後編 静かの海で
天井に吊るされたランタンが、揺れている。
あいまいな意識に、寄せては引いていく波の音が響く。息を吸いこむと、潮の香りがした。
セレーネは、粗末な寝台に横たわっていた。
視線をさまよわせると、枕元にエアロスがいた。こちらに背を向けて座っている。
「……どうして?」
セレーネは混乱して唇を震わせた。エアロスが静かに振り返り、腕を伸ばしてくる。
「何故死なせてくれないのか、って顔してるね。僕が飲ませたのは眠り薬だよ」
と言って、額に手のひらをのせる。剣だこのある、かたい手のひらから確かな温度と、脈打つ鼓動が伝わってくる。
セレーネは自分の身体を見下ろして瞠目した。手首と足首にあったはずの枷が取れている。
「だめ、触れないで」
「君の話を聞くまでは調律をしないと言っただろう。ダミアンに何をされたんだ」
セレーネが身をよじっても、エアロスは力を緩めない。もし自分の力が暴走したら、エアロスを殺してしまうかもしれない。それだけは嫌だ。
「お話します。だから、わたしに触れないで。お願い」
セレーネのすすり泣く声に、エアロスが動きを止めた。腕を掴む力が緩み、わずかに二人の距離が開く。
「あの日、ダミアン兄さまがわたしの部屋にいらっしゃいました」
顔を覆いながら、セレーネは十六歳の誕生日の出来事を語り出した。
国王のひとり娘であるセレーネの夫は、フェアリール国王の地位を与えられる。
王国議会が許嫁に選んだのは、セレーネの従兄・ダミアンだった。彼はセレーネとは十歳離れていて、聖王軍の将として武功をあげ、政治的手腕に長けた青年だった。
しかし、彼の戦いを好む性格を、セレーネは危険だと感じていた。ダミアンは異教徒に対して残虐にふるまい、それを悦ぶ人間なのだ。
フェアリールは聖教圏の境に位置するため、王家は聖教と異教の均衡を保ってきた歴史がある。父王はセレーネとダミアンが夫婦としてその伝統を守っていくよう望んだ。
セレーネは世継ぎの王女として、それに応えると父に約束した。幸い結婚までは一年の婚約期間がおかれる。その間にダミアンとの溝を埋める努力をしようと決めた矢先だった。
侍女の手引きで、セレーネの寝室にダミアンが訪れた。そして、嫌がるセレーネと無理矢理契りを結ぼうとしたのだ。
恐慌状態に陥ったセレーネは、思わずエアロスの名前を叫んでしまった。
エアロスのことはダミアンも知っている。彼はそれを聞いて激昂した。
セレーネがエアロスと通じていたと思い込み、セレーネが否定しても聞かなかった。
ダミアンはもがくセレーネの頬を打ち、細い身体を蹴り飛ばした。
そこへ、国王が寝室に飛び込んできたのである。騒ぎを察した乳母が、不敬も覚悟で国王を呼んできたのだ。
国王は甥の所業に憤り、彼を城の牢獄に繋いだ。
そして、その翌日。国王は謁見の間であらためてセレーネの婚約者を審議するよう議長に求めた。
父の言葉を聞いて、セレーネはダミアンから解放されると安堵した。──その瞬間。
突如ダミアンが現れたのである。彼は、ならず者とともに謁見の間に踏み込んだ。短刀を振りかざし、セレーネに襲いかかったのだ。
セレーネを庇ったのは隣にいた父だった。何度も胸や腹をさされて、セレーネの膝に頽れた。
最期の言葉は、亡くなった母の名だった。セレーネは己の絶叫とともに、身の内で何かが砕ける音を聞いた。
セレーネが溢れさせた魔力はすさまじい風となり、謁見の間にかかったタペストリーを切り裂き、石壁を削り石の粉をまき散らした。
その風の刃は逃げ惑う人々めがけて降りていき、そこでセレーネは力に抗った。あらがって、力を止めようともがいた。
──そのまま、セレーネの記憶は途絶えている。
泣きじゃくるセレーネの肩に、ふわりと毛布がかけられる。
「セレーネ、よく聞いて。謁見の間の死体は、いずれも致命傷は太刀傷や槍に貫かれたものだった」
「それは、わたしの力で……」
「あそこは帯刀禁止区域だ。君の力はあくまでも『風』を操るもの。無機物を生成することはできない」
セレーネは顔を上げた。濡れた頬を優しくなぞり、エアロスは言葉を続ける。
「ダミアンや賊が持っていた短刀では、とどめを刺せなかったんだろう。あの宰相は詰めが甘い」
琥珀の瞳が、真っ直ぐセレーネに注がれている。
「つまりね、君はひとりも殺していないんだよ。セレーネ」
セレーネは息をのんだ。宰相は、セレーネが嘆きの力で謁見の間を血に染めたのだと言ったのに。
「わたしが、嘆きの力に意識を乗っ取られて、人を殺めてしまったのだと」
「僕は、嘆きの力を発動させてしまった術者を何人も診てきた。この力は魔力の暴走を引き起こすが、術者の意識を奪う事はない」
エアロスの言葉が、甘美に響く。しかし、セレーネは唇を噛んで俯いた。
小さなころからエアロスはセレーネに優しい。まるで本当の妹のように大事にしてくれる。
