第26話 ウル第3王朝
<年表>
ウル第3王朝時代(BC2112年~BC2004年)
シュメールのウルの王権が復権し、メソポタミア広域の政治的統一を果たした。「新シュメール時代」と呼ばれ、シュメール史の最後の段階が始まった。この時代ウルはメソポタミア周辺を支配する領域国家の首都として繁栄する。シュメール・ルネサンスの時代で、世界最古の成文法であるウル・ナンム法典や、王統譜であるシュメール王名表などが整備され、王の神格化が進んだ。最古の文学であるギルガメシュ叙事詩や、後のBC13世紀~BC12世紀ごろにカッシート系バビロニアで完成された天地創造神話エヌマ・エリシュの原形も、この時代に完成されたと思われる。この時代は世界初の都市文明の言語であったシュメール語が王政の言語として使われた最後の時代となった。
***
(ウル・ナンム)
グティ人の専制から100年経たないうちにシュメールに1人の救国者が現れた。ウトゥ・ヘガルという名のウルク王がその人である。グティ人支配に対するウルク王ウトゥ・ヘガルの解放戦争に、ウルの一将校ウル・ナンムも加わっていた。グティの王ティリガンは捕虜となり、縛られ目隠しされてウトゥ・ヘガルの前に連れてこられた。勝者は足をその首に置いたのだった。しかし、
その後、一時はグティ人の支配によって分断されたメソポタミア南部(シュメール)と中部(アッカド)を再び統合して、支配者となることに成功する。彼が名乗った「強き王、ウルの王、シュメールとアッカドの王」は、アッカド王朝時代に使われた広範囲な王号「四方世界の王」に比べ、よりはっきりとした地域的な意味合いを持つ。ウル・ナンムの下、生産物や行政機能を中央に集める中央集権化が始まった。この目的のため、彼は地方の王たちに対して中央の役人の力を強め、法典を定め、度量衡を統一し、国全体を網羅する土地台帳を作った。これは王国の土地登記簿で、土地は測量されて1区画ごとになっており、その境界が示された。全体的に見てこの時代は、経済的繁栄、政治的安定、そして強力な官僚制機構の時代といえる。
ウル・ナンム(在位:BC2112年~BC2095年)は非常に精力的な支配者で、シュメール全土にわたって数々の建設事業を行った人として知られている。ウル・ナンムが着手したものの中で最も重要な建物は、ウルのナンナ月神のジッグラート(聖なる塔)である。このジッグラートは、土台が60x45メートルで高さが30メートルを超える壮大なもので、ウル・ナンムの名を思い出させる永遠のモニュメントであり、今なお最も保存状態のよいシュメールの記念建造物として往時の威容を留めている。この並外れた構造物の建設に関連するいくつかの場面は、ウル・ナンムの石碑の一つに彫り込まれている。
ウル・ナンムは軍人として成功したばかりではなく、社会改革者であり、立法者でもあった。彼は人類史上最古の法典を発布した。それは有名なハンムラビ法典より300年も前であり、モーセの律法より1000年以上も前だった。またそれはウル・ナンムが都をウルに定め、ウルの最大の敵であるラガシュを破り、多くの社会的・倫理的改革を実施した後に公布されたものだった。それによると、ウル・ナンムは国土から詐欺師や汚職者を追放し、正しい度量衡を定め、さらに、孤児が金持ちの餌食になることのないように、寡婦が権力ある人びとの餌食になることのにように心がけたという。また、人類の道徳規準の歴史において極めて重要な3つの条項もある。それらは、もし人が他の人間を肉体的に傷つけた場合、加害者の側は罰金を課されるという規則を定めている。そこではモーセの律法より1000年も前の時代に、「目には目を」「歯には歯を」といった野蛮な法律ではなく、犯した罪に対して金銭による償いをするという人道的な方法が適用されたのである。
また、外交では国際交易の復興を行った。彼の碑文に、「マガンとメルッハの船がナンナの手中に戻ってきた」と記されている。主な国際交易はサルゴン時代と同様に海上交易だった。それは陸路より安全で安価だったからである。この時代インダス川流域の諸都市との関係は良好で、ハラッパーやモヘンジョ・ダロの商人がウルに駐在したり、商館を建てたりしていた。サルゴンのシュメール支配以来、北方のセム的な要素はメソポタミア南部の諸都市においても、徐々に浸透しつつあった。その結果、シュメール語と並んでアッカド語が多く用いられるようになった。
