第17話白拍子、別れ尽くしを舞う
乃村征士郎は銀十蔵の用心棒として、数々の修羅場をくぐってきた。
その経験と生まれつき備わった感性が相まって、彼は気づいた――白拍子の本領が発揮されると。
自然と笑みがこぼれる。これでようやく、楽しくなる。
征士郎は刀を正眼に構えた。
「在りのすさみの憎きだに――」
まつりは歌いながら、踊るように――征士郎に突貫した。
なんだ、白拍子のくせに芸がないと思いつつ、征士郎は上から叩き斬ろうとして――振り下ろした刀をすり抜けるようにまつりは避けた。
「なっ――」
征士郎が驚くのは当然だった。普通は避けられるわけがない。未来が読めているとしか思えないほどの反応速度。
そしてまつりは斬りつける。先ほどのお返しとばかりに征士郎の腹を――
「くそ!」
短く悪態をついて、後ろに下がるが――斬られる。
皮だけではなく肉まで達していると征士郎は感じた。鋭い痛みで気を取られそうになるが、まつりの攻撃は終わらない。
「在りきの後は悲しきに――」
身体を回転させて、遠心力をもって征士郎へ斬撃を食らわす。一度だけではなく、二度三度と連続で横薙ぎを放つ。征士郎は下がりながら受け太刀をしようとするが――止まらない。まつりは刀を滑らせることで、受けられないようにしている。
「飽かで別れし面影を――」
不意に征士郎の視線からまつりが消えた――征士郎はほとんど反射的に飛び上がった。
まつりは足払いを仕掛けていた。常人ならば転ばされていたところだが、流石に人斬りとして経験を積んだ征士郎は回避できた。
「いつの世にか忘るべき――」
しかし征士郎の反応を読んでいたように、まつりは着地する前の征士郎の喉元を狙って――下から突き上げる。これものけ反って征士郎は避けようとしたが、間に合わず顎が裂けてしまう。噴き出る血。まつりは浴びても怯むことなく、次の歌詞を紡ぐ。
「別れの殊に悲しきは――」
のけ反ってしまったせいで征士郎は着地に失敗し、尻餅をつく――咄嗟に刀を横に一閃する。苦し紛れとはいえ、銀十蔵に達人と呼ばれたほどの男。それはまつりの膝を斬った。しかし深い傷ではない。まつりは臆することなく――征士郎に近づく。
「親の別れ子の別れ――」
まつりは大きく振りかぶった。
征士郎は刀を戻して受けようとする。
鈍い金属音。刀と刀、そして二人の力がぶつかる。
「すぐれてげに悲しきは――」
まつりはそのまま押して斬るつもりだった。
征士郎は体勢を崩している。これならば単純な力勝負で分がある。
「うおおおおおおお!」
征士郎が吼えた――必死に押し返そうとする。
まつりはさらに力を込めた。徐々に彼女の刀が彼の肩に近づく――
「――夫妻の別れなりけり」
刀を征士郎の右肩に押し付けたまつりはそのまま手前に引いた。
先ほどの顎の血飛沫よりも多くの血が流れた。
まつりの水干は血に塗れ、真紅に染まる。
「はあ、はあ、はあ……」
まつりが征士郎から離れたとき、彼は荒い息遣いのまま、呆然としていた。
肩の腱が斬れている。満足に刀を振るうことは叶わないだろう。
「これにて、終曲です」
まつりは息を整えて征士郎に告げた。
「まだだ……まだ満たされない……」
征士郎は気力だけで立ち上がる――刀を左手に持ってまだ戦おうとする。
まつりは悲しげに、物悲しげに、人斬りを見た。
憎い仇なのに、自分が斬ったのに――同情してしまう。
「斬りたい……! お前を斬り殺したい……!」
「もう勝負は着きました。あなたは私を斬れません」
「うるせえ! まだ終わってねえ!」
よろよろとまつりに近づく――しかしうつ伏せに倒れる。
大量の血液を失い、もはや意識が朦朧としていた。
「ちくしょう……まだ満たされていないのに……」
「……あなたが人を斬った理由はそれですね。自分が満たされるために、人を斬る」
まつりは這ってこちらに向かう征士郎に問いかける。
