私とこの星、この国

ひかりは以万

第1話 気がついてしまった不幸

◯朝◯


誕生日というのは

いわば、出荷日に等しく

製品であれば、この日から消費期間までを

製品の寿命と呼ぶのであり、もてはやされる期間を賞味期限という


そして、その商品には企画として生まれた日もある。サンプルとして提案された「形になっている」プロトタイプとして見える場所に現れた日。

この日から

人間の胎児と同じように、

あちこち手を加えられ、洗練されて

流通の世界に放たれる。


製品は、プロトタイプで生まれて、製品として流通にデビューする。


人間も同じだ。


受精卵や胚児は、人の形すらしていない。

それが、39週~40週の間に加工されて

人の姿で生まれてくる。


世界にとって、人が生まれてくる瞬間は

私たちのからだの受精の瞬間に似ている

のかもしれない。

生まれた私たちは、9ヶ月の代わりに

90年かけて、何かになって、どこかに生まれていく

出荷される命日は、子宮がわりのこの世界から、胎脂のような体を捨てて、整形された心だけを産み出しているのかもしれない。


もしも、そういうことであるならば

人間の社会で50歳頃からを安定期と見立て胎児が、外の世界の音を感知するように

次に生まれる世界の音を感知する現象が

ふりかかり、世界と時間の相似の関係の因果をうまくイメージ出来ない誰かが、老年期の幻聴を、ボケの始まりと威張って診断するかも知れない。


人間同士のかかわり合いは、細胞同士の連携にすぎないのだろうか。


水掻きのように、あったはずなのに

生まれたときには指と指の間に、そうとわからぬほどにわずかにしか持っていない進化の面影のように


多くを子宮に置いてくる新生児のように


死んでしまうその日、少しなら無駄な何かを持っていけるのだろうか。


人間の種である私たちは、妊娠期間を子宮で過ごす胎児と何が違うというのだろう。


死ぬ日、私は、

別のどこかに、生まれる。

この星という子宮から、産み出される。


◯昼◯


誕生日というのは、多くの人間の目に触れ始めた日で、命が「生まれた」日ではない。


命は、受精した瞬間から体を作り始めるので、命の始まりは、むしろ受精日ではないだろうか。


だが、日本の法律では、胎児が人権を持つのは、人の形を認めるおよそ1ヶ月の後である。

神社への挨拶も、生まれて1か月後に、首が座った頃出向く。

30日というよりは、40日を目安にしているのだと思われる。

妊娠期間の相似だ。精子の寿命もそのくらいだそうだ。子宮の酸に耐えて待ち、卵子にたどり着く精子の情報があるというから生命の執念のすさまじさを感じる。


接触の開始から40日の寿命の時計をカウントダウンして精子は、命を探すわけだ。

そして、無事に会えたら、マックス40週の建造期間を得て、世界に生まれてくる。


私自身の出産で経験しているが、39週で生むのと、40週で生むのとで、母体の負担は同じではない。この一週間を母体で過ごす胎児は、空気に触れて1ヶ月過ごす胎児と同じくらい大きくなってしまう。1キロ近く成長してしまうのだ。

人間の子宮では、40週は、帝王切開で取り出す胎児の大きさで、自然分娩で5キロ近い赤ん坊を生むことは、大概難しい。


私は、時間を数字で認知する人間の世界において、始まりにまつわる数字の話をしているつもりである。


1度も子供を生んだことのない女性が

子供を生める初産年令は、39歳ぐらいが限界だからである。


39週の妊娠期間を経て、この世に生まれてくる、というサイクルは、「出産」にまつわる、重要な数字であり、25歳で女性が女性として機能することは、25週の赤ん坊が、保育器で人工子宮で何とか生き延びることのできる成果を生んだことと連動することにもなっている。


それがなにか?といってしまうことは

あまりに簡単だが


簡単ならば、そのポイントは、人として

知っておいていいほどの、ポイントなのではないかと思うのだ。


男たちが、俺が家長だ。俺が一家を背負っている、というならば、一家の主として、貴様の一族の皆が、分担しているであろう責務の内容を共感し導く助けを、彼らが持っているのは当たり前のことだ。


妊婦って、足の爪を切ることが出来ないんだぜ、とか

孕んだ嫁の体を、抱けなくてタマるとか

家長という「長」として無知すぎる奴に

ついていかねばならない家族が気の毒である。


あなたの子供を妊娠した。

女性が、男性にそう告げた瞬間から

命の共同作業は、始まっていると自覚した方がいい。

39週後、愛情は、子供の種の中身になっている。

つがう自由は、男のものではない


◯夕◯


誕生日の273日も前に、命は始まっている


ところで命とはなんだろうか。

私は、じっくり考えたことがある。


父母からもらう遺伝情報は、体組織の基である。だが、体だけでは、それは「死体」だ。


日本語は、面白いもので

からだを英字で表すと「KARADA」

数学の要領で、

式のように圧縮すると「A(DRK)」

ダークというと闇。DARK は

D=4、A=1、R=18、K=11

全部足すと、34

全部掛けると、792

光のlightの綴りの和が56なので

012-34-56-789

と、数字がグループに分かれてくれる


闇のあとに光の数字があって

闇の数より光の数が大きい。

だから、光は闇を包み込めるという理屈を数字で表現できる。


因みに、命を表すlifeは32なので、文字で光とイニシアルを同じくするけれど、闇より小さい数なので、誘惑に敗けがち、という理屈が、数字でかなう。


まるで、宗教の説話の内容にそっくりである。


体は、闇につながる。

命は、体だけで出来ているわけではない。

bodyは、男の子に「d」が入れ込まれている

だから、教会は、少年が特別。

命は32で、体は46

その差は、12

闇に負けてしまう命も、光とのつながりのLを見つけると、闇に打ち勝つ大きな数を手にする。

bo-dyは、bo-xというと、「容器」という意味になる。day「日々」の入れ物を表しているかのよう。bo-wlも器だし。

日々というのは、太陽の運動で、認知する。


いのちを「INOTI」と書くと

開いていく「に、ち」

それの中。


命は、体と太陽に例えられる、光や熱とで認識できるとわかる。


父母からもらう遺伝情報は、光と熱ではない。体の組成情報だ。


命は、親のせいではない。


私は仮説して納得した。

命は、魂と自分の契約だと。

語呂合わせと笑って良いのだが

TAMASHII

この綴りは、timeにつながる。


その中、時を吹き込まれなければ

体は、命になれない。

KARADA

TAMASHII

またがるように、繋いでいるのは

「ヒカリ」で

日本語でも「ヒカリ」の和数は「56」

「light」も56


56が合わさることは、言うほど軽いことではない。根っこが続く言葉を語呂合わせと言う。

世間がいかに、言葉の意味を分かっていないか、あきらかになり、人と話すことが、穢れに当たることに等しくなってしまう。


気がついてしまった不幸である。


◯夜◯


闇という字は間という字に似て、

閻魔ではなくて閻間と書くと、にているけれど違うものを伝えることができる。


日本という音「にほん」を行と段の隣でくるんでみると、「門」の形に言葉が浮かび上がり、「もーぬ」という文字が残される

「もぬけの柄」というのは「命名前、日にち本物」のことである。

monu

むの上は、「み」つまり「命」だ


日本は、命の本当の名前で日々過ごす国なので、国民擬きの大勢は、時の流れのなか、日本国民だったという証を積めていない100年を強要されている。


それは、本当に、誰かの勝利だったのだろうか。













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