第40話 インダス文明の謎

 ゴードン・チャイルドは、国家社会に関する考察をメソポタミア、エジプト、インダスの3つに限定している。この3つはいずれもその経済を基本的にコムギとオオムギを基盤としているため、ひとつの農業革命が生み出したものと見なすことができる。しかし、貴重品や地位を示す物については全く違った印象を与える。シュメール人と初期のエジプト人は支配者の周りをさまざまな貴重品で埋め尽くした。それに対してインダス川流域の都市では、他の2つ国家社会を特徴づけている高級品や金などの金属製品、ラピスラズリや水晶などの貴石は全く見つかっていない。一部で貴石のアクセサリーがわずかに出土したのみである。不平等を生み出すうえで何よりも力となるのが成功だ。初期の個人化社会では多くの場合、埋葬地からの豪華な副葬品や生前の地位を示す証拠から、富を蓄積して誇示することにより一部の有力者の手に権力が集中していたことが明らかになっている。最初期の定住集落は大半が平等社会だった。初期農民社会のコミュニティは定住パターンが集村ではなく、散村だったが、それでも記念物や埋葬施設からわかるように平等な集団志向社会だった。しかし、多くの発達経路で、高価と見なされる物が登場して使用されるようになり、同時に平等を維持するメカニズムが崩壊すると、すぐに富と威信が特定の個人に集まるようになった。新たな手工業が発達し、誰もが欲しがる高価な貴重品を作れるようになると、このプロセスはさらに進んだ。


 現在のパキスタンとインド北西部でこの文明が再発見されたことは20世紀の考古学における快挙の一つだった。21世紀になった今もまだその証拠はつなぎ合わされている。この失われた世界はインダス川流域の文明で、その再発見の物語は彫刻された小さい石から始まる。それは粘土に型を押す印章として使われた。BC4000年~BC3000年ごろもインダス川は今日と同様にチベット高原から流れ出てアラビア海へと注いでいた。インダス文明は肥沃で豊かな氾濫原に誕生し、BC2600年~BC1900年の最盛期には、インダス川流域に東西1500キロ、南北1800キロにもおよぶ広大な地域におよんでいた。メソポタミアで発達した灌漑水路はインダス文明では確認されておらず、ある種の氾濫農耕を行っていたことが考えられている。


 インダス文明発見の物語は1922年に始まる。R.D.バネルジーというインド人考古学者がカラチから320キロ離れたインダス河畔の古代の廃墟モヘンジョ・ダロでBC1世紀~BC2世紀ごろの仏塔を発掘していた。ところが、バネルジーを非常に興奮させた考古学的発見は仏教に何ら関係なく、ブッダがこの世に生まれるよりずっと前にインドに栄えていた文明に結びつくものだった。実はそういう文明がかつて存在していたことは、モヘンジョ・ダロの北東600キロにある当時のイギリス領インド、ハラッパーの町の近くの遺跡でこれより以前の1850年代に偶然発見されていた出土品、石の印章や彩文土器、さらには石刃などを精緻に調査した結果、インドやイギリスの考古学者たちによってすでにある程度予想されていた。インダス川流域産の石の印章は西アジアや中央アジアでも発見されている。印章はほぼ四角形で、現代の郵便切手ほどの大きさだ。凍石とうせき(ソープストーン)で出来ているので容易に彫刻できる。印面には動物の図像が見事に陰刻されており、ゾウ、牡牛、牛とユニコーンが合体したような獣、サイなどがある。

