第44話 重圧
「最近の椎葉はどういう気持ちでバーを跳んでいる?」
実親の問いに伊吹は頬に手を添えて考え込む。
その間に実親はアイスコーヒーを啜る。珈琲の苦みに脳が冴えていく。
暫く珈琲を味わおうと思った矢先に、思っていたよりも早く考えを纏めた伊吹が口を開いた。
「……コーチや部のみんなの期待に応えられるように跳ぼうと思ってるかな」
「そうか」
答えを聞いた実親は「やはりな」と心の中で呟いて訳知り顔になる。
「それが不調の原因だと思うぞ」
「え」
予想外の指摘に伊吹は目が点になった。表情から察するに全く心当たりがないように見受けられる。
「確認だが、椎葉は中学時代の実績を見込まれてうちの高校にスカウトされたんだよな?」
「だよね?」
実親が尋ねると、紫苑が伊吹に確認するような視線を向けた。
「う、うん。今のコーチが当時の私を評価してくれて声を掛けてくれたのがきっかけだよ」
どうやら以前紫苑が説明してくれた内容に誤りはないようだ。
「ということはコーチや部員は勿論、学校や両親からも期待されているんじゃないか?」
伊吹のことをスカウトしたコーチは当然期待を寄せているだろう。
中学時代に華々しい活躍をした期待の一年生のことを部員も注目している筈だ。
学校も貴重なスカウト枠を使って獲得しているからには結果を残してほしいと思っているに違いない。伊吹が活躍すればするほど学校の宣伝になるので尚更だ。
両親も強豪校にスカウトされて上京した娘には少なからず期待しているに違いない。
もしかしたら中学時代の先生や地元の友達にも期待されているのかもしれない。
「おそらくそれがプレッシャーとして椎葉に重く圧し掛かっているんだろう」
高校に進学してから一身に期待を寄せられてプレッシャーという目に見えない鎖が伊吹の心を蝕んでいるのではないかと実親は思った。
「中学の頃はあれこれ考えず、純粋に高跳びを楽しんでいたんじゃないか?」
「確かに言われてみればそうかもしれない……」
伊吹は中学時代の自分を振り返る。
「あの頃はバーを跳び越えることも記録が伸びることもただただ楽しくて仕方なかったな」
思い出に浸るように
「重圧を与えれば与えるほど力を発揮するタイプの人もいるが、逆にプレッシャーがあると思うように力を出せない人もいるからな。おろらく椎葉は後者なんだろう」
プレッシャーに打ち勝つのはメンタルが強い人という認識があるが、一概には当て嵌まらない。
メンタルが強くても生真面目だと肩に変な力が入って上手くいかないこともある。
伊吹の場合は数多くの期待を寄せられても逃げずに向き合えているのでメンタルが弱い訳ではない筈だ。
ただ期待に応えようとするあまり色々と考え込んでしまって身体が思うように動かなくなり、本来の実力を発揮出来なくなるのだろう。
「高跳びを楽しむ気持ちが椎葉にとっては大事なことなんだと思うぞ」
中学時代にその世代の高跳び界を席巻出来ていたのは、純粋に楽しむ気持ちが力を発揮する源になっていたからだ。
そのことに気が付いた伊吹は光明を見出したかのように少し表情が晴れやかになった。
「思い返してみたらあんなに楽しかった高跳びなのに、高校に入って以降は純粋に楽しめていなかった気がする……」
勿論楽しくなかった訳ではない。
高跳び自体は楽しかった。ただ、楽しいという気持ちを押し潰すほどプレッシャーの方が大きな割合を占めていたのだ。
プレッシャーそのものは悪いものではない。ある程度は重圧があった方が緊張感も生まれるのでプラスになる。
しかし伊吹の場合は楽しむ余裕がなくて身体が硬くなってしまうほど期待を寄せられていた。
大の大人でも精神的に厳しいことを年頃の少女が一身に受けている。それは酷な話だ。思うような結果を残せなくても仕方がない。
そこで紫苑が得心がいった顔で「なるほど」と呟く。
「だからイルカ達が楽しそうにパフォーマンスしてたのも可愛かったって話に繋がるんだね」
