黒に溶ける
時雨 柚
1
あなたの怪訝そうな顔が嫌いだった。怒った顔よりも、悲しい顔よりも、どんな顔よりも嫌いだった。どんな隠し事も見通されているような気がして、その顔を見るといつも逃げ出したくなった。
ざざーん、と波の音が響いている。その音は控えめで、あまり海が荒れていないのが分かる。小さく寂しい駅のちっぽけな蛍光灯では石段を下りてすぐの砂浜をほんの少しだけ照らし出すのが限界で、砂が潮水で濡れているかどうかすらもよくわからない。そんな闇の中に足を踏み入れようとしたところで、ちょうど浜から歩いてきたあなたと出くわした。
暗闇でも、あなたが怪訝そうな顔をしているのがわかった。一番嫌いな顔だから、心の奥底にへばりついていた。逃げ出したいけれど逃げ場はどこにもなくて、私はせめて暗がりに入り込んでから足を止めた。
「何してるの」
表情を変えずにあなたは口を開いた。怒っているわけでも悲しんでいるわけでもない、純粋な疑問の声。私は何も答えなかった。視界がきかないのをいいことに、少しだけ握りこぶしを固くした。
夜遅くにこんな辺鄙な場所にいるという点で私たちは同じだけれど、彼女は帰るために駅に向かおうとしていて、私はたった今ここに来たばかり。彼女の問いかけは至極真っ当なモノ。それに答えられない時点で、私がしようとしていることがあまり良くないことだというくらいは伝わってしまう。それでも私は、ぎゅっと口を結んでいた。
前に二人でここに来たのは中学生のときだった。学校帰りに二人して寝過ごして、すぐに折り返しの電車に乗ろうとした私の手をあなたが引っ張って、ローファーを砂まみれにしながら砂浜を歩いた。海を眺めた。きらきらときらめく水面と、後のことなんて考えない! とばかりに波打ち際へと走っていくあなたを大人になっても覚えている。覚えているから、こんな愚行に走っている。
「私は、いなくなってほしくないけどな」
やっぱり既に見抜かれている。さすが、と感心するようなことはしなかった。あなたはそういう人だった。そこが憧れるところでもあった。
あの日視界を埋め尽くしていた青は、今や真っ黒に変わっている。私も彼女も変わってしまった。あの頃の私はもっと臆病だったし、あの頃のあなたはもっと強引だった。
いや、私が臆病なのは、やっぱり変わっていないのかもしれない。まるで運命みたいな再会を果たして、月夜の砂浜に二人きりだというのに、私はそれを無視して独りになろうとしている。変なところで強情になってしまっただけだ。
「帰ろうとしてたんじゃないの、今」
久々に開いた口は、からっからに乾いていた。唾を呑み込むたびに喉が痛む。それ以上に、胸の奥がずきずきと痛む。無意識のうちにあなたを睨みつけているのか、痛みに顔をしかめているのか、自分でもわからなかった。
「一緒に帰ろうよ、せっかくなら」
記憶の中で笑っている少し強引でも優しかったあなたは、いつの間にか強引さを失くして、その分もっと優しい人になっていた。ここであなたの言うとおりに一緒に帰ったら、さらにあなたを想うことが増えてしまう。あなたが夢に出てくることが増えてしまう。そうなればまた、私は私の性別を恨んで、今度はあなたがぜったいにいない場所へ向かうだろう。想い出の地で眠りたい、なんて浅はかな考えは、いっそ捨ててしまうだろう。
あなたは通せんぼをするようにその場を動かない。私も私で、最期のささやかな願いくらいは叶えたくて、ほんのわずかに顔を厳しくしたあなたをじっと見つめていた。
黒に溶ける 時雨 柚 @Shigu_Yuzu
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