 その後の50年間に同じような印章がさらに3個、大英博物館に持ち込まれたが、誰もそれが何なのか、いつどこで作られた物なのか見当がつかなかった。ところが、1906年にインド考古調査局長のジョン・マーシャルがそれらに目を留め、最初に発見されたハラッパーの遺跡の発掘を命じた。そこで発見されたものは世界史を書き換えることになった。マーシャルのチームがハラッパーで発見したのは巨大な都市の遺構であり、その近くにもさらに多くの遺跡が見つかり、いずれもBC3000年からBC2000年の間のものだった。これによってインドの文明はそれまで考えられていたよりずっと過去までさかのぼることになった。この地は高度な都市の中心地で、交易も産業も盛んで、文字すら持っていたことが明らかになった。古代メソポタミアやエジプトと同時代で、それらに匹敵する文明に違いなかった。インダス川流域の都市で最も大きいハラッパーやモヘンジョ・ダロは、人口が3万人~4万人規模だった。これらの都市は高度な排水施設を持ち、焼レンガで作られた建物が整然と並び、都市計画に基づいて築かれたものである。また発掘調査からは、都市全体の概要が明らかになっただけでなく、広大な地域にまたがる国際交易が活発に行われていた様子もわかってきた。


 メソポタミアやエジプトでは、村から都市へ飛躍するためには通常1人の有力な支配者が資源を強制的に利用できなければならない。ところが、インダス流域のこれほど秩序立った都市を実際に誰が支配していたのかは不明のままだ。メソポタミアやエジプトのような豪華な埋葬地はどこにも見当たらない。遺体は火葬され墓は造られなかったのかもしれないが、まだ謎である。インダスの都市遺跡からは、戦争あるいはその脅威を受けていたことを示す痕跡も見受けられない。武器もあまり見つかっておらず、都市には防御を固めていた様子もない。また、大きな集合住宅のような建物はあっても、王宮らしい建物はなく、一般の住居も大差なく、ここは武力に訴えることもなければ、権力が極端に個人に集中することもなかったようなのだ。但し。その性格や系譜が不明といっても、広大な版図に計画都市を展開し、それを長期にわたって維持したことなどから考えて、支配者の権力は決して脆弱なものではなかったと考えられる


 二つの遺跡から出土した印章は、通常は四角い形をした凍石製であり、そこには完全に未知の文字体系に属する明らかに象形文字と思われるものが彫られていた。その文字体系はインダス川流域平野の大半を含む古代インドの広大な地域で使われていたものに違いなかった。ハラッパーとモヘンジョ・ダロは互いに600キロも離れているが、文化的に同一の文明の中心都市であることがわかったので、両都市間およびその周辺に、同じ民族と文化に属するもっと小さな村や町がたくさんあったと考えることは不合理ではなかった。これは実際に、N.G.マジュムダールによる発掘調査と、著名な中央アジア探検家オーレル・スタインの諸発見とによって事実であることがはっきりと証明された。スタインは1926年~1928年にハラッパー文化圏の二つの居住地を部分的に発掘した。一つは現在のパキスタンとイランの国境付近、もう一つはモヘンジョ・ダロの北東数百マイルに位置する小村落だった。これらの発掘やその他の調査の結果は、1931年にジョン・マーシャルと彼の協力者たちが3巻から成る詳細なモヘンジョ・ダロ発掘報告書を出版したのをはじめ、調査結果はすべて公刊され利用された。遺骨から判断すると、インダス文明人の大半は人類学的には地中海人種に属する。つまり、痩せ型で背が高く、多分褐色の肌色、黒髪、黒褐色の大きな目、鼻筋の通った高い鼻の持主だった。しかし、元来はいわゆる原オーストラロイド人種に属する少数の人びともいたらしい。このタイプは今日の南インドと中央インドの土着の諸部族の間で優勢な人種である。つまり、背が低く、黒い肌色、縮れた黒い髪、幅広の低い鼻、突き出た肉厚の唇を持っている。

 インダス文明の経済的支柱は農業だった。彼らはコムギ、オオムギ、ナツメヤシ、ゴマ、エンドウマメ、現代のインドでライと呼ばれているキャベツのような野菜、綿花を栽培していた。綿花は間違いなくインダス川流域地方の主要な輸出品だった。またさまざまな遺跡から発掘された動物の骨は、長い尾を持つヒツジ、カシミール・ヤギ、ブタ、ヤギュウ、コブウシ、短い角を持つコブナシウシを飼育していたことを立証する。ネコ、イヌ、ウマ、ラクダ、ロバ、ゾウもまた家畜化されていた。