18年におよぶ統治の間にウル・ナンムの権力は絶頂を極めた。ウル第3王朝になってからは、「ウル・ナンムの黄泉の国への旅」といった古シュメールの神話世界の他に、アッカドの宗教的な要素である悪魔祓いや占星術などが登場する。占いの風習は古シュメールにはなかった。ウル・ナンムはシュメールに安定と富をもたらし、神々を手厚く祀ったので、「正しき牧者」と称せられるようになった。しかし彼は戦場で死んだ。彼への追悼の辞が残されている。
(シュルギ)
ウル・ナンムの王位は息子のシュルギ(在位:BC2094年~BC2047年)が継いだ。シュルギはやがて古代世界において最も傑出した王の一人となった。彼は優れた軍事指導者であり、几帳面な行政家であり、いくつもの壮大な神殿を築いた精力的な建築家であり、諸芸術のパトロンであった。特に文学と音楽とを擁護し、ニップールとウルにシュメールの二大アカデミーを創設した。それは書記の技術や文学を守り伝えるための書記学校で、「エドゥッパ」と呼ばれた。エドゥッパは神殿に置かれたとみられ、支配階級の若い子弟が入学を許された。シュルギ王の賛歌には、彼は素晴らしい音楽家であり、文学の才に優れ、彼の手によるものがその後数世紀にわたり、メソポタミアの書記たちによって書き写され伝えられるようになったと書かれている。また、彼は度量衡の標準化を行って交易を促進し、新たな暦も導入した。主な国際交易はウル・ナンム時代を引き継ぎ海上交易だった。シュルギの50年近くにもおよんだ統治の間シュメールは大いに繁栄した。王家と神殿との関係は良好で、神聖結婚の祭式も復活した。
ウル第3王朝の時代に行政文書の量が驚くほど増えている。これは官僚制度の急成長を物語っている。楔形文字は象形文字の体系として始まった。そして記憶を助けるものへと発展し、最後は発話された音に一対一対応する記号の体系を取るようになった。楔形文字を読み書きできたのは限られた少数の人びとだけだった。それは多分神殿に雇われ、そこで教育を受けた書記たちだった。読み書きの能力が彼らに与えたのは、高い地位だけではない。少なからぬ権力も付与された。とりわけ粘土板に行政関連の記載が集中していることから見てそれは明らかだろう。文書の量はウル第3王朝になると一段と増加するが、それは識字能力がさらに広まったことを示している。シュルギ王自身も文字を書くことができると主張していた。
ウル・ナンムの後継者たちは優れた能力の持ち主だった。ウル・ナンム、シュルギ、次いで彼の二人の息子、アマル・シンとシュ・シンが王位を継承し、それぞれ9年間ずつ統治した。ウル・ナンムから始まった4人の王の統治が続いたウル第3王朝の100年間の平和と治安維持は、悲惨な世の中に慣れていたメソポタミアの人びとにとって極めて稀なことであった。
(ウルの没落)
シュ・シンの跡を継いだイビ・シン(在位:BC2029年~BC2004年)は、腹心イシュビ・エㇽラの裏切りにあい、シュメールの王位を奪われ、最後はイラン高原のエラムとシマシュキの同盟軍がウルに侵攻・略奪し、イビ・シンは鎖で繋がれエラムへと連れ去られ、生涯そこから帰ることはなかった。一つの国家としてのシュメールを事実上終わらせたこの壊滅的な破局は、苛酷な運命を悼むたくさんの哀悼歌を残した。ウルが没落した後、BC18世紀初頭にシュメールの首都としてバビロンが興隆するまでの200年余りは、シュメールの都市ではイシンとラルサが栄えた。この二つの都市の高名な支配者たちに捧げられた賛歌が数十篇も見つかっている。しかし、この時代はアムル人の時代(BC2004年~BC1792年)と呼ばれ、メソポタミアの都市の大半はイラン高原のエラム人やシリア砂漠のアムル人によって支配されていた。
(ウル第3王朝の時代)
この時代ウルはメソポタミア周辺を支配する領域国家の首都として繁栄する。ウルは、現在ではかなり内陸にあるが、シュメール時代には海の近くに位置し、主要な港であった。この都市の大部分を占めるのは、守護神ナンナを祀るための神聖な囲い地にある壮大な建物群で、特に顕著なのが3階建てのジッグラートである。
この時代になると、神殿よりもその一部であるジッグラートの方が目立つようになった。頂上に小さな神殿を載せた階段状のレンガの塔であるジッグラートは、形の上から言えばピラミッドを思わせるが、内容的には対照的である。ピラミッドが日の当たらない迷宮のような墓であるのに対し、ジッグラートは天と地をつなぐ役目を果たす神のための日当たりのよい階段梯子である。BC2100年ごろにウルに建造されたジッグラート、つまり階段付き聖なる塔は、バビロニア地方や近隣のエラム地方(南西イラン)の多くの都市が模倣したりして、聖書のバベルの塔の物語(創世記第9章)が生まれる源ともなった。