「ああ。イルカと人間は別の生き物だから一緒には出来ないが、楽しんだもん勝ちだと思うぞ」
「確かに」
紫苑は脈絡のない話の所為で頭の中でバラバラだったパズルのピースが次々と嵌まっていくような感覚になった。
「それに折角インターハイという舞台に行けるんだ。楽しまないともったいないだろ。誰でも行ける舞台じゃないんだからな」
インターハイは努力したからといって誰でも経験出来る舞台ではない。
努力を努力とも思わず当たり前のように行い、予選を勝ち抜いて行った者だけが到達することを許された舞台だ。
「そうだね。黛君の言う通りまずは楽しむ気持ちを思い出すことを心掛けてみる」
どこか影が差していた伊吹の顔から憑き物が落ちたような印象を受ける。
「ずぶの素人が無責任なことを散々口走ったが、一つだけ責任を持って言えることがある」
「何?」
実親は伊吹の瞳を見つめる。
その視線に伊吹はドキッとして緊張してしまう。
「俺は初めて椎葉が練習している姿を見掛けた時からお前のファンだ。だからそのファンとして言わせてもらう。椎葉は人を見惚れさせてしまう程の魅力があるからきっとこれからもっとファンが増える筈だ」
むず痒い台詞を直視されながら言われて伊吹は恥ずかしくて顔が赤くなっていく。
「そのファンの応援を力に変えて楽しんでバーを跳んでいる姿を見せてくれれば、見ているこっちも楽しくなってより一層応援したくなるに違いない」
ファンの応援がプレッシャーになることもあるが、本当のファンなら駄目な時でも温かく見守ってくれる筈だ。
勝手に期待して勝手に落胆するような自分勝手な偽物のファンのことなど無視すれば良い。
「あ、ありがとう」
語り掛けるような落ち着いた低音ボイスが伊吹の鼓膜を刺激する。
「だから椎葉は今のままで良い。そのままの椎葉を俺に見せてくれ。他の誰でもない、俺が見たいんだ」
実親がそこまで言い切ると、伊吹は顔を真っ赤に染めていた。
自分でも真っ赤になっていると自覚出来るほど顔が熱くっており、照れて平静じゃないにも
そして不自然にならないように俯いて顔を隠そうと試みる。
(あ、これは落ちたね……)
伊吹の様子を見ていた紫苑は呆れたと言いたげな表情で実親にジト目を向ける。
(本当に黛は罪な男だよ……)
「はあー」と胸中で盛大に溜息を吐く。
実親が伊吹に言った言葉は励ます意味合いも込められているが偽らざる本心だ。
「頑張れなんて他人事なことは言わないし、寄せられている期待を無視しろとも言わない。ただ楽しむことを忘れないでくれ。俺は楽しそうにバーを跳んで笑っている椎葉が好きなんだ。今まで良く頑張ったな」
もはや愛の告白であった。
事実彼の言葉が聞こえていた周囲の人間が色めき立っている。
悩んでいるところに甘い言葉を囁き、これは確信犯では? と疑いたくなるが、実親にはそんなつもりは微塵もない。ただただ天然ジゴロなだけだ。
(え? え? 何この状況?)
言われた側が勘違いしてしまってもおかしくない台詞である。
案の定伊吹は全身を真っ赤に染めて沸騰してしまいそうなほど照れているが、困惑しながらも状況を理解しようと必死に頭を回していた。
(とどめを刺してどうすんの……)
取り返しのつかない決定打を食らわせた罪深い男に紫苑は頭を抱えたくなった。
一先ずこのまま伊吹のことを放っておいて悶え死にさせる訳にはいかないと思った紫苑は助け船を出すことにした。
「伊吹、ちょっとお花を摘みに行こう」
「う、うん」
「黛はちょっと待ってて」
「ああ」
そう言いながら席を立った紫苑は戸惑っている伊吹の腕を掴み、罪を背負った男を放置してお手洗いに駆け込んだ。
女性しか立ち入ることの許されない場所で二人はどのようなやり取りを交わしたのか。それは二人だけの秘密である。
決して詮索するような無粋な真似をしてはいけない。
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