 驚くほど見事な作りの建物や家々、至る所にある井戸や排水溝、これらは古代西アジアでは例を見ないほどインダス文明社会では重視されていたことを物語っている。このように見事な都市設備を作り上げたのは、優秀な建築家、職人や熟練工、石工、大工たちだった。金、銀、半貴石を使ってビーズ、腕輪、ネックレス、衿飾り、飾り帯、イヤリングなどを作る高度な技術を持った宝石職人たちもいた。象形文字とともに、牡牛、一角獣(架空のユニコーン)、サイ、トラ、ワニ、ヤギュウ、ゾウ、ヤギ、レイヨウといった動物を見事に描写し彫り込んだ印章を作ったのも宝石職人たちだったと思われる。また、鍛治屋や冶金技師は斧、のみ、ナイフ、槍、鏡、釣り針、さまざまな種類の壺や鍋といった銅や青銅製の道具を作るのに、鋳造と鍛造どちらの技術も使うことができた。才能ある彫刻家たちは砂岩、石灰岩、凍石、青銅を意のままに使いこなした。土器職人たちは膨大な量の無彩色および彩色土器、多くの種類の素焼きの玩具や小像を製作した。

 地方あるいは国外に送られる商品の荷物を確認するために、粘土のラベルに捺印して使われた数千個の印章や、16という数字が比例単位になっている度量衡システム、規格化された分銅が至る所から発見されることから、インダス文明社会では、交易は経済上極めて重要な役割を果たしていたことがわかる。交易の運搬手段は船、荷車、ロバなどが使われた。バルチスタン、アフガニスタン、トルキスタン、そしておそらくはチベットといった周辺諸地方との対外交易も行われていた。また、アラビア海に面したマクラーンの海岸に沿っていくつかの港を経由して、シュメールとも海洋交易を行っていた。インダスの印章や印章の捺印跡が、実際にシュメールの都市ウルで見つかっている。実は、インダス文明の時代推定はシュメールで発掘されたインダス文明の遺物に大きく依存している。インダスの商人たちが主要なシュメールの都市のいくつかに住み着いていたということもあり得ないことではない。

 しかし、インダス文明を創始した人びとの知的・精神的生活は依然として謎である。余りにも無言であり過ぎる考古学的発掘品を総動員しても、やっと彼らの政体や宗教についてごくわずかのことが推察できるにすぎない。インダス文化は130万平方キロという広大な地域にわたって拡がっていても、その性格は完全に均一であり、また二つの主要都市ハラッパーとモヘンジョ・ダロはその興隆から滅亡まで1000年近く継続的に占有され続けたにもかかわらず、道路や家屋の配置に大きな変化は全く見られなかったことから、政治的権力や政体上の権威は高度に中央集権的な官僚制を持った専制神官君主の手に握られていたと考えるのが妥当である。しかし、ここにはエジプトやメソポタミアと違って、自分の功績を誇らしげに宮殿や神殿の壁に刻ませるような絶対的な支配者はいなかったようだ。インダス文明の人びとの宗教上の信条や慣わしについて知ることができることは、印章の図様と小像類からの手掛かりによるもので、地母神、シヴァ神に似た男神、聖なる樹、聖なる獣を敬っていたことがわかっているだけである。また、死者はかなり多数の土器、時には装飾品や化粧道具とともに墓に埋葬されていたことから、死後の生への信仰があったようにも思われる。


 現在のところ、インダス文明の人びとの思想や理想、そして彼らの文化の真の起因となったものや価値観について何もわかっていない。なぜなら、文学のみが人間の精神や信条の内面を覗かせてくれるのに、インダス川流域の遺跡からは未だに一篇の文学作品も出土していないからである。しかし、いくつかの地域の人びとが読み書きできたことは記銘の印章によってはっきりと証明されていることから、今後発見される望みはある。インダス文字体系は約300個の文字から成り立っていた。この数字の大きさは、これらの文字がアルファベットのような単純な表音文字ではなく、音節表音文字であることを意味する。つまり、各文字は単一の子音あるいは母音ではなく、一つのシラブル(音節)を表示したに違いない。インダス文字は右から左に書き進められたことは証明されたが、印章の銘のただの一字もまだ解読されていない。

 印章などに刻まれた文字を読むことができれば、インダス文明についてより多くのことが発見できるが、それらが数なのか、ロゴなのか、記号なのか、それどころか言語なのかすらわかっていない。長い碑文がなく、2つの言語で書かれた文章もないので、解読するには資料不足である。


 はるか離れたインダス川流域とシュメールとの関係もまだよくわかっていない。盛期ハラッパー文化(BC2600年~BC1900年)と呼ばれる古代文明は、1921年になってようやく考古学的な光を当てられたが、その文明の由来、影響、他との関係などについて詳しく語れる状態にはまだ至っていない。ハラッパー文化の諸都市は同時代のシュメール諸都市よりはるかにモダンであった。自然達成的に成長していったシュメール諸都市とは違い、計画的な都市づくりが行われていた。水道や浴室の設備などは、その衛生上と快適さにおいて高い水準に達していた。

 インダス印章に描かれた動物は自然そのままである。しかし、その印章に記された文字は未解読のままである。そのような印章は、シュメールの緒都市、特にインダスとの交易でかなりの利益を上げていたウルに見られるものである。それは数百年にわたるメソポタミアとの緊密な交易関係を示すものにほかならない。ハラッパー文化の80を超す都市や集落は、シュメール諸都市にとって重要な取引の相手であった。その後背地からはメソポタミアにとってはのどから手が出るほど欲しかった金属、貴石、象牙、薬草などが運ばれた。高さ4メートル、奥行き35メートル、幅215メートルに達するレンガ製の港湾施設が、カンベイ湾に注ぐサバルマティ河畔のロータルに造られていたが、ここがまさしくメソポタミアとの交易の第一の拠点であった。これだけの規模の港湾施設が存在したということが、インド洋、ペルシャ湾、そして紅海を結ぶ海洋路で極めて広範な海外交易が行われていたことを示す何よりの証拠である。


 インダス文明では、都市計画において快適な空間への追及がはっきりしているものの、国家的な権力の姿が見えない。特に、文字の進展では西アジアやエジプトとの差が明白である。西アジアでは、図像の補完なしに情報を伝える文字記録システムが成立して、都市国家の運営に欠かせない道具となった。エジプトでは、王号や経済管理を表記する文字とともに王権の儀礼場面を伝える図像の組合せが、王権の維持に不可欠の表現方法となった。インダスでは、印章などに記される文字と図像が未分化のまま、文字記録システムは未熟な段階にとどまっている。文字・図像のいずれも中途半端な状態で、秩序や権力の維持装置としては不完全である。インダスに都市はあっても、国家の姿が見えてこない所以ゆえんがここにある。