メソポタミア南部の二つの都市ウルとウルクは王家同士が連携を保っていた。ウルクで王が立つと、王は息子をウルの副王に任命したし、其の逆の場合もあった。この二つの勢力はティグリス・ユーフラテス両河を越えた地域までは届かなかったが、両河南部地域のすべての都市国家を属州として束ね、シュメールとアッカドの伝統を基盤として再生が始まった。諸都市の領地はウルの王族の知事が統治する形でウル王の支配下に置かれた。それぞれの都市神を祀るにもウル王建立の神殿、あるいはウル王のために建立された神殿で行うことになった。ウル王自身の関心は、シュメールとアッカドの中間点にある宗教都市ニップールやウルの大神殿に多額の費用をかけることであり、都市文明の特徴である大建造物が文字どおり最高に達した。ジッグラートの出現は街の引き締まった構図を創り出し、見る者へかなりの威圧感を与える。巨大なモニュメントには都市支配者の権力が浮き出ていて、逆らう意志を萎えさせるのに十分な迫力がある。それは神を頂点とした秩序の維持装置として絶大な威力を発揮したといえる。
ウルのジッグラートの最初の建設者はウル第3王朝の創立者ウル・ナンムであった。また、ウル・ナンムは有名なハンムラビ法典に連なる諸法典の中でも最古の法典の立法者ともされている。ウル・ナンムの4人の後継者たちもウルのジッグラートやその周辺の聖域に手を加えている。彼らは自分たち自身のための大宮殿を新築し、地下墓所も建造し、さらに学識・文学・音楽を含む諸技芸の保護者を任じていた。それまでは口誦で伝達していたシュメールの文学遺産を文字で記すという長持ちする手段を用いて伝承されるようになったのはこの王たちのおかげである。このウル第3王朝はたった1世紀(BC2112年~BC2004年)しか続かなかったが、膨大な量の経済行政文書を各所の粘土板文書保存書庫に残しており、その経済活動の良好な働きを証明している。西方から侵入してきた敵の侵攻でウルは崩壊し、アムル人の時代(BC2004年~BC1792年)となった。シュメールの王権はイシンに移ったが、イシンの王たちもウルの王たちと同じく約1世紀(BC2004年~BC1900年ごろ)しか続かなかった。イシンの王たちはシュメール人の伝統を重んじ育成した。西方から半遊牧民のアムル人たちがますます激しく侵入してきたが、イシンの王たちはこの新来者たちが迅速に農耕定住型の都市社会に溶け込めるように仕向け、交易も産業も変わらず栄えていた。ところが、自然塩害もあったため、都市国家間の争いが次の1世紀(BC1900年~BC1792年)というもの絶えなかった。
グティ人に対する戦いのなかでウルはメソポタミアに領域国家の原則を確立したが、同時に専制が支配し住民を搾取する形態として初めてはっきりとその姿を現すことになった。いわゆるウル第3王朝(BC2112年~BC2004年)の時代は、古バビロニア時代、すなわちバビロン第1王朝(BC1792年~BC1596年)の200年前の時代であったというだけなく、古バビロニア時代の社会的・経済的な発展はウル第3王朝時代と比較対照することによって初めて十分に理解できるようになる。ウル第3王朝の王たちは5代にわたってペルシャ湾岸からメソポタミア北部の天水農業地域に到るまで支配していた。その版図はアッカド王国に匹敵するものだった。但し、アッカドはその軍隊を侵入させはしたものの決してシリア地方をしっかりと王国に組み込むことは出来なかった。
「王の宮廷」と「神官の神殿」のいずれが優位に立っていたかを巡る問題は、ウル第3王朝時代にはすでにはっきりと「王の宮廷」の勝利となっていた。したがって、ウルの宮廷には自身の経済や租税、交易の利潤から大きな富が流入した。だが、専制的な中央権力ができると住民の搾取と抑圧も強化されてきた。しかし、またこの中央集権国家は個々の都市国家の力では成し遂げられない課題をも全うした。すなわち、広域にわたる灌漑システムを作る労働を組織し指揮したり、農耕可能な土地の拡大に気を配ったり、収入の一部を遠隔地交易に投入して、ラピスラズリなどの
