第24話 シュメール初期王朝

<年表>

ジェムデト・ナスル期(BC3100年~BC2900年)

 メソポタミア南部に興ったウルクの文化はメソポタミア全域とその周辺諸地域に急速に広がり、メソポタミア南部型の都市文明は、メソポタミア南部から広く西アジア周辺地域に拡散して、各地に都市が形成された。都市国家の分立段階が始まり800年ほど続いた。また、都市周辺のステップ地域にはヒツジやヤギの放牧を生業とする遊牧社会が都市社会と連携して形成されていった。そしてBC3000年ごろの絵文字から楔形文字への移行はコミュニケーション能力を飛躍的に進歩させたと考えられる。


シュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)

 この時代、王権の都は洪水や敵の攻撃のためエリドゥ・バドティビラ・キシュ・クア・クルラブ・ウル・イシンというように移っていると記録されている。BC2900年ごろのウルクは6万人が住む都市だったと推定され、この都市の守護神イナンナを祀るエアンナ聖域からはさまざまな宗教的建造物が多数発見されている。この時代のウルクの王の一人がギルガメシュである。ちなみに、ウルクで発明された文字が完全な文字体系としてシュメール全土に普及するのは、シュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)のBC2500年ごろである。

初期王朝時代は、第Ⅰ期(BC2900年~BC2750年ごろ)、第Ⅱ期(BC2750年~BC2500年ごろ)、第Ⅲ期(BC2500年~BC2335年ごろ)に区分することもあるが、あまり厳密なものではない。


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(西アジアの都市国家)


 シュメール文明はその基盤を農業に置いていたにもかかわらず、性格という点では本質的に都市的であった。BC3000年紀のシュメールは十数ほどの都市国家からなり、それぞれが大きな城壁を巡らせた都市と、それを取り囲む郊外の村や部落を持っていた。シュメールの諸都市の人口は、記録が残されていないので正確に見積もる方法はないが、おそらく平均的には1万人~1万5000人程度だったと推測される。

 そしてこの各都市を顕著に特徴づけていたのは、高い段丘の上に位置する主神殿だった。それらは次第に巨大な階段状の塔、ジッグラートへと発展し、宗教的な建築におけるシュメールの最も特色ある貢献を果たすことになった。通常、その神殿は長方形の中央聖堂、すなわち内陣と、その長い側面を取り囲む聖職者用の多くの部屋から成っていた。神殿は都市の中で最も大きく、最も高く、そして最も重要な建造物であった。シュメールの宗教指導者たちにとって都市全体がその主神のものであり、都市は世界が創造された日に、それぞれの神に割り当てられたのである。しかし、実際には神殿共同体は土地の一部を所有していたに過ぎず、それはその地に住み着いた小作人たちに貸し出されていた。残りの土地は個々の市民の私有財産だった。政治権力は当初、これらの自由民と都市の首長の手中にあったが、後者はエンシと呼ばれ、同等な市民たちの一人にすぎなかった。都市全体にとって重要な決定を行う場合には、自由民は「長老」の上院と「平民」の下院とで構成された二院制の集会を開いた。

 都市国家間の闘争が次第に激しく、厳しいものとなり、シュメールの東と西で蛮族の圧迫が増大するにつれて、軍事的指導力が差し迫った必要事となり、「王」、当時のシュメール語では「偉い人」が登場してきた。当初、その「偉い人」は危機に際して特定の軍事的任務を担当するために集会によって選出され、任命されたようだ。しかし、王権は次第にその全ての特権や既得権と共に世襲的な制度となり、文明の刻印そのものとすら考えられるに到った。王たちは常備軍を設置したが、それは動物が牽引する戦車、すなわち攻撃用武器としての古代の「タンク」と、密集重装歩兵とから成っていた。シュメール人の勝利と征服は、この武器や戦術、組織、そして指導力の優秀さに負うところが大だった。したがって、時が経つにつれて、富や影響力という点で王の宮殿が、神殿と競争を始め、BC3000年紀の終わりまでには、王はその土地の絶対的な支配者になっていった。しかし、シュメールの君主は必ずしも専横な圧政者や、残酷で気まぐれな暴君ではなかった。例えば、後のウル第3王朝のシュルギ(在位:BC2094年~BC2047年)のような王は、彼自身が神々の代行者、代理人にすぎず、またその国土と国民の幸福と繁栄について、神々に対して責任があるということを十分に認識していた。