 「インダス文明の謎」を書いた 長田俊樹(総合地球環境学研究所教授)によると、インダス文明の分布は現在、北はアフガニスタンのショートトゥガイ遺跡、南はインド・グジャラート州のソームナート遺跡、東はインドの首都デリーよりも東のマンディー遺跡、西はパキスタンとイランにまたがるマクラーン海岸のソトカーゲン・ドール遺跡となり、東西1500キロ、南北1800キロにもおよぶ。遺跡の数は2002年時点で1052、その後明らかになった遺跡を含めると約2600にもおよんでいるが、まだまだ増加しそうだ。インダス文明といえば、ハラッパー遺跡とモヘンジョ・ダロ遺跡が以前から有名で、それらの遺跡は高度な排水施設を持ち、焼レンガで作られた建物が整然と並ぶ都市、「踊り子」と呼ばれる青銅像や「神官王」と呼ばれる石像、そしてインダス文字が刻まれたインダス印章などが思い浮かぶ。しかし、現在ではこの2つにあと3つ加えて5大都市というのが共通認識だ。現在のパキスタンには北からハラッパー、ガンウェリワーラー、モヘンジョ・ダロ、現在のインドには北のラーキーガリーと、南のドーラヴィーラーがある。遺跡の面積はハラッパー、モヘンジョ・ダロ、ラーキーガリーの3つが150~200ヘクタール、ドーラヴィーラーが100ヘクタール、そしてガンウェリワーラーは36~80ヘクタールである。この5大都市間の距離は300キロから450キロで、ほぼ同じ距離で離れていることから、この5大都市の社会的ネットワークがインダス文明にとって重要な意味をもっていると考えられる。例えば、凍石・瑪瑙めのうなどの鉱物をめぐる産地・生産・流通ネットワークである。鉱物を運んだ人は帰りには農産物などの荷物をもって帰ったはずである。つまり、流動性をもった人びとがネットワークを支えていた。インダス文明とはインダス川流域や現在のインドのグジャラート州、そして現在のインドの首都デリーの西の地域などの地域共同体が交易などを通じて作り上げた、ゆるやかなネットワーク共同体なのである。このネットワーク共同体を支えた人びとは、砂漠を移動する民、すなわち牧畜を生業とする遊牧民であったと思われる。遺跡から車輪や牛車を模したミニチュアが多数発見されていることから、インダス文明期にはすでに牛に牽かせる荷車やすきがあったことは明らかである。またタブレット型印章の中には船を描いたものがあり、船も輸送の重要な手段であった。さらに野生のインドノロバが描かれた印章があることから、運搬の手段としてロバもあった。

 交易ということであれば、インダス文明地域だけで行われてきたわけではない。メソポタミアやペルシャ湾岸地域との交易も行われていた。メソポタミアでは、インダス文明地域は楔形文献において「メルッハ」と呼ばれている。メルッハが初めて登場するのはBC24世紀である。メルッハからの交易品として、金・銀・ラピスラズリ・紅玉髄(カーネリアン)・青銅、さらに南アジア産の貝を使った腕輪、クジャクなどの珍しい動物もあった。インダス印章はメソポタミアのウルから16個見つかっている。楔形文字文献では、マガン(現在のオマーン)やディルムン(一般的には現在のバーレーンだが異論もある)」の名前が交易相手の国として登場することから、メソポタミアからインダスの地まで航海するとき、マガンやディルムンなどの中継地に寄ってからインダスへ向かったと考えられる。陸路ではイラン高原、バクトリア(現在のアフガニスタン北部とタジキスタン)、マルギアナ(現在のトルクメニスタンとウズベキスタン南部)などとの交易も行われたと思われる。

 インダス文明地域は広大である。その広大な地域に共通する要素は、土器、青銅製品、焼成レンガ、都市計画、素焼きの三角ケーキ(お結び型)土器、スタンプ印章、標準化された度量衡、そしてインダス文字である。レンガの規格は、厚さ・横・縦の比率が1:2:4と統一されている。したがって、レンガで作られる都市の道路幅も統一されている。また重さは、チャート製の正方形のおもりが一般的だが、0.86グラムを1とし、1:2:4:8:16:32:64と2進法となっている。重さが重くなると、10進法が使われ、160:320:640:1600となる。度量衡の標準化はインダス文明の初期の段階から行われていた。このような標準化はどうして起こったのか? インダス文明には、世襲の王権や一部の特権階級が支配する中央集権的権力の存在を示す証拠は見当たらない。また都市の建物跡を調べても内部抗争や戦争による傷痕も見当たらない。したがって、商人やレンガを作る職人たちによって、手を使った計測法や穀物を測る錘の基準が広められていったと考えられる。素焼きの三角ケーキ(お結び型)土器の用途はまだ分かっていないなどインダス文明地域で共通に見られる出土品が何のために使用されたかがわかないものがまだいくつかある。インダス印章とインダス文字も共通要素である。インダス印章の多くは凍石でできており、2~5センチの四角形のものが多い。一角獣や象などの動物の図柄とインダス文字が刻まれているのが一般的であり、この印章はメソポタミアからペルシャ湾岸地帯にかけてからも発見されていて、インダス文明を支えた人びとの活動範囲の広さを示している。インダス印章の図柄で圧倒的に多いのが一角獣である。文字は印章に書かれているだけではない。銅版や土器にも刻まれている。しかし、インダス文明の崩壊後、一角獣のシンボルはインド亜大陸から姿を消している。

