第六章 サウンド
§1
カラオケボックスでの一件以来、千佳は悠志たち上級生に対して尊敬の念を抱くようになった。氷室の指示で吹奏楽部に入部させられた彼女は、当然の事ながら先輩を敬う気持ちなど持ち合わせては居なかった。しかし、予想を遥かに上回る音楽センスを見せつけられた事によって、その印象が一気にひっくり返り、態度を一変させるに至ったようだ。
「小松先輩、お疲れ様っス!」
「…………」
「あれ? 先輩、どうしたっスか?」
「……え? あ、ゴメンね千佳ちゃん。ボーっとしてたみたい」
千佳の呼び声でハッと我に返った由奈は、慌てて笑顔を繕って応えた。が、やはり気もそぞろといった感じで、練習にも集中できていない彼女の様子は、どう見てもおかしかった。千佳でなくとも、不思議に思うところであろう。
「カズ兄ぃの事だったら、もう心配いらないっスよ。弄っても揺さぶっても無駄だって、ガツンと言っときましたから」
「あ、うん。それもあるんだけど……いや、関係なくは無いかな?」
氷室との悶着についても、やはり気になってはいる。しかし、由奈の懸念……と云うよりは『悩み』であろうか。それは別の所にあった。昨年の文化祭以来、気持ちが空回りして調子が狂い気味となっている悠志の事を心配するあまり、過剰な程に気を揉んでいたのだ。
「やっぱ、気になるっスか?」
「気になるって言うか……どこか怖がってるんだと思うんだよ、私も鎚矢くんも」
「怖い? ……カズ兄ぃが?」
「氷室くんのステージを観て、かなりショックを受けたからね」
そう言って苦笑いを浮かべながら、由奈はチラリと悠志の方を振り返った。彼はいつもと変わらぬ様子で楽器を鳴らしているが、合奏になるとやはり均整が取れず、何処か違和感のある印象になってしまうのだ。無論、悠志自身がそれを気にしていない筈はなく、それが表情から読めてしまう為、彼に想いを寄せる由奈も釣られて気落ちしてしまう……という事のようだ。
「カズ兄ぃから影響を受けたのは、鎚矢先輩だけじゃないでしょうに……実力者だけに、変に意識しちゃうんスかね?」
「うん……そうなんだと思う。私はまだ未熟だから、悩む事なんて無いんだけどね」
「いや、そんな事は……うーん、難しいっスねぇ」
悠志に対して、自分を控え目に評価する由奈の発言を受けて、千佳は困惑してしまった。彼女の目から見れば、由奈も相当な実力者と思えるのに、それを卑下されてしまっては……増して、相手が自分よりも目上となれば、もう何も言えないからである。
「あ、それより千佳ちゃん。氷室くんの事……くれぐれも内緒にね?」
「分かってるっス、それをバラしちゃったらアタシもヤバいっスから」
千佳が返答に困ったのを察して、由奈は慌てて話題をシフトさせた。その柔らかな笑みに、千佳もニヤリと笑いながら応えた。それは決して欺瞞ではなく、その意味では完全に氷室とは意見を違えたという、本心からの回答だった。しかし、氷室の爪痕が未だクッキリと残っている様を見て、彼女は深い自責の念に駆られ、思わず溜息を吐くのだった。
* * *
「……合同ライブ?」
5月も半ばを過ぎ、新緑の季節もそろそろ終わろうとしていた、ある土曜の午後。千佳は氷室から一通のメッセージを受けた。曰く、市内の有志バンドを募って行われる合同ライブの出場権を得たため、参加しないかという触れ込みだった。
「ふぅーん、バックコーラスが欲しいから力を貸せって事か。ま、それは良いんだけど……」
千佳がそのメッセージに対し、素直に返答できないでいるのは、その末尾に添えられた一文を承服しかねる為であった。何と、由奈を誘ってこのライブに参加して貰うよう、頼んで欲しいと書かれていたのだ。
「流石にそれは無理っしょ。第一、鎚矢先輩が許しちゃくんない……ん? いや、いっそ鎚矢先輩も抱き込んじゃえば……」
ここで千佳は、由奈と話した折に、悠志が未だ氷室から受けたショックを引きずっており、合奏において本領を発揮できないでいると聞いたのを思い出し、ハッと閃いた。この状況を上手く利用すれば、彼をスランプから抜け出させることが可能になるかも知れない、と考えたのである。
「これは使えるかもね。先輩たちとカズ兄ぃが仲悪いままだと、アタシも居づらいし」
それは、偽らぬ千佳の本音であった。元々は氷室の策によって吹奏楽部に送り込まれた彼女が、今では悠志たちの仲間として溶け込んでいる、これは事実だ。しかし彼女には、氷室とイトコ同士であるという、切っても切れない関係にあるという絡みもある為、大変息苦しい状況に置かれているのだ。それを何とかしたいと考えるのも、無理からぬ事である。
しかし、この計画を実施するにあたっては、二つの大きな問題がある。一つは、今回の話に悠志を誘う旨を氷室が承諾するかどうかという事。そしてもう一つは、そもそも悠志がこの誘いを受け容れるかどうかという事である。
前者については、由奈を誘うための交換条件という事で、氷室を言い負かす自信が千佳にはあった。が、問題は悠志の方だ。氷室から誘いを受けた彼が、素直にそれを受けるとは、今のところ考えられない。それをどう解決するかが、最大の課題となる事は間違いないだろう。
「まず、条件付きでOKという返事を出そう。これをクリアしなきゃ、後のことも不可能だもんね」
そう考え至った千佳は、さっそく氷室に返事を書いた。その文面を読んだ氷室が、条件とは何かと訊き返して来たのは、その数分後の事であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます