

 いつもなら島座美世子しまざみよこと言う先生が、その柔和な笑みで迎えてくれるはず。

 誰もいないのか。


「何の用?」


 突然聞こえた声に、小春は肩を震わせる。

 声がしたのは彼女の左側、ベッドのある方である。

「先生なら今出てるよ。用事があるなら後にして」

 仕切りのカーテンを少し開いて、一人の男子生徒が顔を覗かせた。


 鳥の巣のような頭、少し日に焼けた肌、そして目の下にくっきりと刻まれた隈。

 間違いない、彼が噂の。


「葉隠先輩?」

「うん」

 小春が呼ぶと、彼は肯定とも相槌とも取れるような声を漏らす。


「私、先輩にお願いがあってきたんです! あの噂、本当ですか? その、困りごとを解決してくれるって言う」

「——ああなんだ、そっちなの」

 彼は気だるげに首を横に振ると、仕切りのカーテンを開き小春の前に立った。


 身長は小柄な小春とほとんど変わらない。葉隠先輩は一応二年生、一学年上のはずだが、あまり体格の良い方ではないようだ。

 着用しているブレザーは、お尻をすっぽり隠してしまうほど大きい。袖もパンツの丈も少し余っている。


 先輩は窓から風が入ってきたのと同時に、ふわりと欠伸を一つ。

「言っておくけど、僕が手助けできるのは本当に短時間だけだよ。それでも良い?」

 そして、こう言ったのである。




「と、言うわけなんですが」

 一通り経緯を話し終え、小春は葉隠先輩の様子を伺う。

 ベッドに腰かけた彼の頭が、船を漕いでいた。

「ちょ、ちょっと先輩!?」

「ん、ああ。大丈夫、大丈夫。話はちゃんと聞いてたから」

 彼は全く大丈夫ではなさそうに目を擦っている。

「そんなに、眠いんですか?」

「夜は元々眠れないし、昼はキミみたいな人が頼みごとに来るから」

「すみません」

 小春は思わず謝った。


「好きでやってるし良いんだけど」

 葉隠先輩はそう言うと、腕を組んで小春を見上げる。

 確認だけど、と彼は小春に問いかけた。


「校内を出歩く時は一人だったの?」

「いえ、基本は友達と一緒でした」

「探した場所はどこ?」

「基本出入りした場所は全部です。教室とか通った廊下とか体育館とか更衣室とか音楽室とか」

「鞄の中身も、制服の中もちゃんと探したって言ってたっけ?」

「ええ。こんな風に、ちゃんと探しましたよ」

 小春は着ている制服のポケットへ手を突っ込んだ。

 何度探っても、ハンカチとティッシュくらいしか出てこない。


 葉隠先輩は両目を閉じて、あーと声を出す。眠気に耐えているような、何かに納得したような。

 そして、言った。


「うん、なんとなく分かった」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る