 エジプトと同様に、体系的表音文字という発想が、シュメールからイラン高原に入ってきたことは間違いない。イランのスーサ出土のBC3000年ごろの絵文字風の原エラム文字は原始楔形文字と同じ数記法を使い、共通の記号が少なくとも一つある。原エラム文字の記号総数は約1500に及び、この文字は表語文字であることをうかがわせる。原エラム文字はインダス文字に影響を与えたと思われるが、両方ともまだ解読されていない。インダス文字の数は385から700と研究者によって異なる。インダス文字体系が分からなければ文字の数も数えられないのである。そのほとんどが短文で、人名あるいは神名を表わしたものと推定されている。

 これまで共通する要素を取り上げてきたが、インダス文明地域は広大である。したがって、相違もある。一例として壁や家を構成する建築素材をあげると、インド・グジャラート州のカーンメール遺跡とハリヤーナー州(パンジャブ地方の南東)ファルマーナー遺跡では、前者は石積みの壁や家なのに対し、後者はレンガ造りの家である。本当に共通する特徴は、排水施設を持ったインダス都市、インダス印章、そして貴石からなるアクセサリー類やハラッパー式と呼ばれる土器ぐらいしかない。このわずかな共通要素をもってインダス文明といっているわけだから、その実態になかなか近づけないのも無理がない。特に、エジプトのピラミッドやメソポタミアのジッグラートのような記念碑的な建造物がない。はたして中央集権的権力がインダス文明を統治していたのかもわかっていない。さらにインダス文字が解読されていないため、文献によって確かめることもできない。

 モヘンジョ・ダロ遺跡はパキスタン南部シンド州の北部、インダス川の畔にあり、その広大さは圧倒的である。広い通りに敷き詰められたレンガとそこに構築された下水道、しっかりとした都市計画、そして大浴場などの都市遺構はとても4000年以上前に築かれた都市とは思えない。ここから出土した「神官王」と「踊り子」の像は有名である。髭を蓄えた神官王が着ている片方の肩を出した衣服は、同時代のメソポタミアの王たちの衣服とよく似ている。また踊り子の風貌は肌の色が黒いドラヴィダ系の女性のようである。城塞部の東側に住居部があり、その路地の壁の高さは4~5メートルはある、そして路地は大通りにつながっている。ハラッパー遺跡が鉄道建設のためにかなり壊されてしまったのとは対照的によく残っている。

 ハラッパー遺跡はパキスタン北部のパンジャブ州にある。レンガが大量に盗まれたハラッパーはモヘンジョ・ダロに比べると昔の街並みを間近に見ることができないことから物足りなさを感じるが、上下水道が発達していたことはよく分かる。ハラッパー遺跡からは2頭のウシに引かれた二輪荷車をかたどった粘土製の小像などが出土している。ハラッパーで使われていた古代の荷車は、インドで現在も使われている荷車によく似ている。

