もろもろ短編集

@chon266

  鯉

鯉が〝のろのろ〟と泳いでいた。それはたいへん太った鯉で、かわいそうなほど絶望的であった。ならば、『食べない』そうすれば、端的に改善は図れるのだが、もともと太る体質である鯉にとって、それは無理難題なものであった。結果、さんざん他の魚類共にいじめられて、ひとり孤独に泳ぐ鯉。鯉の心は、オホーツク海のように凍え、氷々ひょうひょうとしてゆきつつあった。

 そんなある日のこと、例のごとく鯉は、ふな沼蝦ぬまえび、オタマジャクシ、同類である鯉、又は冷やかしで近くの田圃たんぼからぴょんぴょんねてくる雨蛙等に嫌がらせを受け、悄気返しょげかえっていた。このようなとき、鯉はいつも遮二無二しゃにむに全速力で池の周り(特にみんなが好んで通らない薄暗い道)を泳いでらしをするのをつねとしていた。その日もいつものようにいつもの角を曲がるつもりだった。と、その瞬間、誰が捨てたものか、鯉はまんまとぴかぴか光る金網にすっぽり引っ掛かってしまったのである。

「まずい・・・」

 鯉は不安気に声をあげると、次の瞬間、尾鰭おびれを存分に振りながら、がっちりはさまっている金網から必死で抜け出ようと気張きばった。しかし何度気張ってみても、まともに肉に食い込んでいるため、そうやすやす抜け出せる訳がない。鯉の心境は、暗闇を裸足で歩く放浪者のそれと瓜二つ、まさに網代あじろうおであった。日はどんどん暮れてゆき、待ってましたとばかりに夜が元気に顔を出す。鯉は絶望の淵に叩き落とされた。

 それから二日三日と日は過ぎてゆき、鯉のからだもそれに比例し、衰弱していった。でもこういった状況は、鯉にとってまんざらいやなものでもなかった。なぜなら、このことによって何がなんでも痩せられるし、このままどんどん痩せていけば、いつかはこの金網からも抜けられると考えたのである。鯉はその〝成就じょうじゅ〟の日を指折り数えて待っていた。いかなる空腹と倦怠感けんたいかんが襲っても、それをとっととけ、雲散霧消うんさんむしょうさせていったのである。鯉の意志は岩石のように固く、波に侵食されることはなかった。

「海」

 ある日、鯉はどん底の中でそんなことを思い浮かべた。常日頃、海というものを見てみたかったせいもある。が、こんな誰も来ない薄暗い場所に何日も縛られていれば、誰でも頭の奥底に眠っているもっとも贅沢な夢か欲望を思い巡らせるものであろう。鯉は〝海〟を思い巡らせた。夢に挫折しかけた若者が救いの光を見つけたように、鯉は〝海〟を見つけたのである。

「必ず海で泳いでやる」

 鯉は一からやり直したかった。海の魚類連中は鯉をまるっきり知らない。いわゆる鯉はストレンジャーなのである。もしこのまま肥満から痩せっぽちに変貌したとしても、おそらく、いじめられることに変わりはない。なら、どうにかここを脱出して、あの広大な海に行こう。鯉の胸は処女のように高鳴った。

 そうは言っても、もう丸二週間である。もともと体力のない鯉にとって、それは限界も限界、途轍とてつもない驚異であった。でも、そんな驚異を続けさせている要因はひとつ。海で泳ぐことなのである。海の魚になることなのである。おのれが淡水魚だということ、又は池からどのようにして海に行くかということなど鯉の頭には無かった。只々そこに、衰弱の果てから見える一握りのかてという真綿まわたを念仏していたのである。もはや覚醒していることすらできなくなっていた鯉は、その弱々じゃくじゃくたる意識の先で、広大な海を溌溂はつらつと遊泳し、スリムに変貌を遂げたため、一躍、女魚類の憧れの的となり、モテまくるといった夢を傲倨ごうきょに見ていた。いや、それは夢ではない。鯉にとってまことのワンダーランド。幸せの絶頂。ハピネスというか、もっとはじけたハッピネスであった。半端はんぱのない充足感に、鯉は終始にんまりしていた。

 

その後、何日過ぎたであろうか、とにかく鯉は死んだ。皮肉にも、ひらめのように痩せ衰えて。でも、その見目形みめかたちは、とっても穏やかであった。が、あの例の金網は、こんなにも痩せ衰え、骨と鱗だけになっている鯉に、いまなお憮然ぶぜんと引っ掛かっている。まるで生き物のように。 

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