 前期青銅器時代にあたるシュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)になると、土器や冶金工房の隔離が徹底されてくる。限られた空間に多様な専業工房を近接して配置することで、支配者は都市経済を動かす重要な製品などを一元管理しやすくなる。また、お互いに刺激し合うことにより、相補的に技術が発展することもある。物作りの専業化と同時に、人間関係にも変化が起きてくる。いわゆる階層化の始まりである。都市的な性格の強まった集落では、街路で区切られた空間利用の専門分化により、祭祀儀礼を執り行う神殿、土器づくりや冶金の工房群、行政的な職務を司っていた館、集落を自衛する軍事施設、倉庫など多様な性格の施設が造られた。


 西アジアの本格的な防御施設は銅石器時代後期(BC4000年~BC3500年)に登場する。明確な城壁は北シリアの都市的集落で確認されている。最古の城壁はBC4000年のブラクの幅2メートルの日乾レンガ製である。この壁は城門もあり、集落を防御する城壁とされる。メソポタミア南部のウルクは、初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)に全長9.5キロの平行四辺形を崩した楕円形の城壁に囲まれていた。当時のウルクは約400ヘクタールの規模に達していた。初期王朝時代は青銅器時代(BC3500年ごろ~BC1500年ごろ)の前半に相当する。この頃メソポタミア南部でウルクをはじめとした都市国家の中心的な街が数多く出現する。ウルクの中心にあるエアンナ聖域は壁に囲まれて、南東側に小階段のついた正門が配置されている。街の目抜き通りは聖域正門まで延びていたと推定される。古代西アジアの都市は地形の高低差を考慮して、川筋に沿った軸線が設定されている。一般的な傾向として、神殿のある聖域は川上に、住居の密集する市街地は川下に配置される。それは生活排水を意識した配置になっている。BC3300年~BC2000年における西アジアの都市構造は、まず城壁や目抜き通りにより街の軸線が設定され、次に主要な街路で分割された街区や波止場(港)などが計画的に配置された。そして各街区に居住域や生産域などが自然増殖的に埋め込まれていった。居住域は生産域から排出される煙や臭いの来ない風上に設置され、生産域は原料の搬入や製品の搬出に便利な場所に配置された。そこでは増々増加する外部からの人びとによって地縁的なつながりの職能集団が台頭していった。


 前期青銅器時代(BC3500年ごろ~BC2500年ごろ)までに、メソポタミア南部ではいくつかの都市が国家的な機能を持つようになる。いわゆるシュメール都市国家の分立段階(BC3100年ごろ~BC2300年ごろ)では、主要都市間が運河や水路によって結ばれ、都市内部にも水路や街路が設けられる。例えば、ニップールでは街の中心に水路が引かれて、水路はユーフラテス川に沿って北西から南東方向へ延び、水路には生活排水が流されていた。同じころ、インダス文明のモヘンジョ・ダロでは、城塞部は計画的に排水施設が配置されている。狭い路地の中央に溝が敷設されたり、レンガで覆いがかけられているところも見られる。モヘンジョ・ダロでは、飲料水の確保に井戸が多用されていた。市街地の住居の多くには井戸が掘られ、街全体でおよそ700ものいどがあったと推定されている。西アジアのメソポタミア地方と南アジアのインダス地方、いずれの地方においても計画的な排水施設は下水専用であった。



(交易ネットワークの発展)


 メソポタミアには広域的な交易ネットワークが存在した。金・銀や木材はアナトリアや東地中海から入ってきたと思われる。メソポタミアの文書には、メルッハ(インダス川河口付近)、マガン(オマーン半島)、ディルムン(一般的には現在のバーレーンだが異論もある)からやってきた船の入港記録がある。ディルムンは中継港で、良質な真珠やナツメヤシのほかに、寄港した船に淡水を提供できた。マガンの豊富な鉱床からは銅や閃緑岩せんりょくがんが採れ、特に閃緑岩は、メソポタミアで彫像の材料として珍重された。

 シュメールやアッカドの輸入品のほとんどは、インダスの船で運ばれてきたものだった。例えば船・荷車・家具などの材料となる木材はグジャラート(インダス川河口の南東地域)やヒマラヤから、アラヴェリ丘陵(インド西部、グジャラートの北方)やヒマラヤやアフガニスタン産の銅はマガン(現在のオマーン)を経由してメソポタミアへ入ってきた。アフガニスタンは金や錫の産地でもあった。

 さらに、イラン高原南東部からはクロライト(緑泥岩、これからさまざまな容器が製作された)、インダス川流域からは錫、金、銀、銅、カーネリアン(紅玉髄)などの貴石や象牙、アフガニスタンのバダフシャン地方からはイラン高原経由でラピスラズリなどが輸入された。

