第11話白拍子、夏祭りで舞を披露する

 夏祭りの当日。

 予想に反して、例年にも増すほど盛況だった。


 人の群れが列をなして屋台に並んでいる。食べ物やおもちゃをねだる子供と仕方ないなと財布が緩む大人。それらの景品を汗流して準備する的屋の者。慌ただしい賑わいは活気に満ちていた。


 一切を仕切っている銀十蔵親分だが、どうして人がこんなに集まっているのか分からなかった。用意していた品物が足りなくなさそうで、その追加で下の者がてんやわんやしている。


 おそらく普段は己の仕事で忙しくて来なかった職人町の面々が顔を出しているからだろうと判断している。まさかあの白拍子の娘が目当てなのかと親分は疑った。そして同時に、あの少女の影響だとしたら凄まじいとも思った。


 事実、まつりが舞を披露すると聞いて夏祭りに来た者は多い。職人町の大人などは子供にせがまれていただけではなく、彼らのほうもまつりの晴れの舞台を一目見ようとやってきていた。また好事家など単に珍しい物事を好む者、古典に明るい者などが白拍子の噂を聞きつけてやってきた。他の芸事の信望者もいるにはいるが、一番注目されているのはまつりであることは変わりなかった。


 さて。当のまつりは今、仮設された参加者の控える小屋でことに髪結いをしてもらっている。艶やかな髪をきっちり手入れすることで、本来の烏の濡れ羽色へと綺麗に映えていく。ことはまつりの舞が夜、灯りに照らされて披露されると知っているので、それに考慮した上で結っていた。


