愛の夢

中下

1

 吉田龍平よしだりゅうへいは、布団に入り瞼を閉じると、決まって同じ夢を思い出す。初めてその夢を見たのがいつ頃だったかまったく思い出せないが、夢を見た時彼が何を思ったのか、それだけは覚えている。そんな暗鬱な初恋の夢だ。

 真っ暗な空間でひたすら彼はひたすら前進している。四方が壁に囲まれている事は、何も見えないこの状況でも、自然法則のように当然に感じられた。ふと、後ろから何かが聞こえてきた。重苦しい、何かを背負い込んで落として、上げて、また落とす。泥濘に汚れて呻く、湿った鎖帷子のような不定期的静音。すなわち、それは足音だった。

 彼はその何者かに追いつかれないよう、なるべく速く足を動かそうとするが、その足は床に引き込まれると鳥もちのように重く感じられ、ゆっくりとしか動かせない。

 気がつくと、足音はすぐ背後で聞こえている。引き込まれるような冷気をうなじに感じ、最早これまでとその足を止めた。

 後ろの何かが、ゆっくりと腕を伸ばすのが感じられた。緊張は張り詰める。世界の理が変わろうとする。腕は彼の首へと向かい、今当たった。そして、彼の細い白い首をーこの暗さでも貪欲に光る白さだー少しずつ、確かに絞めた。首に当たる手は、枝と落ち葉と泥に塗れていた。その時、締められた首筋を通って、一滴の水が流れ落ちた。水は背中を通って遥か下に駆け抜ける。それは、この闇を破壊するのかもしれない。そんな予感を抱きながら、彼は目を閉じた…。

 朝日が部屋の端をページをめくるように照らし始めた頃、彼は瞼を開いた。彼は首を絞めた者に恋をしていた。

 その恋愛感情の本質は、彼女(彼はごく自然にその何者かを女だと定義付けていた!)の正体が知りたいという、単なる知的好奇心が転じて生じたのか、それとも、何かしらの運命に定められたという意識が、彼の無意識を通って発言したのか、本当の所は分からなかった。とにかく、彼の持つ感情は恋であった。

 レースのカーテンを通って、部屋の主の許可なしに春の日差しが部屋に侵入してくる。遠くの道路を走る軽トラの音がかすかに聞こえ、雀の鳴き声がチリチリと鼓膜を逆撫でる。4月だというのに、随分な寒さだ。

 肉体は確実に自分が所有している。しかし、どういう訳か何かが物足りない。この感覚が寒さなんだと彼は認識していた。

 ベッドの脇に充電しているスマートフォンで時間と、ついでに気温を確認する。自治体のお粗末な公式アプリによると、今朝の気温は約11度。昨日は23度であったのに、なんという気温の差。

 彼には朝に対して何かしら理由をつけていらだつ癖があった。今日はまだマシな理由があったが、何一つ文句の付けようのない素晴らしい朝でさえ、やれ「日が眩しすぎる」だの、やれ「夢が不愉快だった」だの、雑な理由をつけて、意識的に1人で怒っていた。彼は朝が嫌いだった。

 群馬県下山村しもやまむら、標高1528mの三鷹山の尾根に位置する、小さな村である。人口は1059人で、その80%を60代以上が占めている。

 龍平は、この村が嫌いだった。

「ああ、なんて退屈な場所なんだ。初恋のあの人を探すにも、こんな狭い村じゃすぐに居ないことはわかってしまった。人が多い東京にでも行けば、もしかすると、彼女がいるかもしれないのに」

 などと思いながら、通学路の国道とは名ばかり、田舎のインフラだからと手を抜かれた、ひび割れコンクリートの194号線沿いを歩くのが常であった。

 学校へ着き、教室の扉を開けると、友達の和樹が話しかけてきた。

「おい、今日は例の事故の授業だってさ」

「ああ、そういやもうそんな季節か」

 例の事故とは、数十年前の8月、下山村にジャンボジェットが墜落した事故である。毎年4月になると事故についての授業を受け、8月になると慰霊碑の掃除や村のゴミ拾い、果ては弔い用具の売り出しにまで手伝いに出されるのだ。

 なぜわざわざ4ヶ月前に授業をやるのか?それはたぶん、新入生のためなんだと彼は想像していた。もっとも、この村に新入生が来ることなど、滅多にないのだが。

「まったく、めんどくせえよな。産まれる前の事故の慰霊碑なんぞ、掃除したくもない。まあ、授業が潰れるのは嬉しいけどな」

「そうか?授業とは名ばかりの自習が潰れてくれるのは嬉しいけど、俺は結構、慰霊碑の雰囲気は好きだぜ?」

 龍平は、慰霊碑の雰囲気、正確には慰霊碑があるあの空間を気に入っていた。

 何段もの石階段を登ると、目の前には天を突き刺すような慰霊碑が現れる。地面には白い砂利が敷き詰められ、この空間を木々が囲う。そこには確かな秩序があった。

「まあ、毛虫がいるのは嫌だけどな」

 そんな冗談を言った時、ガラガラと扉を開けて先生が入ってきた。

「よし、全員いるな。じゃあ始めるぞ」

 先生の退屈な話を聞きながら、今日の帰り、慰霊碑に寄ってみるか、と彼は思った。

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