 インダスの人びとが引き換えに何を輸入していたのかはほとんど分かっていない。シュメール人が毛織物を作っていたことから、毛織物の可能性が高い。シュメールが歴史の早い段階から飛び抜けた存在になれたのは、合金で青銅を造るための主原料を運搬する交易路が交差する地域に位置していたためといえるだろう。したがって、BC3000年~BC2000年にかけて記録された大遠征の多くは、ティグリス川沿いや東部辺境地域での戦いであった。一方、ユーフラテス川はその西方の遊牧生活者の侵入を防ぐ天然の防御となっていた。


 メソポタミアの諸都市国家間、あるいはそれらと古代西アジアの諸地域との間には、交易、外交、政治的・軍事的対立などによって複雑な関係が構築され、さまざまな形で盛んな交流が行われた。BC 3200年~BC3000年には、メソポタミア南部、すなわちシュメールの文化が西アジアの広範囲に広まっていたことがわかっている。広域にわたる商業活動の緻密なネットワークの存在はさまざまな資料から知られており、シュメールやアッカドの王たちが、天然資源の産出地、主にタウルス山脈(アナトリア南部)、アマヌス山脈(アナトリアとシリアの間)、イラン高原、アフガニスタン、シリア、フェニキア、インダス川流域に注目していたことを示している。このようなさまざまな交易活動の緻密なネットワークは、国や地域の間の相補的・相互的な関係を進展させた。考古学者たちは発掘された考古資料によって、異なる共同体の間で何が獲得されたのかを明らかにしてきた。そこから言えることは、文化的境界に位置すると見なされる諸都市が、相異なる経験が出合う場であったということである。例えば、ウルやスーサは、アフガニスタンやインダス川流域そしてイラン高原やペルシャ湾岸地域と、エブラはシリアや後のフェニキアとのフェニキアとの文化的境界に位置していた。



(都市国家の形成と分立、都市国家間の抗争)


 シュメールの都市国家は乾燥化によって引き起こされた長期の問題が生み出した産物だった。それは民を養い、地元の利益を守る最善の策を提供した。しかし、シュメールの各都市は土地、水利権、交易、および労働力をめぐって常に争っていた。粘土板に刻まれた楔形文字の碑文は、外交的な勝利や戦争、卑劣な取引について誇らしげに語る。新たな都市が建設されると、昔からの境界線が侵害され、さらに給水量が減っている時代には政治的な利害関係が増大した。


 BC3000年ごろ、都市国家における王制が確立され、それ以後のシュメールの歴史は戦乱に明け暮れる。共通した言語と文化のつながりしかもたない10いくつかの都市国家の支配者たちはシュメール全土の覇権をめぐって互いに争った。その中でも南ではウル・ウルク・ラガシュ・ウンマ、北方ではキシュなどの都市が有力だった。ところで、経済の発展は一つ一つの都市国家の境界を越えて外に出ていくものだ。したがって、武力で自分の支配領域を拡大しようとする個々の都市の支配者たちの試みは客観的には歴史的進歩に沿うものだった。この覇権争いに加わった都市のいくつか、ウルクやウルなどは後の時代に書かれた旧約聖書を通じて現代の我々に親しみ深いものになっている。


 外部からの絶えざる危険は、神とその代理人である祭祀王の権力を増大させた。王は神によって定められた町の第一人者の地位から、次第に絶対的な支配者となっていった。そしてジッグラートや神殿と並び、支配者の統治機関であり、住居でもある宮殿が生まれることになった。このような移行が行われたのはBC3000年以降のことであったと推定されている。少なくとも、BC2900年ごろに始まったシュメール初期王朝のころにはすでに移行していたことが確認されている。まさしくその時点で、神話と史実とが明瞭に分かれたのである。神話は人びとのあずかり知らぬところで、支配者によって権力保持や権力拡大の道具とされていく。シュメールのジッグラートはすべて、それが持つ高さに比べて、平面の部分が極めて広い、それは塔というよりは、むしろ階段状ピラミッドと呼ぶのがふさわしい。ヘロドトスは、バビロンのジッグラートの突端にある神殿の中に神々の像はなかったが、美しい柱や布で覆われた大きな寝台とその傍らに黄金の机があったと報告している。選り抜かれた一人の巫女を除き、誰もこの部屋に入ることは許されなかった。そこに時折神が自ら現れるとされていた。ここに、ギリシャ人によって伝えられた「神聖結婚」の後世への反映を見て取ることができる。ウルクとウル、この2つの都市は、この時代に最盛期を迎えている。ウルのスタンダードと呼ばれる木製の箱もこの時代のものである。


[ウルの発掘]