いや、答えを確認しているようだった。
「人を斬ると、満たされるんだ……」
「いいえ。満たされるわけがありません。それはただの快楽に過ぎません」
まつりは否定する。征士郎の心の拠り所をくだらないものだと。
「人を斬ることは一時的な快楽です。食事や睡眠と同じで一過性なもの。だからあなたはこれまで多くの人を斬らねばならなかった……底の空いた器に水を注いでも、満たされるわけがないのに」
「ふ、ふざけるな……俺のやってきたことは無意味だって、そう言いたいのか……」
「そうですね。人に迷惑をかけた分、悪質だと思います」
まつりは膝を押さえながら、血に濡れた顔のまま、征士郎を追い詰める。
「あなたは決して満たされない。お腹が空けば食べるように、眠くなれば寝てしまうように、あなたの欲望は尽きることなく、無限に欲しがってしまう――殺してしまう」
「……嘘だ、そんなのは!」
「信じないようですね。では――言うしかありませんね」
まつりは酷く冷えた声音で、囁くように言う。
「仮に満たされたとして――あなたは人殺しをやめられますか?」
「――っ!?」
「もしやめられなかったら場合、あなたは永遠に満たされない」
征士郎は目を大きく見開いて「でたらめだ……!」と喚いた。
「でたらめではありませんよ。その証にあなたは信じてしまった。信じた以上、それは幻想ではなく現実になる」
「…………」
「自己暗示、というものです。私が勝てたのは舞によって自分に暗示をかけて、数倍もの強さを引き出したからです」
それが――人斬りである乃村征士郎を圧倒できた理由だ。
舞と歌に集中することによって、身体能力と状況判断を向上させる。本来ならば多くの作業をすると力が落ちるものだが、その矛盾を超えた強さをまつりは見せつけたのだ。
そして今、まつりは征士郎を追い詰めている。
もう二度と人を殺さぬようにと暗示――呪いをかけていた。
結果として征士郎は失望と落胆のまま、意識を失ってしまった。
まつりは征士郎が失血によって気絶したことを確認してゆっくりと近づく。
とどめを刺すつもりだった。
しかしそれを止めるように「もう十分だ」と声をかける者がいた。
「興江殿……いつからいましたか?」
「ついさっきだよ。決着がついたのが何となく分かった」
興江はまつりに近づいて「ありがとうな」と感謝を告げた。
「ことの仇、討ってくれて」
「まだ討っておりません」
「お前が手を汚す必要はない。奉行所に知らせてある。こいつは捕まって終わりだ」
まつりは握っている刀を見た。
興江が何と言おうとも、今なら殺せる――
「殺すな……って言っても聞かないだろう。だけどな、後悔するぜ」
「人を殺す罪悪感なら覚悟しています」
「本当か? 手、震えているぜ」
見なくても分かっていた。
人を殺すのは初めてだったから。
「だけど、今、殺さないと……ことさんが……」
「ことだって、お前に人を殺してほしくないだろう」
「……覚悟はしていると言いました」
「しかし決意と殺意なんてないだろう」
「……でも」
「もう十分だよ。誰だってそう思うさ。だから――」
まつりの頭をぽんと触れて、優しく撫でた。
「――泣くくらいなら、やらなくていいんだ」
ぽろぽろとまつりの目から涙が零れる。
殺さなくてもいいと安堵した。
本当は、怖かったのだ。人を殺すなんて、したくなかったのだ。
舞と歌に集中しなければ、人なんて斬れやしないのだ――この優しい少女は。
まつりは興江に抱きついた。
興江は拒否することなく、受け入れた。
こんなに幼い少女が、友人のために人を殺そうとしていた。
この世は残酷で、非道だと改めて興江は思った。
遠くから奉行所の者の足音が聞こえてきた。
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