その終焉に手向けの花を

Hatsuki

01.災難続き



 

 ――いつも同じ夢を見る。



 ――その夢は決まって「私の死」で終わる。




 ガタガタと音を立てながら揺れ動く振動と固く冷たい木の感触にゆっくりと瞼を開ける。


「…生きて、る…」


 まだはっきりとしない意識の中、唇を触ろうと手を動かすとジャラと鉄が擦れる音ともに両手首からひんやりと固く重い感触がした。


 これは…


「手錠?」


 ゆっくりと倒れていた上体を起こして1つしかない鉄格子の窓から差し込む月明かりに照らされたそこはまるで古びた木の小屋のようだった。


 それでエンジン音もなしに動いているとなると馬車かな?


 しかも鎖で繋がれているのは私だけではないみたいだし…。


 漸く醒めた目で辺りを確認すると私以外に8人。

 私を含め全員が薄汚れた同じ服を着て目深にフードを被った状態で鎖に繋がれていた。


 まじか……。


 これはあれだよね?

 小説とかに出てくるあの状況だよね?


 自分が置かれた状況から導き出された結論答えに頭を抱えたくなる。


 あの後、気絶してる間にいつの間にか人攫いに攫われたんだ。




◇ ◇ ◇




「ここ、どこ?」


 扉を開けた先に広がる鬱蒼とした森の中の光景に訳もわからず1人呆然と立ち尽くす事しかできなかった。


 そしていつの間にか掴んでいたドアノブの感覚もなくなっていて、玄関の扉自体が消えてしまっていた。


 ふと視線を感じて唯一日が差し込んでいた場所に視線を向けると小さな池の上に倒木した大きな木があり、その木の上に1匹の白い猫が座っていた。


 どうしてかその猫から視線が逸らせず、近付いても逃げない猫に触れた瞬間、頭の中に一瞬誰かの声が聞こえた気がした。


 だけどその声について考える猶予もなく、夕明りに照らされながら不気味な唸り声が聞こえて、反射的に猫を抱き上げて唸り声が聞こえた方向を凝視すると、木々の中から現れたのは2本の角が生えたライオンのような頭に猿の胴体をした隻眼の黒い獣だった。


 その獣と目が合った瞬間、私は猫を抱いたまま走り出していた。


 着ているお気に入りの制服の袖が木々の枝に引っ掛かって破けようと、タイツが裂けようとも立ち止まらず無我夢中にただひたすら走った。


 そうしてなんとか命からがら逃げ切ったと思ったら、次に目覚めた時には囚われの身か…ついてなさすぎる。


 というか獣から逃げてる時に負った筈の傷が痛まないのはどうしてだろう?

 結構出血もしてた筈なのに今のところ痛みは感じない。

 血の匂いはまだするけれど……。


 それにしてもあの猫は大丈夫だったかな?

 確かめる術はないけれど、無事だといいな。

 流石に、もう会うことはないよね……。


 それにあの子達は大丈夫かな?

 無事に家に帰れていたらいいんだけれど。


 黒い獣から逃げている際に出会った2人の子どもを思い出す。


 その2人の子どもも別の黒い獣に襲われる寸前だったけれども、私を狙っていた獣とぶつける事ができて、なんとかその2人だけを先に逃す事ができた。


 それにあの2人のおかげで私もあの獣から逃げ切ることができたから。


 森の中に流れていた川。

 その川を境界線にその結界が張られているから、川を超えれば、あの黒い獣から逃げ切れるとあの2人の子どもが教えてくれて、なんとか川を見つけて渡り切る事ができたけれど、まさか渡り切った直後に魔獣から投げられた何かが当たるなんて……。


 さすがに物理攻撃無効とかはついてなかったか。


 でも川を渡る時に感じた、何かを通り抜ける様な感覚は覚えている。

 まるで薄いベールを通り抜けたような感じ。


 あの感覚が結界だったのかな?