 イギリス人チャールズ・レオナード・ウーリーは1922年から1934年にかけて、ウルの神聖な囲い地より南側で行われた発掘で、シュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)の2000を超す墓を発掘した。そのほとんどは盗掘されていたが、そのうち16は王墓であることが確認されている。いくつかの墓には、シュメール王名表にある初期の歴代王に符合する名前が刻まれた品が収められていた。1927年に無盗掘のウル王家の墓を発見した。そこには、おそらく王子であったと推定されるメシュカラムドゥグという名前の男性の遺体が横たわっていた。その墓は普通の墓と変わるところはなかったが、その内部は豪華だった。

 木棺の周りには銅製の槍、アラバスタ―(白色の鉱物で方解石と呼ばれる)と粘土で作った容器、金を貼られた短剣とさや、銅の短刀、のみなどの道具類、50個以上の銅の深皿、銀の器、などさまざまなものがあった。木棺の中の遺体には銀の帯が巻かれ、その帯には金の短剣と金の輪に取り付けたラピスラズリの砥石がぶら下がっていた。遺体の前方には大量のラピスラズリと黄金色の真珠が積み重なっていた。遺体の周りには金のカップやランプ、マグネシウム合金の両刃斧などがぎっしり積み重なっていた。そして、とりわけ人目を引いたのが、黄金の兜だった。この兜はレリーフ状の模様がついた黄金でできており、頬当ても付いていた。

 別の王墓には、金色の装飾を身にまとった王妃と、殉死した侍女たちがいた。彼女たちとともに贅沢な頭飾りや、前面に牛頭が付いている金とラピスラズリの竪琴、鞘付きの華麗な短剣、世界最古の盤上ゲーム、それにウーリーが当初、飾り額と描写していた物なども見つかっている。飾り額は後にウルのスタンダードと呼ばれる木製の箱で、それをウーリーは再生させている。


[ウルのスタンダード]

 ウーリーが発見した木製の箱は、長さ58センチ、幅19センチ、高さ20センチで、ブリーフケースほどの大きさだが、正面が長方形で側面が台形で、上に行くにつれて厚みが薄くなり、どの面も小さいモザイクの場面で飾られている。ウーリーはこれをウルのスタンダードと呼んだ。スタンダードとは軍隊が行進や戦闘中に旗竿の上につけて高く掲げる儀杖旗のことだ。現物はそれとは異なるが、今でもその名称で呼ばれている。BC2600年~BC2400年ごろの「ウルのスタンダード」は竪琴の共鳴板、あるいは貴重品を入れる箱だったと思われる。その横長の片面には戦争の場面が、もう一方の面にはそれに続く勝利の祝宴の場面が描かれている。場面は3段の漫画のように上下に積み重ねて並べてある。古代のシュメールの人びとの生活を知るうえで、考古学上の資料として最も役に立つものは、この「ウルのスタンダード」と呼ばれる見事な木造品である。モザイクはペルシャ湾産の貝殻を砕いた断片をめたものからできている。そして、その後ろにアフガニスタン産のラピスラズリが散りばめてあるため、青い色が点在して見えるようになっている。さらにインド産の赤い大理石も用いられている。これは重要な点で、ここで初めて遠隔地と取引された物、見慣れないいくつかの異なった素材で作られた製品が登場したのだ。それぞれの断片をつなぎ合わせている瀝青(コールタール)だけは地元産と考えられる。側面の三角の台形のパネルには、神話に出てくる動物たちが描かれている。正面の横長のパネルの戦争の場面には、戦闘中の兵士と、王のところに連行される主だった捕虜とが描かれている。勝利者も敗者も驚くほど似ている。メソポタミアでは近隣の都市同士が絶え間なく覇権争いをしていたのだ。最下段にはロバが牽く四輪戦車が描かれている。もう一方の横長のパネルには王が祝宴を催している場面で、王とその一家が祝いの席に臨んでいる模様が見える。彼らは椅子に腰かけ、ヒツジの毛皮でできた短めの、あるいは中くらいの長さのスカート状の衣装をまとい、上半身は裸である。召使たちが傍らに立っている。端の方には小さな竪琴を奏でる楽人の姿が見られ、さらにその傍らには、胸に手を当て伴奏に合わせて歌っている歌手の姿もある。さらに、平民たちが家畜・農産物・工芸品などを贈りものとして王のもとへと運んでいる。このパネルは社会のあらゆる階級の人びとを描いた一大絵巻になっている。このような形でこれだけの素材を集められた社会は、余剰生産物があり、その余剰分を支配者が集めて、広範な交易ルートを通じて遠方から珍しい素材と交換できるだけの権力と支配の構造が必要だった。また、その余剰分は農作業の制約から解放された人びとを養い、生活を支えることにもなる。祭司、兵士、役人、それにこのスタンダードのような複雑で贅沢な製品を専門に作れる職人たちだ。パネルに描かれているのはまさにこれらの人びとなのだ。



(シュメールの有力都市)