メソポタミアの支配者たちが後世も繰り返し中央集権を図る努力を推し進めることができたのは、灌漑地帯において必要なこうした機能のおかげである。しかし、王の手中に全権力を厳しく集中したにもかかわらず、ウル第3王朝は100年余りしか持ちこたえることができなかった。ウルはメソポタミアに領域国家の原則を確立したが、もっと狭い土地に限られていたシュメール都市国家の枠内におけるほど効率の良いものではないことが結局実証された。また、発展しつつあった私的土地所有は廃止もされず、決定的に抑制もされなかった。土地の私有はその後、古バビロニア時代に明瞭になってゆく。
都市は西アジアでは早くもBC6000年紀以来形成され、その後の社会発展のなかで重要な役割を果たしていた。それら都市はなお本質的には農業を営むその周辺によって支配されていて、農業と密着し、その市民は都市の周辺にある農地の耕作を他人に委ねることがあったにせよ同時に農民でもあった。そのような都市に商業と手工業は集中していた。特に、交通の要衝にある都市や王侯の居住地、重要な文化中心地では商業と手工業は急速に躍進した。しかし、個々の共同体が著しく自給自足的であるため国内市場はほとんど発展せず、商品経済はなおその初期の段階にあった。したがって、商業と手工業は第一義的に支配階級、つまり宮廷と高位の神官たちのために活動していた。ウル第3王朝時代の商工業は住民の直接の需要のために奉仕するものではなく、事実上国家の独占であった。商人は輸出品あるいはその他の資金を宮廷または神殿から、つまり王とその官僚によって支配される国営の大規模経営の領域から受取り、その委託を受けて自ら商用の旅に出たり、あるいは代わりに行ってくれる者に委ねたりした。ウル第3王朝最後の王イビ・シンの時代には、貿易はその一部がルエンリルラという者により握られていて、数多くの文書が彼の活動を記録している。手工業も同様に宮廷と神殿の需要に依存しており、大規模経営に付属していた。手工業者は加工用に一定量の原料を支給された。例えば、織物職人は「国営」の工房に集められ、最も重要な材料である羊毛を宮廷や神殿の莫大な量の羊毛のうちから受け取っていた。その生産品の一部は輸出に回された。
羊毛が織物になる過程は、古バビロニア時代の証言によると、羊毛摘み、羊毛
ウル第3王朝とその支配体制が崩壊すると、ほとんどの国家独占も崩れ去った。ウルの後継国家、例えばラルサで初めのうちは従来通りのやり方で経営しようと努めたが、それは失敗に帰した。商人たちはすでにウル第3王朝時代に国からの委託と並行して、自己の裁量で行う自分の商売をも営み始めていた。商人たちは資金を貿易に投資する私的な委託者たち、つまり個々の商人またはその集団から商品や必要な前払い金を受け取った。それと並行して王自身もまた引き続き彼らの重要な委託者の一人であった。当時ウルの町は海港であった。今日のバーレーン島を経由して遠くインダス地域から運ばれてきた商品もウルにもたらされた。ウルの海上貿易商人たちが輸出する品は織物工場で製造された布地であるが、銀または金で支払われることもあった。この海上交易から宮廷は輸入銅に関税を課けたり、あるいはウルにあるニンガル神殿へ納付される10分の1税を課けたりして利潤を得ていた。重要な原料が産出しないメソポタミアのような土地にとって遠隔地交易は実際必須のものだった。輸入品は、金属、特に錫、固くて貴重な木材、石材、またオリーブ油やブドウ酒そして象牙だった。それに対して輸出品は、まず第1に穀物、ゴマ油、ナツメヤシ、そして羊毛、あるいはその加工品としての毛織物と衣服だった。広範な層の自由市民の出現、多数の個人に蓄積されつつある富、そしてまた
(シュメール文明の衰退)
BC2004年、ウル第3王朝の最後の王イビ・シンの統治24年目に、シュメールの東方の旧敵エラム人がイビ・シン軍を打ち破り、イビ・シンはエラムへ連れ去られ、ウルは徹底的に破壊された。その7年後、エラム人はメソポタミア北西の総督でセム系のイシビエラ将軍によって駆逐された。そしてシュメール地方北西のイシンを首都とするセム系のアムル人の王朝を開いた。これが200年後のバビロン第1王朝(古バビロニア)へと受け継がれることになった。しかし、ここからはもうシュメールの歴史ではない。イビ・シン王をもって文明の土台を築いたシュメール人の王朝は滅びた。BC4000年から始まるウルク初期文化から2000年も続いてきたシュメール人によるメソポタミア支配はここに最後の時を迎える。文字、記念建造物、正義と法の概念、宗教などを残して、彼らは姿を消していったが、その豊かな文化遺産は後の王朝に引き継がれ今もなお残っている。
