2022年
「シュウさ〜ん、早よ行かな雨降ってくるで、って
「なにが面白いのか全然分かんねえな。そんなに先に行きたきゃ走っていけ。俺はこのペースでしか歩けねえ」
「またまた〜、おじいちゃんみたいなこと言うて〜、っておじいちゃんか! シュウさん今年で幾つやっけ? 80?」
「75だ。失礼なガキだな」
「俺は〜35歳! せやからガキやない!」
「ガキだよ」
雨ヶ埼
あの後。スミレという源氏名で風俗店に勤務していた雨ヶ埼
スミレを指名したのはほんの数回だ。それなりのサービスは受けたがセックスはしなかった。シュウさんやったら本番してもええんですよ、とスミレは言ったが、馬鹿馬鹿しくて断った。そうして、あの話だ。結婚の話だ。
雨ヶ埼という名は知っていた。実に金に汚い、金だけを偏愛する一族として関西圏のヤクザから話を聞いたことがあった。「あいつらに関わっても碌なことになれへん。金にならへんだけやない、ヒトとしての矜持ものうなるわ」とそのヤクザは言っていた。他者の生き血を啜って生きるヤクザにそこまで言わせるとは、と秋彦は久しぶりに愉快な気持ちになったことを覚えている。金に執着があるのは秋彦も同じだ。いつかどこかで出会うことになったら、そうなったら、さぞ。
「お姉ちゃ〜ん! 令やで! 令とシュウさんが来たで!」
「烏子だけか。オヤジとお袋はいいのか」
「どっちも会うたことないからどうもピンとけえへんねんなあ。せやけど、まあ、お父さん、お母さん、令です。お元気ですか。て、もう全員死んでますがな!」
馬鹿笑いをする令を押し退け、手向けられていた花をゴミ袋に入れ、提げてきた桶の水を柄杓でゆっくりと墓石にかける。秋彦の手からスポンジを取り上げ、令が墓石を擦った。
「雨降るから無意味になってまうかもなあ」
「こういうのは気持ちだよ」
「気持ちて。シュウさんがそんなん言うのなんや笑えへんギャグみたいや」
「そうかよ」
「シュウさんが好きなんは〜令でもお姉ちゃんでもなくて雨ヶ埼のお金〜お金のために墓参り〜」
それなりに綺麗になった墓石の前に花を置き、線香に火を点ける。ついでに煙草を咥えると、令がスススと寄ってきて秋彦の肩に顎を乗せた。彼が真っ赤なピンヒールを履いているということに不意に気付いた。それは。
「お姉ちゃんの形見〜。カッコええやろ」
「買ってやったのは俺だよ」
「えっ、そうなん?」
「結婚する時にな」
「そうなんや! って俺シュウさんとお姉ちゃんが結婚した時まだジャリやったしなぁ。それにお姉ちゃんもすぐ死んだからなんや実感ないわ」
「どこにあった、その靴」
「お姉ちゃんの荷物のいちばん奥の奥。めっちゃ綺麗な箱に入っとったけど、古い汚い新聞紙で箱ぐるぐるにして隠してる感じやった」
「ふーん」
令のかたちの良いくちびるに吸い差しの煙草を咥えさせながら、秋彦は最期まで雨ヶ埼から解放されなかった女のことを考える。秋彦という味方を手に入れて颯爽と生家に戻っても、彼女は長くは生きられなかった。命じられるがままに体を売り、その金をすべてイエに吸い上げられていたスミレこと雨ヶ埼烏子は、秋彦を婿養子として迎えた半年後に急逝した。殺人ではない。本当に突然、生命の炎が消えてしまったのだ。
烏子の弟、令は、年齢よりもだいぶ幼い印象の子どもだった。彼を育てた叔父夫婦が敢えてそうしたのだろう。当主が不出来であればあるほど、後見人が持つ力は大きくなる。