 シュメールの有力な都市は、初めにメソポタミア中部のキシュ、次に南部のウルクとウル、ラガシュ、ウンマと続いた。その後、中部のセム系サルゴンのアッカドが登場する。

 メソポタミア中部と南部の都市は、昔から中部と南部で敵対関係にあった。中部には以前から大きな領土国家が存在した。シュメールの大洪水物語に語られている大きな自然災害が、BC2900年ごろにメソポタミア下流域を襲ったとすれば、同時期に西方の砂漠方面から新たな移住民がユーフラテス川の無防備になった流域を下って中部に侵入してきたと考えられる。この西方からの移住民はセム系言語を話し、レヴァント地方の後のアラム人やヘブライ人とは関連があるが、シュメール人とは異なる民族だった。彼らはシュメール人より上流に住みつき、最初の都市はキシュと呼ばれた。伝承では、洪水の後、「天から王権が下された」とされる都市はキシュである。その地は後にアッカド地方と呼ばれるようになる。


<キシュ>

 キシュの君主は広大な王国を権威主義的に支配し、シリアにあるマリやエブラといった都市と交易関係を築いていた。彼らは軍国主義的なイデオロギーで町を支配し、征服と支配が王権の中心教義となっていた。

 シュメール全体の支配を確立した最初の都市は、現在のバクダードの南90キロのところに遺跡が残るキシュであることはほぼ間違いない。キシュはBC2900年ごろ、エタナという王の下でその最盛期に達した。この推測はシュメール王名表に基づいている。エタナの時代から約1000年後のウル第3王朝時代(BC2112年~BC2004年)に作成された王名表は、王制確立以降のシュメールのほとんどすべての王の名を記したもので、まさに驚くべき記録である。エタナはここで「すべての土地を安定させた」と述べられている。

 シュメール王名表によるとキシュのエタナの治世の後、キシュの南東160キロに位置し、シュメールの英雄時代と密接に結び付くウルクが覇権を争う相手として次第に台頭し始めた。


<ウルク>

 ウルクは全シュメールの主神アン(アッカド語ではアヌ)と、愛と豊穣の女神イナンナ(アッカド語でイシュタル)に捧げられた聖都であった。女神イナンナの神官たちは、ウルクの宗教面はもちろん、政治面でも指導権を握っていて、その業績は一連の叙事詩に記されている。それらの叙事詩の原文はシュメール語で書かれたが、後にアッカド語に書き直された。その中でも後世まで伝わり、最もよく知られているのが「ギルガメシュ叙事詩」である。その叙事詩は、英雄的主人公ギルガメシュがいかにしてウルクに城壁を築いたか、いかに怪物や敵と戦ったか、いかにして不死を求める旅に出発したのか、などが語られている。この旅でギルガメシュは、バビロニアのノアともいわれるウトゥナピシュティムに出会って、ただ一人だけ生き残ることができたという大洪水の物語を聞かせてもらえたのである。ウルでもキシュ第2王朝のエンメバラゲシと同世代の王たちがいたが、ウルクのギルガメシュとは違って、直接エンメバラゲシとは対戦していない。ウルの王たちもその何人かは「シュメール王名あるいは王朝表」や碑文などに名前が伝わっている。

 英雄時代のウルク第1王朝の創始者はメスキアッガシェルという名の王だった。メスキアッガシェルはキシュのエタナ以上に権勢を誇った王であったようだ。王名表は彼のことを「ウトゥ(太陽神)の息子」と称し、「海に入り、山々に登りし人」と記している。メスキアッガシェルの跡を継いだのがその息子エンメルカルで、彼こそ英雄時代の最初の主人公である。エンメルカルは、都市国家アラッタへの遠征を遂行したが、目的はその地の金属と石材のいくつかを得ることだった。シュメールの文献によれば、アラッタの支配者たちはシュメール風の名前を持ち、その神々もシュメール風の名前で呼ばれ、人びとはシュメール語を話していたという。しかしイラン地方にあったと思われるアラッタがどこにあったのかは全くわかっていない。

 アラッタの重要性はその金属と石材にあり、当時の最も熟練した石工および冶金工の故郷としても喧伝されていた。アラッタの名声はシュメール全土に及び、ついにはアラッタという語そのものがシュメール語において「尊敬すべき」とか「かの有名な」という意味を持つに到った。次いで、エンメルカルの高潔で勇敢な廷臣で、アラッタとの遠征で共に戦ったルガルバンダがウルクの王位継承者となった。エンメルカルとルガルバンダの勝利と征服の物語は、シュメールの叙事詩となった。

 ルガルバンダは人びとの記憶に深く残る人物だったようで、死後に神格化された。ギルガメシュも含めた後世のシュメールの王たちの幾人かはルガルバンダを、神の血を引く自分たちの父であると宣言した。