だから、セレーネを傷つけないために嘘をついているのではないか。そんなセレーネの葛藤が伝わったのか、エアロスは苦笑した。
「宰相の背後にいるのは聖王庁だ。奴らは十二家を潰し、大陸すべてを聖教の支配下に置くつもりでいる。ダミアンを選んだのも、彼の考えが聖王庁に一番近かったからだろう。この六年間で、異能者への弾圧が強まっているのは知っているよね?」
セレーネは戸惑いながら頷いた。フェアリールは王族が異能者であり、国が聖教圏の境に位置するため、近隣諸国と比べると異能者に寛容である。
その影響で、ここ数年フェアリールが受け入れる異能者は増えていった。いずれも、激しさを増す迫害から逃れた人々だ。その処遇について、議会は寛容派と聖王派に分かれ、激しく対立していた。
聖王派は異能者を徹底的に管理すること、聖教圏の領土を広げることを声高に叫んでいた。宰相やダミアンもその中の一人だ。
そこまで思い出して、セレーネは血の気が引くのを感じた。まさか。
「宰相とダミアン兄さまは、国軍の増強をはかっていました。戦争を起こすつもりでいたということですか?」
「ああ。ダミアンは死んだが、戦争は避けられないだろうね。君が塔に幽閉されたあとすぐ、オリオンベルク侯爵領も聖王軍に包囲されたから」
聖堂騎士になると妻帯は許されないことから、エアロスはオリオンベルク侯爵領に関するすべての権利を遠戚に譲っていた。現侯爵は聖王庁に従順だったにも関わらず、容赦なく蹂躙されたという。
「そんな……」
塔の外から聞こえていた怒りの声を思い出す。最後の王族が魔女に堕ちたことで、一気に異能者への不信感が膨れ上がったのだ。もうその歯車を止めることは出来ない。
「君の意志も聞かずに、無理矢理連れ出してごめん。でも、あのままセレーネを失いたくなかった。全部僕のせいにして、恨んでくれ。僕は君に生きて欲しい」
その言葉には、悲壮な覚悟が滲んでいた。セレーネは一抹の不安を覚える。目の前のエアロスが、かき消えてしまうような錯覚に陥ったからだ。
「エアロスさまはこれからどうなさるの? どこへ、行くの?」
エアロスは穏やかに笑って答えた。
「君をアルビオンに送り届けたら、聖教圏の近くへ戻る」
アルビオンは、セレーネとエアロスの曾祖母が生まれた国だ。新教によって聖王なしの戴冠を可能にした大国である。
「あそこには残りの十二家がいる。危険はない」
「いやっ」
セレーネは頭を振った。聖王の命に背いたエアロスが大陸に戻ったらどうなるか。それを考えることも恐ろしかった。
「セレーネ。聖王庁が武力に訴えるなら、僕らも戦うしかない。流刑地にいる同胞を救わなければ」
「いやです。わたしも戻ります。わたしだけ安全な場所にいるなんておかしい……!」
エアロスの胸元にすがりついて、セレーネは叫んだ。エアロスは辛抱強く言い聞かせる。
「君が安全な場所にいてくれるから、戦いに行けるんだ」
「ひどい。エアロスさまは勝手です」
涙を零しながら、セレーネはエアロスを詰る。子どものように駄々をこねる自分が情けない。
どうして自分は戦う術を持たないのだろう。守られてばかりで、何の役にも立たない。
その瞬間、セレーネの脳裏にダミアンの声がよみがえった。
『これで、フェアリールの【風】は俺のものになる』
組み伏せたセレーネに、ダミアンははっきりとそう言った。フェアリールの加護を、ダミアンは自らに移そうとしたのだ。
ひらめくのと同時に、セレーネはエアロスの肩を押して自らの唇を強く重ねた。
「セレーネ?」
「わたしの力を持って行って下さい」
息を乱しながら、セレーネは言った。エアロスはセレーネの身体を押し返そうとするが、それよりも早くセレーネが首にすがりつく。
「だめだ、セレーネ。そんなことをしたら、」
「分かっています。力を渡した相手が死んだら、わたしも死ぬ。だから、約束して」
銀の髪が、エアロスの顔に零れ落ちる。琥珀と碧の瞳がぶつかり合う。
「絶対に死なないと。わたしのところへ、戻ってきくださると。でなければ、海に身を投げます」
窓の向こうには、夜の海が広がっている。月も星もない、暗黒の世界だ。波は荒く、冷たい水はセレーネの息の根をたやすく止めてしまうだろう。
息を飲むエアロスの頬に、セレーネの涙の粒がはらはらと落ちる。
「好き」
想いが、溢れる。
「エアロスさまが、好きです。だからお願い。どうか、離さないで」
三度唇を重ねると、エアロスの腕がセレーネをかき抱いた。そのまま巧みに体勢を入れ替え、セレーネを寝台に押し倒す。
「好きだ」
濡れた目蓋に、エアロスの唇が降ってくる。
仰向いたセレーネの耳元で、エアロスははっきりと囁いた。
「必ず帰る。セレーネ、君と生きるために」
セレーネは逞しい背に両手を回した。もう、言葉を必要としなかった。
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