神崎朱莉という少女

こあ

序幕

 ずっと夢を見ている気がした。

 思い出してはさらさらと消えていく。

 押し寄せては、引いていく。春中頃の穏やかな波のようなそんな夢を。

 こつこつ、かつかつ。こつこつ、かつかつ。

 さわさわ、ゆらゆら。さわさわ、ゆらゆら。

 木をたたくキツツキの反復的なリズムと木の葉の擦れる心地よい雑音、そこにピーピーと鳴くすずめの声が加わり、何とも言えない心地よい気分になる。

 そんな余韻に目を閉じて浸っていると、女性特有のの甘い香りと幼く愛らしい印象を受ける声が暗闇の中から降ってきた。

「……きて、起きてよ、ゆうちゃん!」

 小さく華奢きゃしゃな手で肩をつかまれ左右に揺さぶられるが、少しひんやりと、そしてぷにぷにとした柔らかい感触に意識を集中させると案外心地の良いもので。

 その手に身を任せ、そのまま心地よさに揺られていると、ゴソゴソという衣擦れの音とともにお腹のあたりに少し重みを感じ、今まで感じていたよりもより一層甘美な香りが鼻に広がったかと思うと、肩にかけられていた小さな手がそのままするりと俺の後頭部に回されて唇にちゅぷりと柔らかく、そして温かな感触が襲ってきた。

驚きのあまりゆっくりと目を開けると…

「—っ」

「にひひっ、どーおびっくりした?」

 そこには小柄ながらも整った顔立ちと長い髪により可愛らしい雰囲気をかもす少女が俺の目と鼻の先に居たため、思わず言葉を飲んだ。

「あのなあ…」

「へへっ」

 少女がくしゃりと笑う。

「お昼にしよう?」

 そういって少女は、近くの切り株に置いていたバスケットを漁り始めた。

 中からランチョンマットと家で作ってきたであろうサンドイッチが入ったプラスチック容器、蓋がコップになった魔法瓶を取り出し、綺麗に並べる。

 サンドイッチの種類は見るにハムとレタスのサンドイッチとたまごとマヨネーズのサンドイッチだ。

 プラスチック容器を開けると、食パンに含まれるバターの香りが一帯に広がって強く食欲をそそられる。

「食べてもいいか?」

「どーぞ」

 少女はプラスチック容器からたまごのサンドイッチを掴んで取り出すと、俺の口のあたりまで持ってくる。

「いや…自分で食べれるから…」

「別にいいんだよ。はい、あーん。」

 何がいいのか。

 少女のあーんというために開けた半開きの口とそこから見える舌、口元についた小さなほくろ、自棄やけに近い顔、降りかかる吐息、更には小さい少女に食事させられているというこの状況も全てが相まって、俺の色欲は掻き立てられる。

 それを隠すかのように少し身を乗り出してサンドイッチにかぶりつくと、芳醇ほうじゅんなバターの香りとたまごの甘みが口の中に広がる。

 その時、俺の目から涙が溢れだしてきた。

 少女は、魔法瓶の中のコンソメスープをコップに注ぎ入れると半分を飲みこちらに手渡してくる。

 また、思い出してしまった。

 思い出してしまったからには戻れない。次から次へと涙が溢れだしてくる。

少女は何事もないかのように人懐っこい笑みを浮かべる。

その笑顔、コンソメスープを飲んだ後に唇をちろっと舐めるその仕草も、少女の髪が揺れたときにする飴玉ような甘い匂いも、サンドイッチの味でさえ、全部知ってる。

 涙が止まらなかった。

 俺はコンソメスープを勢いよく飲み乾した。

 このコンソメの香りも、少女と間接キスをした時の幸福感も、既視感があった。

 しかし、こんなことが今現実に起こりえるはずがない。よってこれは夢だと悟る。

 落ち着いた容姿とは裏腹に元気で活発な少女。色気に満ちた行動でいつも俺を誘ってくる少女。俺の初めて恋慕した少女―神崎朱莉かんざきあかりはもうこの世にはいないのだから。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る