 ルガルバンダの後を継いだ初期ウルクの歴代の王も名君だったと伝えられている。その一人で、ルガルバンダの跡を継いだのはウルク第1王朝第4代の王ドゥムジで、彼の生涯と性格は人びとの心に非常に鮮やかな印象を刻み込んだと思われる。なぜなら、ドゥムジは感銘深いシュメールの聖婚の儀式と、この儀式に関連する「死にゆく神」の神話での中心人物となったからである。これらの儀式や神話は古代西アジア全域の人びとの宗教生活に支配的な影響を与え続けた。

 ドゥムジは、メソポタミアの神殿で豊穣の神として祀られるようになり、彼への崇拝はやがて西アジアにおける他の宗教に影響を与える。例えば、ユダヤ教ではタンムズという名で受け入れられ、ヘブライ歴には今日に至ってもタンムズという名の月が設けられている。タンムズとはドゥムジのセム語的表現である。しかし、ウルクの初期の王のうち一番有名なのはギルガメシュである。


<ウルク・キシュ・ウルの興亡>

 しかし、ルガルバンダの治世も終わりに近づいたBC2700年ごろ、ウルクの勢力はその北西の都市国家キシュから重大な脅威を受けることになった。この時のキシュの支配者はエンメバラゲシという名の王で、キシュ第2王朝(BC2700年~BC2500年)の創始者でもある。この王名を記した2枚の文書が現存している。エンメバラゲシは戦争の指導者としても成功を収めたが、シュメールの最も神聖な神殿の建立者でもあった。軍事面では、彼はシュメール地方のすぐ東側にあったエラムを撃破したことで有名である。また宗教的指導者としては、ニップールにシュメールの大地と空気の神エンリルのために神殿を建てた最初の王だった。エンリルはシュメールの主神であり、「あらゆる神々の父」であったことから、やがてニップールはシュメールの宗教・思想・文化の中心となった。

 エンメバラゲシの息子アッガは父の業績を継承しようと努めたが、この時代にはすでに聖書に出てくる「カルディア人のウル」と呼ばれる都市国家がシュメール全域を支配する勢いだった。その最初の王はメサンネパッダであり、彼は80年間統治したといわれている。メサンネパッダと彼が創立したウル第1王朝は、重要な天然資源をシュメールに供給する外辺地域をしっかり押さえていた。おそらくこの時代(BC2600年~BC2400年ごろ)のものと想定される「ウルの王墓」は、武器。道具類、容器、そして金銀銅と準貴石類で製造した装飾物で満たされていた。

 ウルはシュメールの首都としての地位を長く保持できなかった。メサンネパッダが亡くなってまもなく、ウルクが再びシュメールの指導的都市として先頭に立った。それは偉大なギルガメシュの支配する時代だった。


<ウルクのギルガメシュの時代>

 ドゥムジの王位を継承したのは、古代世界のずば抜けた英雄ギルガメシュであった。彼は冒険心に富み、勇敢で、その悲劇的な姿は名声と栄光と不老不死に対する人間の変わることのない、また満たされることもない探求心を象徴していた。彼こそギリシャの英雄ヘラクレスの先人であるが、ヘラクレスという名前自体、語源的にギルガメシュにつながる可能性がある。詩歌や物語にこれほど多く謳われているにもかかわらず、当時のギルガメシュの生涯と治世についての歴史的記録はいまだにわかっていない。しかし、ニップール出土のある文書にギルガメシュ時代に政治的混乱があったことが記されている。それは英雄たちの時代にシュメールの覇権を求める三つ巴の激しい闘争が繰り広げられたことを示している。そこにはキシュ第2王朝最後の王であるアッガ、ウル第1王朝の創始者で長寿を保った王メサンネパッダ、そして若いウルクの王ギルガメシュの名が含まれていた。そしておそらく最終的な勝利者はギルガメシュだった。だが、それは空しい勝利だった。血なまぐさい一連の内戦によってシュメールは弱体化し、ついには東方のエラム人の属国となり、王権はアワン、ハマジといった外国の都市に奪い去られてしまったのである。


<シュメール分裂内乱の時代>

 ギルガメシュの時代の後、シュメールの内乱に乗じて文明圏に侵入してきたのは古来からの敵であるイラン南東部のエラム人たちだった。エラム人たちは一時的にせよシュメールの一部地域を支配した。

