第44話 死に至る病

2022.5.16


私は、月に2回心療内科に通院している。

正直、面倒くさい。

仕事帰りに行ける時間帯の予約は、だいたい取れない。


となると、休みの日に行かざるを得ない。

何故、貴重な休みなのに通院なんだ。

と思うので、午前中の予約を取って、とっとと終わらせる。


旦那が、たまに通院に同伴する。

私が、「私についての客観的な情報も欲しい」と言ったからだ。

イラつきやすい、とかその程度だ。


しかし、だんだんと旦那は私が何か言う度に「躁だ」「鬱だ」と私をラベリングするようになった。


自分の稼いだお金で、ワンピースを買おうとしたら、「それは躁の症状だから」と止められた。


今日は、次回の通院の同伴について揉めた。


こんな病気じゃなければ揉めることもないのに。

通院なんて、しなくていいのに。


面倒くさくなった。

ODしたくなった。


でも、何でこんな旦那のせいでODしないといけないんだろうとか、バカバカしいなって思う自分もいる。

治療の成果か?面倒くさいだけか?笑


病気である自分自身に対して、心からうんざりして、絶望したのは確かな話だ。


リチウムを飲んでいなかったら、もしかしたらどこかのタイミングで自分を殺めてしまうかもしれない。

こんな病気じゃなかったら、って何度思っただろうか。


調子が良いときは、病気じゃないんじゃね?って思うこともある。

でも、悲しいことに、リチウムを飲み始めてから、ODを含めた自傷行為の頻度はぐっと減ったし、衝動的に事を起こすことも減った。


ってことは、リチウムが効いてるんだ。


ってことは、やっぱり病気なんだ。


となる。


キルケゴールは、自分自身に対する「絶望」について「死に至る病」と表現した。


今日みたいな揉め事で、「病気を抱える自分が悪いんだ」と自分を責め、絶望してしまった。


その絶望の頻度が多いほど、深いほど、自分を殺める可能性も高くなる。


どこにトリガーが転がっているかはわからない。

でも、少なくとも、旦那のラベリングが私の心を蝕んでいることは確かだ。


何を基準として、「鬱だ」「躁だ」と言っているのかがわからない。


所詮、病気になった人間にしかつらさはわからなくて、「普通の人」である旦那と、「障害持ち」の自分が分かり合える日は来ないのだろうと思う。


親切心の押し売りが、つらい。


こんな時、何もかもぶん投げて、楽になりたいなって思う。


こんな思いして生きていくなら、いっそのこと…




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る