 実は、インダス文明の代名詞となったこれら二つの遺跡の発掘もまだ終わっていない。現在の政治情勢により発掘ができない状態もあるが、遺跡が広大なため発掘が再開されたとしても、あと100年以上はかかるだろうといわれている。また、モヘンジョ・ダロ遺跡のBC1世紀~BC2世紀ごろの仏塔の下には、インダス文明時代の神殿があると推測する研究者もいるが、仏塔自体が貴重な遺跡であるため、その下を発掘するのは不可能な状態である。

 インダス文明社会は多民族多言語共生社会であった。また多数の職能集団が独自の社会を形成し、それぞれがお互いを補完しながら社会を支えてきた。そこには農民がいたし、狩猟採集民もいた。商人もいれば、職人もいた。彼らは流動性が高く、雨季や乾季にあわせて移動した。その移動を円滑にするため、お互いインダス印章を保持し、言葉が通じないところでは、インダス印章が互いの出身や職業を認識し合いコミュニケーションを取るための一助となった。パンジャブ地方のハラッパーなどの大都市はこうした移動民が一堂に会する場所であった。


 ***


このようにインダス文明には不明な点が多いが、それらを以下に列挙する。


1)王宮らしい建物はなく、一般の住居も大差なく、記念碑的な建造物もない。さらに王墓も見つかっていない。これでは中央集権的権力がインダス文明を統治していたとは思えないが、一方で、インダス文化は130万平方キロという広大な地域にわたって拡がっていても、その性格は完全に均一であることから、政治的権力や政体上の権威は高度に中央集権的な官僚制を持った専制神官君主の手に握られていたと考えるのが妥当である。しかし、その真相はまだわかっていない。例えば、度量衡の標準化はインダス文明の初期の段階から行われていたが、その主体となった組織の実体は謎のままである。


2)自分の業績を宮殿や神殿の壁に刻ませるような絶対的な支配者はいなかったようだ。武器もあまり見つかっておらず、都市には防御を固めていた様子もない。インダスでは平等社会のままだったのだろうか?

 

3)インダス文明の人びとの思想や理想、そして彼らの文化の真の起因となったものや価値観について何もわかっていない。インダス文明を創始した人びとの知的・精神的生活は依然として謎である。


4)未だに一篇の文学作品も出土していないし、インダス文字は右から左に書き進められたことは証明されたが、印章の銘のただの一字もまだ解読されていない。また、イラン南西部の原エラム文字はインダス文字に影響を与えたと思われるが、両方ともまだ解読されていない。


5)インダス印章の図柄で圧倒的に多いのが一角獣である。文字は印章に書かれているだけではない。銅版や土器にも刻まれている。しかし、インダス文明の崩壊後、一角獣のシンボルはインド亜大陸から姿を消している。


6)はるか離れたインダス川流域とシュメールとの間に交易が行われていた証拠はあるが、両者の関係はまだよくわかっていない。ハラッパー文化の諸都市は同時代のシュメール諸都市よりはるかにモダンだった。自然達成的に成長していったシュメール諸都市とは違い、計画的な都市づくりが行われていた。水道や浴室の設備などは、その衛生上と快適さにおいて高い水準に達していた。都市生活面ではシュメールより高度な文明だったと思われるが、これほど完成された都市を築いた人びとが、なぜその後同じような都市を造ることがなかったのか?


7)実は、インダス文明の代名詞となったこれらハラッパーとモヘンジョ・ダロ2つの遺跡の発掘もまだ終わっていない。あと100年以上はかかるだろうといわれている。これら二つの遺跡の下を掘れば、未知の神殿や、ひょっとして王宮も発見されるかもしれないが、それは今のところ不可能と言わざるを得ない。したがって、互いに600キロ以上隔てて位置するインダス文明の2大都市ハラッパーとモヘンジョ・ダロについては、その起源やどうように発展していったかを示す手がかりは今も何も見つかっていない。


 BC1900年~BC1800年ごろにインダス文明は崩壊してしまい、その記憶すら失われた。崩壊の原因はよくわかっていない。気候変動による崩壊が有力のようだが、次の「41話 インダス文明の崩壊」でそれを検証する。

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