 シュメールがその苦境から立ち直るのは、ギルガメシュの時代から約100年後のアダブいう都市の王ルガルアンネムンドゥの治世を待たねばならなかった。後世に記録されたある賛歌によると、ルガルアンネムンドゥは強大な征服者であり、優れた軍事的指導者であった。彼は古代メソポタミア世界の大半を支配していた13人の小国の王たちから成る連合軍を撃破し、シュメールを再統一し、そこに往時の栄光を回復した。だが、ルガルアンネムンドゥの死後、都市国家間の根深い対立は再び頭をもたげ、覇権を争う破滅的な戦いが約200年間続いた。

 アダブのルガルアンネムンドゥの死後、メサリムというキシュの王が台頭してきた。彼自身の碑文によれば、彼はキシュのはるか南方にあるアダブとラガシュ両市に神殿を建立した。実際、このメサリムという王はBC2500年ごろの王であったようだが、初めて政治的仲裁を手掛けた人物としても知られている。ラガシュとウンマの激しい境界争いが起こったとき、彼は2つの都市の間の正当な境界線と考えられる場所を測量して定めることで、この争いを仲裁した。しかも彼はその地点を記し、将来の紛争を防ぐために碑文付きの石柱を建てさせた。



(シュメール初期王朝時代第Ⅲ期)


 それに続く時代はシュメール初期王朝時代第Ⅲ期(BC2500年~BC2335年ごろ)と呼ばれ、ウルクもウルも一つの王朝が支配していたが、それまでの宗教的な支配者やカリスマ性のある支配者たちとは違い、正統性のある王家が支配する体制になった。王家が壮麗な神殿に潤沢な寄付をする見返りに、王権を授けてくれた神官集団と共同体制を組んで、何世代も王権を維持した。シュメールの都市国家たちはお互いに争うこともあり、次第に弱体化していき、権力は再びキシュがある北方のアッカド地方へ移った。

 この時代の諸都市、ウル・ウルク・ラガシュ・ウンマ・キシュなどからは、楔形文字で粘土板や石製記念碑などにシュメール語で書かれた行政経済文書と王碑文が出土し、各都市における王統・神殿経済・農業経営・都市プラン・物質文化などがある程度知ることができる。粘土板に書かれた楔形文字文書は火災などで失われることなく残り、その出土数は50万点におよぶ。この時代に神官と国王の権威は別々のものとなり、神殿のそばに王宮が造られるようになった。ウルクで発明された文字が完全な文字体系としてシュメール全土に普及するのはBC2500年ごろである。この時期に表音文字が登場し、文字の数も600程度に整理され、シュメール語が完全に表記される。また、尖筆からアシの筆に代わり、筆を粘土に押し付けて書くようになったことから、特徴的な楔形文字へと変化していった。


<ラガシュ>

 この混乱の時代に、過去の歴史上ほとんどその名を聞かなかった、ウルクの北東55キロに位置するラガシュが台頭してきた。ラガシュ王朝の創始者はウル・ナンシェで、覇気満々とした精力的な支配者で、たくさんの彫像や石碑で飾られた多数の神殿を建て、数本の灌漑用の大運河を掘った人物である。彼はまた、シュメール人からは楽園の国であり、日出づる所と呼ばれる遠い外国、ディルムン(一般的には現在のバーレーンだが異論もある)との交易も行ってもいた。

 ウンマ・ウルク・ウル・キシュなどを抑えて、BC2450年ごろにラガシュを軍事的侵略行為によって政治的権力の絶頂期にまで押し上げたのは、ウル・ナンシェの孫にあたるラガシュ第1王朝3代目の王、エアンナトゥムだった。エアンナトゥムの時代にラガシュはその絶頂期に達した。彼はシュメールの永遠の敵である東方のエラムを攻撃し、これに成功することによって覇権への道を登りはじめた。エラムの次には、隣国ウンマに矛先を向けた。ラガシュとウンマとの間には灌漑権を巡っていつ果てるともない過酷な紛争があった。エアンナトゥムはウンマを打ち負かした後で、「禿鷹の碑」として知られる重要なモニュメントに自らの戦勝を記念し、この戦役に一時的な終戦をもたらした講和の条項を彫り込んだ。これは世界最古の講和条約である。エラムとウンマに勝利して自信を深めたエアンナトゥムは、引き続きウルク、ウル、ついには最も長い王権の伝統を持っているキシュを攻略した。その結果、短期間ではあったが、エアンナトゥムはシュメール全土の宗主たることを宣言することができた。しかし、「すべての国々の征服者」という誇らかな称号にもかかわらず、エアンナトゥムは戦場で死んだ。そしてラガシュの支配力は衰え、昔の狭い版図に限られるまでに収縮してしまった。


[ラガシュとウンマの争い]