烏子が存命のうちに令を取り戻すことができたのは僥倖だったが、誰よりも弟の無事を願っていた烏子が死んでしまったため、40の年の差がある義兄弟だけがこの世に取り残された。すべてが面倒になった秋彦は、雨ヶ埼の人間が隠匿していた令の出生に関わるあれこれや、彼の実父(血の繋がりはないがそういう表現しか秋彦には選べなかった)の死や実母の最期に関して、包み隠さず語って聞かせた。関西方面のヤクザや黒社会に生きる者たちに金を撒き、雨ヶ埼の悪行についても気が済むまで調べ上げ、すべての情報を令と共有した。25年の月日を費やしても尚、雨ヶ埼の抱える闇には果てがなかった。
「シュウさん〜これからどないしますのん」
「何が」
「叔父さんが〜シュウさんを〜除名するって言うてます〜」
歌うように令が言う。真っ赤なピンヒール、深い藍色の細身のスーツ、髪はツーブロックに刈り上げられ、残された烏の濡れ羽色が形の良い頭の上の方でくるりと団子を作っている。墓参りのための荷物はすべて秋彦に持たせている令は鞄ひとつ手にしていないし、スーツのポケットにも「見た目が悪くなるから」と煙草もライターも入れようとしない。
象牙色の肌に鋭い刃物で切れ目を入れたような一重瞼。長いまつ毛に縁取られたその目元が、烏子に良く似ていた。自死したふたりの母親も、こんな目をしていたのだろう。
「おまえ、まぶた」
「はい?」
「いいな、何色だそれ」
「あ、これ〜アイシャドウ〜菫色、今年の新色ですわ。お姉ちゃんもスミレちゃんて名前でフーゾクやっとったんやろ?」
「そうだな。懐かしい」
それで、除名がなんだって? 重ねて尋ねる秋彦の色の薄いくちびるに、吸い終えた煙草を墓石に向かって投げた令の長い指が触れる。令には、両手の指の薬指がない。叔父の元で切り落とされたのだ。結婚指輪も、婚約指輪も嵌めることができないように、と。
「色狂いが」
「シュウさんが先に始めたんやろ。俺がどこにも行かんように、えっちな体つこおてローラクして〜」
「籠絡なんて難しい言葉どこで覚えた」
「自分で辞書引いたんよ。シュウさんと俺の関係絶対おかしい、狂っとんなって思って」
「ハハ。そうか、狂ってるか」
「せや。けど、雨ヶ埼はもっともーっと狂っとるから、シュウさんが除名される前に叔父さんと叔母さんぶち殺さなあかんかも知れへんな」
薬指のない令の右手が秋彦の銀髪に触れる。癖のない蓬髪を指に絡め、解けていく様を目を細めて眺める。
「そのふたりだけでいいのか」
「いとこのミド姉ちゃんとサワちゃんは〜どやろなあ……ふたりもシュウさんのこと邪魔やと思うとるんやったら、まあ、殺すしかないやろねえ。カズキ兄ちゃんにはこないだホテル連れ込まれそうになったから、フツーに殺したいわ」
ぱらぱらと落ちる銀色に口付け、令がにっこりと笑った。
「ま、俺は自分の頭でなんも考えられへん阿呆てことになっとるんで。誰をどう殺すかはシュウさんにお任せしますわ!」
「おまえなあ。俺みたいな金が好きなだけの年寄りに、殺し屋の真似事なんかさせるなよ」
「自分で殺りはせえへんけど、殺し屋は雇うやろ?」
「まあな」
「ほんなら同じことやん、あとはよろしく! 無事に全部終わったらめちゃくちゃセックスしましょ!」
「それもてめえが楽しいだけだろうが。外に相手作れ馬鹿」
「シュウさんとヤるんがいちばん気持ちいんよ。なんや、行き止まりって感じで」
「ハ」
クソバカが、と吐き捨てて秋彦が先に踵を返した。令の父母はまだしも、烏子の墓の前でこれ以上物騒な会話をする気にはなれなかった。雨はまだ降り出さない。杖を付いてゆっくりと歩き出す秋彦の背を、令がピンヒールの踵を鳴らしながら追ってくる。
雨、腐り 大塚 @bnnnnnz
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