 とりあえず、今はここからどうやって脱出するか考えないと。

 

 どうして傷が消えているのかとか、気になる事が多いけれど、今はこっちが優先だよね。


 ちらりと横目で他の子たちの様子を窺うと、皆黙ったままフードで表情は見えないけれど諦めに似た暗い雰囲気を漂わせていた。


(確かに、この状況だと絶望しかないよね)


 手には錠。

 ボロ布を着せられただけの身体。

 そして来たる未来は悲惨な奴隷生活。

 

 ふと視線を感じてそちらを見ると斜め向えに座る小さな女の子と目が合った。

 その花緑青の瞳を見た瞬間、ドクリと心臓が脈打った気がしたけど、どうしてだろう?まさか度重なるストレスでとうとう不整脈になっちゃったとか?


 まさかねと思いつつ、また女の子へと再び視線を向けると膝頭に顔を埋めてしまっていた。

 その様子を気遣うように隣に座る少女が身を寄せているのを見ると2人は姉妹なのかな?


 とりあえず逃げるなら馬車が止まってからでないと無理か…手錠もどうにかしないと。


 人攫いには話が通じないだろうし。

 現に外から粗野な言葉遣いがずっと聞こえる。会話の印象から都合が悪くなると暴力で解決するタイプの人たちだよね。


 私たちが乗った車は1つ。その御者1人とその周りに仲間が数人ってとこかな?

 周りに響く足音が蹄音じゃないって事は馬以外の何かで移動しているのかな?


 カシャンカシャンと枷の間の鎖を鳴らしていると突然車が止まった。


 疑問に思い顔を上げた次に聞こえてきたのは人攫いたちの叫び声ともとれる悲鳴だった。

 その悲鳴もすぐに消えて、張り詰める緊張の中、静まり返る小屋に静かに響いたのは扉の鍵が開く音だった。


 古びた音を立てながらゆっくりと扉が開かれる。


「ご苦労様でした。ロウェリーさん、アルシェ」


 そこに立っていたのは執事服姿で右目に片眼鏡モノクルと左胸に装飾を付けた初老の白髪の男性だった。

 その男性の言葉に重たい金属が床にぶつかる音を立てるとゆっくりと先程の姉妹の姉だろう人が立ち上がった。


「いえ、このくらいは。どうやら首尾良くいったみたいですね」

「ええ。お陰様で領地内で治めることができました」

「そうですか、では予定通りに」


 男性の傍に移動して何かを小声で話し終えると、被っていた薄汚れたフードを脱ぎ、一束に結われた長い山吹色の髪を靡かせ真っ直ぐな視線でこちらを振り返る。


 助かったのかな?と思った瞬間、なぜかとてつもない眠気に襲われた。

 眠ってはいけない状況なのに抗うこともできずにそのまま瞼を閉じてしまった。




◇ ◇ ◇




「どうやら人攫いたちはあのままクラヴィスの森を抜け、プルメテリア王国へ向かう予定だったようです」

「プルメテリアですか。あの国は紛争地域にも面しているので奴隷売買が盛んに行われていますね」

「はい。そしてこの時期は例の祭りで人の出入りが盛んになりますので、そこを狙ったのでしょう」


 比較的上質な部屋の中、4人の人物が互いに顔を合わせながら椅子に座る。

 そしてその人物たちの間に置かれたテーブルに8歳くらいの幼女が温かいコーヒーが淹れられたカップを置いていく。


「ありがとうございます。アルシェ」

「…………」


 白髪の執事が幼女に礼を言うと幼女は花緑青の瞳を嬉しそうに細めるとぺこりと頭を下げ、トレンチを抱えて部屋の隅に用意された椅子に座った。


「それで保護した少女たちは?」

「私とアルシェを除いた7名の内6名は幸いな事に身元が判明していますが、残りの1名がその…」


 何故か言い淀むロウェリーに執事と幼女以外の視線が集中する。


 どこか困惑した表情を浮かべるロウェリーに目の前に座っていた執事は続きを促すように頷くと、ロウェリーは一度視線を逸らすも意を決したように執事の隣の椅子に腰掛ける黒髪の青年へと視線を向けた。


「実はその1名はまだ目が覚めておらず、彼女に対しての聴取が進んではいないのですが、人攫いの連中によると彼女はクラヴィスの森の中、聖女の結界の境界線とされているクラージュ川付近で血塗れの状態で1人倒れていたところを見付けたらしく、見るからに顔立ちも良いことから奴隷商に引き渡すまでに生きていればいい商品になるだろうと連れて来たようです。