 都市間の対立関係の中には何世紀も続いたものもあり、双方の都市で人びとを鼓舞する美辞麗句が生み出された。「悟るがいい、貴市は完全に破壊されるだろう!降伏するのだ!」と、シュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)のBC2600年にラガシュ市は宣言した。隣のウンマ市との間で、ラガシュの主神ニンギルスの「でた土地」であり、「平野の首」として知られる地方をめぐって争いが起こり、紛争が頂点に達したときのことだ。北部にあるキシュの有力な支配者メサリムがこの争いの仲介をして、この土地を両市の間で2分割した。メサリムは宗教儀礼にのっとり、ウンマの最高神サラと、ラガシュのニンギルスの間で取引を交渉した。大地と空気の神で神々の父であるエンリルの監督の下で、メサリムは土地を綿密に測量し、その正当性を示す記念碑を建立した。この協定に基づいてラガシュは年間の収穫の一部を「年貢」として納めることでウンマに土地を貸し与えた。しかし、絶えず変化する政治情勢のなかでは、都市の勢力は支配者の能力次第で大きく変わり、この取り決めは必然的に反故ほごにされた。農耕、地代の支払い、灌漑用水路の使用法をめぐる争いは何世紀もの間くすぶり続けた。両市とも戦争を始める口実を探した。軍隊は不意打ちをかけ、神殿や村に火をつけ、灌漑用水路の流れを変え、戦利品を積んで立ち去った。大げさな美辞麗句と奇襲攻撃、それに血みどろの戦いが、シュメール人の暮らしの背景の一部として日々繰り返された。この頃には常備軍を持つことが当たり前になった。政治的権力の中心は一つの都市から別の都市へと揺れ動いた。シュメールの都市国家は各地の農作物を組織的に管理することには成功したが、大きな都市間の連合は概ね失敗に終わった。


<ラガシュとウンマの抗争、ウンマの勝利、そしてサルゴンの登場>

 次に我々が知ることができるのは、エアンナトゥムの甥のエンテメナと、ラガシュの弱体化に付け入ったウンマとの間の抗争についてである。この戦いはある妥協を持って終わったが、それは依然としてウンマ人たちに不満と恨みを残すものだった。ウンマにとっての好機が数年後にやって来た。ラガシュに宮廷革命が起こり、ウルカギナという平和を好む、理想化肌の改革家の手に政治権力が移ったのである。これこそ、野心に燃える、好戦的で積極果敢なウンマの総督だったルガルザッゲシが待ち望んでいた時だった。彼はこれをラガシュ攻撃の好機と考え、ラガシュのほとんどすべての聖所を焼き払い略奪した。続いて、シュメール第1の宗教都市ニップールをはじめ、いくつかの重要な都市の支配者となり、首都をウンマからウルクへと遷した。

 しかし、敗れたラガシュの王ウルカギナは人類史上初めて、自由という言葉の書かれている感動的な社会改革の記録を残した。彼の碑文の一つによれば、彼は強欲な官僚階級の苛酷な要求に枠をはめ、減税を実施し、不正と搾取を止めさせ、高利貸し・盗人・殺人者を市から一掃し、貧しい人びと、寡婦や孤児を助けるために特別の配慮を行った。「自由」という語が初めて歴史に現れるのも彼の碑文の一つの中であった。またウルカギナが彼の都市と彼自身の敗北について語っている心を動かされずにはおかない弁明の記録も残している。この文書は、ウルカギナが自らの大義の正当性を深く確信し、神々の判定が彼に最終的な勝利をもたらすであろうという信念を持っていることを披歴する一文で終わっている。このように、ラガシュの王朝は軍事的活動よりは、むしろその思想的・文学的業績によって記憶されている。

 ラガシュの征服に始まったウンマの総督ルガルザッゲシの生涯は、一時は「下の海(ペルシャ湾)から上の海(地中海)まで」すべての国々を支配下に置いていることを誇れるほど驚異的な成功をおさめたが、ウルカギナが予言したとおり不名誉な終末を迎えることになった。ルガルザッゲシはニップールの町の門で首枷くびかせをはめてさらされ、通行人のすべてから罵られつばを吐きかけられた。彼を打倒したのは、古代世界きっての偉大なる人物の一人で、大王と呼ばれるサルゴンである。


<サルゴン>

 シュメール初期王朝時代(BC2900年~BC2335年)の後には、西に新しく建設されたアッカドにその役割を譲り渡さなければならなかった。古代世界で最も傑出した人物の一人であるアッカドのサルゴン1世(在位:BC2334年~BC2279年)はシュメール人ではなくセム族だった。サルゴンが建設した史上初の領域国家アッカドは彼の死後衰えたが、セム族と、より良い生活条件を求める彼らの渇望は、シュメール人によって開発された地域に後から興ったあらゆる国家の生活の中に最も重要な因子として残った。

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