シュメールは異民族が創設した新たな王朝の支配下に入ったが、その統治の下でメソポタミアはシュメール時代にも勝る栄光の絶頂期に到達する。その異民族とはシリアやアラビアの砂漠に住んでいたセム族のアムル人かその末裔であった。主としてウシやヒツジを飼育することによって生計を立てていた牧畜民の彼らは、労働者や傭兵として文明の進んだメソポタミアに入ってきていた。アムル人は先住民族であるシュメール人から、その宗教、文学、法律、芸術などの多くを受け継いだ。しかし、彼らは会話や文書には自分たちセム系の言葉を使った。したがって、シュメール語の使用は学校や神殿に限られたが、紀元前後までは続いた。侵入したアムル人が征服したシュメールの都市の一つがバビロンである。キシュの南西にあったこの都市に、スムアブムという名の族長がアムル人の王朝をBC1850年ごろに創設した。そのスムアブムから数えて6代目の王、ハンムラビによって、バビロンはメソポタミア全土を制覇する。かつてはシュメールとして知られたこの地は、ここでバビロニアと呼ばれるようになった。
メソポタミア南部には塩の堆積という大きな問題があった。灌漑を大いに利用する地域にとって土壌の塩性化はいつまでも続く終わることのないリスクだった。塩分は水によって運ばれてくる。そして植物の根が水分を吸収した後に土壌の中に留まる。それを取り除かない限り塩分は根域に集積され、最終的には植物を枯らしてしまう。一方、メソポタミア北部のように雨が十分に降る地域では、塩分は下方へ押しやられ根の部分から無くなってしまう。過剰な灌漑を行うことで塩分を下方へ押しやることはできるが、それは一時的な解決方法だ。塩分を多く含んだ水は底土に蓄積され、地下水面を上昇させ始め、これが表土に近づくにつれて毛細管現象が生じ、水を表面に吸い上げる。表面では蒸発が起こり、土壌に塩分が蓄積することになる。結局のところ、乾燥地帯で塩性化を防ぐ唯一の道は、地下水の排水システムを導入することである。塩分を多く含んだ地下水は土地を汚さない方法で処理されなければならない。海へ流すことが理想的だ。
トーキルド・ヤコブセンとロバート・アダムズが指揮した「ディアラ盆地考古学プロジェクト」が1958年に出した報告書のよると、粘土板文書を詳細に調べた結果、古代メソポタミア南部では塩性化が非常に深刻な状態だったことは判明した。特に深刻だったのはBC2400年~BC1700年で、これはまさにシュメール文明の崩壊を目の当たりにした時代だった。シュメール文明の過程において、より実りの多いコムギからより耐塩性の高いオオムギへの移行が見られる。ウルク中期にあたるBC3500年ごろの時点では、これら二つの生産比率はほぼ同じだった。しかし、シュメール初期王朝時代にあたるBC2500年ごろの文書では、コムギの収穫量が穀物全体のわずか6分の1になっていることを示していた。さらに、バビロン第1王朝時代にあたるBC1700年ごろにはコムギの栽培が全く行われていなかったことをほのめかしている。また、生産力の全体的な低下も認められる。ギルスの町の文書によると、BC2400年ごろの穀物の収穫量は1ヘクタール当り2537リットルだったが、BC2100年になると、これが1460リットルに減少する。一方、近隣のラルサはBC1700年ごろに起源を持つ都市だが、その近くから出た文書によると、平均の収穫量は897リットルだったという。このようなメソポタミア南部における収穫量の劇的な低下に見舞われて、はたして都市生活に必要とされる官僚、神官、職人、兵士、商人たちをまかなうに足る食糧の余剰を生み出すことができたのだろうか? もし神々が繰り返し穀物の不作を押し付けることで、王たちを見損なうようなことになれば、王たちはどのようにして自らの権威を主張することができたのだろう? 塩性化が生産力の悲惨な全体的低下を招き、そのためにシュメールの諸都市は完全に放棄されたり、荒廃するがままに捨て置かれたり、あるいは徐々に縮小して村落へと戻っていったという。ヤコブセンとアダムズによって1958年に始めて提唱されたこの灌漑農耕による塩性化説は堅固な理論だったことは明らかなようだ。確かに彼らは楔形文字のの文書をいくつか誤って解釈したり、都合の良い文書を使用したりもしたが、本質的には非常に説得力があり、これを覆すほどの説はまだ出ていない。灌漑農耕はシュメール文明の最初の勃興を可能にさせたように、シュメール文明の崩壊にも主要な役割を演じたのである。
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