 そして先程、邸宅前で騒いでいたクラヴィスの森から戻ってきたという2人の子どもの証言によると、聖女の結界外で魔獣に襲われそうになっていたところをある少女に助けられ、無事に帰って来れたとの事で、念の為その2人に直接彼女を確認してもらったところ、その少女と同一人物であることが判明しました」

「それで、その少女の容態は?」


 抑揚のない青年の言葉にロウェリーは力無く首を振った。


「連中を制圧した後、車内で再び気を失った彼女の身体を確認したのですが、大量の血の痕はあったもののどこにも傷はありませんでした」


 その言葉に何かを思案するように青年は口元を手で覆う。

 青年の金色の瞳の鋭い視線に緊張しながらもロウェリーは続ける。


「聖女の結界内なので魔獣の出現はないと思いますが、他種族の可能性もありますので安全確認が取れるまでは念の為、彼女には近付かれないでください。私はもう一度彼女の部屋に行って参ります。もしかすると目が覚めているかもしれませんので」


 席を立ち黒髪の青年に一礼をした時だった。


 扉から慌てた様なノックの音が部屋に響いた。

 それに反応してロウェリーが扉を開けると、そこにはとても焦っている様子の女性が立っていた。


「何事ですか?」

「お話し中申し訳ございません。それが保護された少女の方々の中でも特に注意するようにと申し付かっておりましたお方の姿がどこにも見当たらなくなってしまって」




◇ ◇ ◇




 月明かりの下、草原に生える草を裸足で踏みしめながら1人の少女が当ても無く歩いていた。


(結局出てきちゃった)


 目が覚めたらベッドの上で血と泥で汚れていた身体も綺麗になっていて、ボロ布とは別の清潔感のある白い服を着せられていた。


 それに驚いて思わず窓から飛び出して来ちゃったけれど、どう言い訳しようか…。

 いや、でも人攫いに攫われて目が覚めたら綺麗なベッドの上でこれまた綺麗な白のワンピースを着ていたら売られたと思って焦るよね?


 柔らかな夜風に頬を撫でられる。


 小さな湖の岸辺にまで来てゆっくりと腰を下ろす。

 岸の向こう側では街の明かりが湖の水面を照らしている。

 

 夜も遅いはずなのに、まだあんなに明るいなんて。


 春先みたいだけど夜風が冷たい。

 部屋から持って来ていたショールを頭の上から被る。


 それよりもここは一体何処なんだろう。


 街を出るまでに見た人たちの服装や建物の感じから中世みたいな気がするけれど、見たことのない動物に人攫いまで出てくるし……。


 それに街にいた人たちの会話も意識して聞いたら日本語ではなかった。


 それなのにどうしてか理解ができたから、私の言葉ももしかしたら通じるかもしれないと試しに街の出口らしき所にいた人に話し掛けてみたら普通に会話ができた。

 相手はどこか酔っている様な変な感じだったけれど……。


 それに私の口から出た言葉も日本語ではなかった。


 どうしてかはわからないけれど、とりあえずこれで他人との会話に困ることはないかな?


 それでもかなりハード過ぎるけど。


 いつもみたく学校に行く為に玄関から出た筈なのに、気が付いたら鬱蒼とした森の中の小さな池の前で、澄んだヘーゼルの瞳と淡いクリーム色の綺麗な模様が印象的な白い猫がいたと思ったら、突然変な獣に襲われて怪我するわ、悪夢見るわ、奴隷になりかけるわ、本当についてなさすぎ……。


 というかどうして傷が消えたんだろう。


 あの黒い獣から逃げる時に確かに傷を負った筈で、服にも血は付いていて、傷口は焼けるように熱く痛かったのに。


 もうわからない事だらけだよ……。


 あの猫は無事だったかな?


