あの音

雪蘭

第1話 音

 ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ........

キャリーバッグを引く音が鳴り響く羽田空港。全く実感の湧かない母国には、約五年ぶりに帰ってくる。有名なピアニストを両親に持つ関口せきぐち月音るおは幼少期のほとんどを外国で暮らした。月音の両親が世界を巡って開くコンサートはいつも完売御礼だった。そんな両親の影響で、月音はなんと0歳の頃からピアノに触れていた。

 二歳のとき、初めて弾いた曲はきらきらぼし。ただ単純にピアノの鍵盤を押しただけなのに、周りの大人達は面白いくらい褒めてくれた。最初はそれが嬉しくて、言われるがままに出された曲をこなしていった。

 けれど、それは六歳の頃までのことだ。その頃はワルシャワにほぼ定住していた。そして、俺を持ち上げるお手伝いさんの言うままに初めてコンクールに出た。会場は、今まで見たことのないほど広く、自分がこれからここで演奏するんだと思うと、手先がまるで氷のように冷たくなり冷や汗が出た。月音は周りに褒められたというほんのひと握りの自信とプライドを頼りに、舞台へと足を踏み入れた。正直、月音は自分の演奏をあまり覚えていない。ただ、周りの大人達の音は圧倒的に俺とは何か違っていて、まるで会場を舞い踊る妖精のような感じだったということだけが記憶に残っている。なんて自分はちっぽけなんだろうと、その時はただ自分を嘲笑うことしかできなかった。

 もちろん、そのコンクールで賞を獲得することなどできるはずもなく、人さじの自信もプライドもなくした俺は、すっぱりとピアノをやめ、ぽろんとも弾かなくなった。一区切り付けようと俺は、日本の小学校入学に合わせて親戚の家のある青森に移住したが、そこに良いことはなかった。余所者ということで同級生には虐められ、扱い難いからと教職員には避けられた。もちろんそんな場所に未練などは全くなかったので、すぐに再び外国暮らしになった。そんな俺が結局落ち着いた場所は、慣れ親しんだ街、ワルシャワだった。

 ワルシャワはショパンの生まれた街。あらゆる場所でショパンの曲が流れている。俺はピアノを弾くことを敬遠していたが、聞くことは好きだった。なんだかんだ言っても、月音が音楽と離れることはなかったのだ。


 ワルシャワで作曲法を学び、音楽学校を卒業した俺は今、久々に日本に帰ってきた。羽田空港を歩いている時、突然俺の耳がひくりと動いた。

(音が、する........。)

音の元へ行かなければならない。俺の中に潜む勘というやつが、しきりに訴えてくる。


 ぽろろーん ぽろろろーん


平凡な音が俺を誘う。だけどその音はただ平凡な訳ではなく、人を寄せ付けるような何かがあった。その音にたどり着いた時、俺を取り巻く空間に風が巻き起こり、あらゆる生物達の息吹を感じた。心にあったさざ波が消え、凪のように静まり返った。それは、音楽の都ワルシャワに長く住んでいた月音でさえ聞いたことのない清らかな調べだった。


 

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