第15話白拍子、鍛冶屋に想いを託される
「どうして俺が刀を打たないのか……その理由を教えてやろう」
そう語る興江の前には、一貫五百匁の良質な玉鋼が置かれていた。
他にも刀を作るのに必要な道具――鎚などが揃っている。
「俺の師匠の名は長曾祢興里という……いや、長曾祢虎徹と言ったほうが通りがいいか。名工と呼ばれたほどの刀鍛冶だった。師匠の作った刀は見る者の心を怪しく揺さぶる魅力を持っていた。武士なら喉から手が出るほど欲しいと思い、刀鍛冶なら嫉妬で狂ってしまうだろう。実際、俺は師匠のようになりたいと憧れた――」
まつりは興江の後ろで話を聞いていた。
口を挟むことなく、聞いていた。
「師匠から教えを受けて、ようやく刀を打つことを認められた俺は、一振りの刀を打った。ある武士のためだ。あいつはとても人を殺せるような男じゃなかった。むしろ優しい気性だったんだ。でも、あいつは人を斬ってしまった……俺は後悔した。俺の刀が人殺しを産んで、人が死んでしまったという事実が心を苛んだんだ。だけど、そんとき師匠は笑いながら言ったんだ。『よくやった。これでお前も一人前だ』ってよ」
興江は自嘲気味に告白を続けた。
「単純な話さ。俺は分かっちゃいなかったんだ。刀を持つ者は人を殺める。そして刀鍛冶は作った刀の分だけ、人を殺める。そんな当たり前のことに気づいていなかった……いや、目を逸らしていたんだ。あいつが人を斬ったこと、そして師匠に言われたことで、現実を見せつけられたんだ。馬鹿だよな、俺は」
まつりは否定してあげたかった。
興江は人を殺してない。だから責任を感じる必要はないと。
だが否定できない事実があった。過去があった。悲しみがあった。
「それ以来、俺は刀を打つのをやめた。疲れたんだ、ひどくな。それに怖くなった。それで師匠や兄弟弟子とも縁を切って、ここに流れ着いた。本当は別の商売でもやれば良かったんだけどよ。駄目だった。俺には鍛冶をやるしか能がなかった。その程度のことも分かっちゃいなかった。はは、自分が情けなくなるよな」
乾いた笑い声。それから興江はくるりと反転し、まつりと向かい合う。
「別に同情されたいから話したわけじゃないぜ? これは俺なりのけじめだ。今まで打たなかったことの言い訳で、これから打つための決意を聞いてほしかったんだ。今更打たないなんて言えねえ。だってよ、ことが殺されてその仇討ちをお前がやってくれるんだろ? 年端もいかない少女のお前が、俺やみんなの代わりに戦ってくれるんだ。俺のくだらねえ誓いなんてどうでもよくなっちまう」
座ったまま頭を下げる興江。
まつりは何も言わない。
「頼む。俺の刀を使ってくれ。たとえお前が人斬りを殺めてしまったら、俺も背負ってやるから。一緒に苦しんでやるから。少女のお前にこんなことを頼むのはおかしい。唾棄すべきことだ。だけど、恥を忍んで言う――」
興江は頭を上げた。
「ことのために、戦ってくれ」
まつりは真剣な面持ちのまま、丁寧に礼儀正しく頷いた。
それは古の白拍子が時の権力者に舞を披露する光景そのものだった。
「かしこまりました。私に任せてください」
◆◇◆◇
人斬りの乃村征士郎は自分の屋敷で書物を読んでいた。
既に人々から忘れ去られてしまった英雄たちの軍記物語で、折り目正しく書見台を使っている。そこには白拍子の記述もあった。英雄の愛妾で憎むべき敵に対して舞を披露する場面に差し掛かる。なんとも哀れなものだと征士郎は思った。
彼は生まれる前から、乃村家の養子となるのは決定していた。実家と呼ぶべき大名家は今、江戸を動かすほどの大きな存在となっている。征士郎は関係ないと思っているが、もし彼が人斬りだと分かってしまえば、幕政が崩れてしまう。だから奉行所の役人は軽々に手が出せなかった。