 両膝を抱えて顔を埋める。

 こうしたところで何も変わらないけど、今は何も考えたくない。


「ここで何をしている?」


 不意に頭上から掛けられた言葉にビクリと肩を揺らせて顔を上げると、そこには腰に剣を携え黒く長いマントを纏った青年が立っていた。


 雲のせいで月明かりが遮られ、青年の顔がよく見えず戸惑うも、答えないとまずいと思い口を開きかけた時だった。


 視界の端に小さな光の粒子の数々が舞い上がった。


 初めて見る現象に思わずそちらに視線を向けると、すぐ隣から草が擦れる音が聞こえた。


「まさか私の問いよりもそちらが気になるとは」


 顎下を軽く摘まれて、強制的に青年の方へと顔を向かされる。


 その瞬間、強い風が2人の間を吹き抜けた。


 その拍子に被っていたショールが落ち、再び顔を出した月明かりと小さな光に照らされた事によりお互いの顔が露わとなった。


 まるで時が止まったかのようだった。


 それは私だけでなく目の前の青年も同じだったようで、お互いの動きが止まったようだった。


「こんな場所で一体何をしていた?」


 顔に触れていた手の感触がなくなると同時に発せられた言葉に再び時が動き出す。


「あ、その……特に、何も。ただここで湖を眺めていました。……あなたは馬車の扉を開けてくれた方の仲間、ですよね?その、勝手に部屋を抜け出してしまいすみませんでした」


 何かを探るように見つめてくる金色の瞳にたじろぎながらも、なんとか立ち上がり両手を揃えてゆっくりと頭を下げる。


 その言葉と所作に青年は目を少し見開いたが、目を瞑っていた少女は知り得なかった。


「何故私がその者の仲間だと?」

「それは…貴方の剣の鞘に付いている装飾と同じものが、あの時扉を開けてくださった執事服の方の胸元にもあったので、同じ組織の方だと判断しました」


 確かにあの執事服の白髪の男性も同じ装飾を付けていた。

 特徴的なチャームだったからか何故か目に付いて覚えていただけだけど……。


 ぎゅっと緊張のあまり早まる鼓動を落ち着けようと左手首を右手で強く握り締める少女に青年はその右手を掴んだ。


 予想外の青年の行動に目を見開いた。


「これは面白い」

「?」


 青年の意図がわからず青年を見つめ返していると、一瞬の浮遊感に襲われた。


「あ、あの!降ろしてください!」

「駄目だ。女性を裸足のまま立たせておくつもりはない」


 気が付けば青年の腕に抱えられていた。

 謂わばお姫様抱っこだ。


「ここまで裸足で来たので大丈夫です!」

「私の前では諦めろ」

「な!」


 初めての事に戸惑うものの、青年の有無を言わさない物言いにふぅと息を吐き早々に諦める。


「……あとであまりの重さに腕がダメになっても何も言わないでくださいね」

「ああ。そうやって大人しくしていれば大丈夫だ」


 颯爽と歩き出す青年の顔を改めて確認する。


(やっぱりとんでもなく顔が整っている)


 鋭さを感じさせながらも澄んだ金色の瞳に、カラスの様な艶やかな光沢のある黒髪と透き通った白い肌。

 しかも体格も細身に見えて凄くがっしりしている気がする。


 こんな人にこのまま抱えられていて本当にいいのかな?

 何故かとてつもなく悪い気がするんだけれど。

 

 1人悶々と考えていると、湖の向こう側。

 街がある岸辺の方からゆっくりと複数の灯りが夜空へと舞い上がっていくのが見えた。


 その光景が湖の水面にも映し出され、周りを舞う光の粒子と合わさりさらに幻想的な光景となっていた。


「あれは?……」

「あれはエトワレだ」

「エトワレ?」

「ああ。この領地、フローレンで開催されているブロッサリアという春の訪れを祝い1年の豊穣を祈る花祭りの最終日に行われる祈祷の儀式の事だ」

「そう、なんですね」


 この世界ではスカイランタンの事をエトワレって言うんだ。

 

 スカイランタン自体初めて見るから、こんなにも綺麗で幻想的なものとは知らなかった。


 脇目も振らず一心に薄紅色の瞳を輝かせながら湖の向こう側だけを見つめる少女を青年はただじっと見ていたが、何かを振り切るように視線を逸らした。


「それで何故森の奥、聖女の結界の外側にいた?」

「聖女の結界?」


 どういうことかわからず、聞き返すと青年は歩く足を止めた。


「そなたは聖女の結界を知らないのか?」

「あ」


 青年の反応にまずかった?と口を覆うも時すでに遅く、青年は少女に不審な眼差しを向けた。


 そのあまりに冷たく鋭い視線に一瞬怖気付くも左手を握りしめて言葉を紡いだ。


「あ、その……実は馬車の中での記憶はあるのですが、それより以前の記憶が……ないというか思い出せなくて……」

「それは確かなのか?」

「……はい。実際、今下から舞い上がっている光のことも分からなくて、思わず見惚れてしまいました」

「ルチルもわからないのか?」

「……はい……」


(この人の反応にこの世界では常識的なことを何も知らないことに少し泣きそうになる)


 いや、少しじゃなく結構不安すぎて本当に泣きたくなる。

 まさか異端者とかでこのまま捕まって処刑とかにならないよね?


 少し前に死にかけたのに、また死亡フラグが立つなんて最悪すぎる。


 黙ったままでいる青年の顔が怖くて見れず俯いたままでいると、小さなため息のようなものが耳に届いた。


「そこまで不安になることはない。実際何かのショックで記憶を喪失する症例は何件か上がっている。あとは記憶が自然に戻るまで待てばいい」

「そう……ですか」


 気遣ってくれているような青年の言葉に少しだけ安心感を覚える。


 てか、そういう症例って本当にあったんだ。

 思わず記憶喪失ってことにしちゃったけど、信じてくれたのかな?


 でも流石に別の世界から来たなんて言ったら、これは信じてくれないよね?


 とりあえず、身の危険はもうなさそうと少し肩の力を抜いた時だった。

 不意に青年の足が止まった。


「記憶がないということは、これを見るのも初めてになるのか……悪いがここからはこれに乗って移動する」


 青年が言うこれが気になり、伏せていた目を向けるとそこには、月光に反射して輝く黒い羽毛のような毛に長い尻尾と鋭い爪と牙、そして琥珀色の瞳をした肉食恐竜のようなものが立っていた。


「駈竜、ディノゾールだ。名前はガルディエール」

「ガルディエール」


 思わず触ってみたくなり手を伸ばすと、ガルディエールも察してか顔を近づけてくれた。


「ガルディエールが自ら触れさせるとは……どうやら無害な存在で間違いないみたいだな」

「え?」


 触れていた手を止めて青年を見上げる。

 感情を隠すのが上手いのかその表情からは何も読み取れないけれど、人間って。


「ああ、これも忘れているのか。駈竜は己にとって無害と判断した者にしか近付かない」

「……」


 それってやっぱり不審者には見えてたってことだよね?

 それにもしガルディエールが近付いてくれなかったら、私はこの場で彼の剣で切られていたかもしれないってことだよね?


 動揺が顔に出ていたのか、上の方から小さな笑う声が聞こえた。

 それからふわりと体が浮き、ガルディエールの背に乗せてくれた。


「ではアルトリアに戻るとしよう」


 ゆっくりと歩き出す青年とガルディエール。

 

 一方の私はさっきまでの動揺を忘れ、生まれて初めて生き物の背中に乗る事に緊張して手綱を握る手に思わず力が入る。

 いつもよりも高い視界に太ももから伝わるガルディエールの体温とその振動に落ちないかハラハラしつつも、感動でドキドキしていた。


 大きな動物の背中に乗る夢が叶った。


 そんな少女の反応を横目で観察していた青年は、あることを思い出し足を止める。


「記憶がないということは、そなたの名前は覚えているのか?」

「あ」


 青年からの不意の質問に、思わず間の抜けた声が出てしまった。

 そういえば記憶喪失ってことにしたら自分の名前を覚えているのはおかしいよね?

 

 生じた疑問に自分の名前を心の中で呟こうとした時だった。


 少女は身体の中を電流が突き抜けたような心臓がギュッと縮まった様な衝撃に襲われ、思わずヒュッと声を漏らし慌てて口元を手で覆った。



 ――名前が、出てこない。


 名前。


 私の名前は何?


 私は……なんて名前だった?


 






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