「元々べっぴんさんだけどさ。こうしてみるとますます可愛いね」

「や、やめてくださいよ、ことさん……恥ずかしい……」


 他の参加者、特に男はちらちらとまつりのほうを見ている。

 それほど彼女は魅力的で美しかった。

 光帯太夫の美を日輪や虹と表したならば、まつりは月輪や星座のような美を秘めていた。


「照れなくてもいいじゃない……はい、終わり!」


 仕上がったその姿は、まるで絵巻物から天女か女神が出てきたと見間違うような、清らかで聖なる乙女のようだった。


「これが、私……信じられません……」


 ことから渡された手鏡に写った自分が自分でないように感じるまつり。

 彼女は少女らしい喜びを露わにして、ことに「ありがとうございます!」と感謝した。

 なんだ、そんなに幼くて嬉しそうな顔をするのねとことは笑った。


「もうすぐ出番だね。緊張していないかい?」

「いえ。それは大丈夫です。ことさんに結ってもらって、醜態は晒せません」

「度胸があるねえ。ま、あるに越したことはない。それに……あやからせてもらおうかね」


 それまで穏やかだったことが急に笑みを消す。

 何かを決意した顔。何かを覚悟した顔。

 戸惑うまつりにだけ伝わるように、耳元で小さく囁く。


「あたし――興江に想いを伝えるよ。女なのにはしたないと思われてもいい。伝えたいんだ」



◆◇◆◇



 楽芸神社の境内の中央に設置された正方形の舞台。

 広さは二十畳ほどで一人が歌い踊り演舞するのに十分な空間。灯りが四方に設けられていて、眩いくらいに照らしていた。


 神前だからか、澄み切った空気が舞台上に流れる。対照的に取り囲む人々の熱気が演者に直接伝わる。それらが混じり合い混沌とした場へ変貌する。


 何人かの演目が終わり、いよいよまつりの番になる。

 今年の注目すべき大一番だと皆感じていた。職人町の面々はまつりへの応援を大声で喚く。銀十蔵もあの白拍子のお嬢ちゃん、大丈夫かと思い様子を見ている。


 呼び込みの合図で、すっとまつりが舞台に上がる。

 熱気が一瞬、涼やかな風と共に流れてしまう。

 これから行なう舞に、まつりが全身全霊を懸けているのだと観客全員に伝わった。


 まつりは髪結いで髪型を整えた以外、変わっていない。水干と烏帽子を被っている。

 いつでも舞える証なのだが、この舞台においては違うのだろう。


 まつりが所定の位置に着く。

 騒いでいた客が一人、口を閉ざす。それに合わせて次々と黙っていく。

 最後には誰もがまつりに集中していた。

 舞台の周りは、水を打ったように静まり返った。


 まつりは目を閉じて、心の中で祈る。

 ――見ていてください、母上。


「二十一番、『長物曲』」


 題目だろうか、観客の頭に疑問と期待が浮かぶ。

 すうっと手を挙げ、腰を落とし、無伴奏の中、まつりは舞と歌を披露する。


「いのち長岡の玉つ花、いくたび花も咲きぬらん」


 朗々と、淡々と、高らかに、それでいて人を惹きつけるように歌い上げられる。

 大声を出しているわけでもないのに、観客の耳に届く。まるで耳元で囁いているように。


「長井の裏に住む亀も、万年の筧をぞ保つなり」


 拍子に合わせて踏み鳴らす。

 何か神聖なるものを呼ぶように。

 何か邪悪なるものが滅ぶように。


「長良の山の春風に、糸を乱るる青揚」


 観客は誰一人、声を上げない。

 あまりに美しい舞と歌声に感動して、口をあんぐりと開けて呆然としている。


「長良の橋は千度まで、作りかえてもふりぬべし」


 誰も喋れない。ただ一心にまつりの舞を見ている。

 かつてまつりは光帯太夫がその美しさでこの世全てを支配できると考えたが、まつりは舞と歌でこの場を支配している。


「楽の名には長慶子、長保楽の舞の袖」


 人の心は必ずしも合致しない。

 同じものを見ても異なる感想を抱く。

 人の心はかよわない。

 同じ思いを感じるなど幻想だ。


 しかし、今は、今だけは――同じことを想っている。

 心が通い合っている。

 ――なんて美しいのだろうと。


「優しくぞ、覚ゆる――」


 まつりが動きを止めた。舞が終わったのだ。

 しかし誰も歓声を上げない。陶酔感に包まれているからだ。

 かたん、と何かが落ちた。おそらく後の演者の道具だろう。その音で皆、正気に戻る。でもまだ喋れない。


 一部始終、遠くから様子を見守っていた銀十蔵もそうだった。

 他の者と同じで呆然としていた。

 しかし彼だけはなんとか意識をはっきりさせていた。


 その親分が思う、ただ唯一のことは、まつりの舞を一刻も早く賞賛したいという気持ちだった。自分にできる最大限の表現で賛美したかった。


 だから自然と手を叩いた。言葉にできないほど感動していたから、拍手をすることしかできなかった。それが今、彼ができる唯一の方法だった。


 ゆっくりと他の者も拍手する。次々と合わせて手を叩く。それが周りの者へ伝わっていく。

 音が次第に大きくなり、やがて神社の境内だけではなく、近隣の町にまで響くほどの万雷の拍手となった――



◆◇◆◇



 舞台上で息を整えながら、皆が拍手する様を見ていたまつり。

 彼女は舞の最中、観客の反応が乏しかったことがとても不安だった。

 演者は客の反応を必ず見ている。だからしらけてしまったと錯覚してしまった。


 それでもやり切ろうとまつりは考えた。

 江戸の人に伝わらなくても、自分の矜持のために全力で挑もうと舞の途中で決意した。

 だから拍手を受けて、ようやく安心できた。


「まつりねえちゃん! 凄かったよ!」

「あたし、感動しちゃった!」


 声を出せるようになった子供たちが口々に喚く。


「こんな舞、見たことねえ!」

「素敵だったわ! まつりちゃん!」


 大人たちも口々に褒め称える。


「ふふふ。ありがとうございます」


 まつりの目に涙が浮かんだ。

 母上、どうやらあなたから受け継いだ舞は、今でも十分通用するようですよ。


 視界の端で興江とことが並んで見てくれたのがまつりには分かった。

 二人とも感激しているようで「よくやったぞ!」と言ってくれている。


 まつりは頭を下げて舞台から降りた。

 拍手と歓声は鳴りやむことなく、いつまでも続いた――

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