暮らしに不自由したことはない。実家から毎年少なくない扶持米や銭が送られる。乃村家の当主、つまり養父からも丁重に扱われていた。好きなことをして良かった。城勤めも彼はしたことがない。それは養子となって五年後に乃村家の後継ぎが産まれたからだ。以来、彼は実家に戻されることなく、自由気ままに生きている。
征士郎は幼い頃から何でもできた。学問はもちろん、武芸と呼ばれるものは何でも体得した。水泳術や捕り手術、変わったものだと含針術も修めていた。しかし実際、あまりそれらに興味がなかった。使う機会のない技術など不要であると彼は考えていた。
だから剣術を習ったときも乗り気ではなかった。無外流の一派の道場に通って、すぐに目録を得たとき、ああこんなものかとあっけない気持ちとなった。
この世に己ができないことなどなく、世間の技術は全てつまらないものだと、若い時分に悟ってしまったのだ。
そんな情熱のない征士郎を変えたのは、一振りの刀だった。
当時の彼は上等な刀を持っていなかった。乃村家の者がみすぼらしい刀を持つのはよろしくないと仕えていた年配の家来に言われたので、仕方がないと腰を上げ、江戸で評判だった刀鍛冶の元へ向かった。
出会ってしまったと表現したほうが、彼の衝撃を表すのに相応しいだろう。
黒漆塗りの刀。刃紋が数珠刃で美しいと征士郎は感じた。
同時にそれで人を斬ってみたいと思った。しかしそれはしてはいけないとも思った。彼は常人の道徳と倫理をこの時点では持っていた。
『あなたは見たところ、満たされていませんね』
刀鍛冶の口から心を読まれたと分かって、戦慄したのを征士郎は覚えている。
『心が闇一色。ゆえに何もない。あなたには、何一つありはしない』
反論しようにもできなかった。
的を射ていたのもあるが、させない雰囲気が刀鍛冶にはあった。
『この刀を売りましょう。願わくば何かを掴めれば良いですな』
三十両で買った刀。
手に入れたとき、ほんの少しだけ刀に共感したのを覚えている。
この刀は俺自身だ。人を斬る機会がないから満たされることはない。俺も空っぽだから分かる。
免許皆伝の数日前、無外流の師範と戦って、半殺しにしたのには理由があった。
刀に囁かれたからだ。
――やってみたら面白いぞ。
自身の師匠を痛めつけたとき、心が熱を帯びたのを感じた征士郎。
もしかすると、自分は人を痛めつけたり、あるいは殺したりすると満たされるのではないかと彼は考えた。
普通ならば罪深いと感じ、悔い改めるのだけれど、征士郎は違っていた。
そうか。ならば俺は人の痛みを楽しみ、人の死を喜べるような人間になろう。そうすれば己の心が満たされるかもしれない。どんどん戦おう。そして勝とう。その過程で人が死のうが構うものか。
初めて人を殺したのは刀を手に入れて、二年が経ってからだった。
銀十蔵の仕事で殺したのだ。
快楽は一度目から感じていた。
そしてやめられなくなった。
乃村征士郎は書物をめくりながら考える。
今、あの刀鍛冶と再会したら、俺の心が満たされているのか分かるのだろうか。
おそらくだいぶ満たされているはずだ。流血と死臭で。
しかしまだ満たされていない。
きっとあの白拍子の娘を斬れば、満たされるはずだ。
今までよりも大きく満たされるはずだ。
時が早く過ぎてほしい。そう思うのは初めてだった。
「そういえば、あの白拍子の娘、名を何と言ったかな?」
本を閉じた征士郎はふと考える。
しかしすぐにどうでもいいと思い始めた。
重要なのは殺し合いをすること。そして殺すことだった。
命を懸けた戦いをしたかった。
その果てにあの娘を殺す。
殺さねば満たされない。
乃村征士郎は狂おしいほど、思い込んでいた。
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