第43話 気休め

 水族館に到着した三人は水中を優雅に泳ぐ生き物達を眺めていた。


「今更だけど、伊吹は水族館好きなの?」


 どこか感じ入るものがあるように見える表情で水槽を眺めている伊吹の様子が気になった紫苑が尋ねる。


「んー、好きとはちょっと違うかな」

「そうなの?」

「うん」


 伊吹は首を左右に振っているが水族館が嫌いな訳ではない。好きか嫌いかで問われれば勿論好きと答える。


「なんて言うか……重力を無視しているかのように水の中を泳ぐ生き物を見ていると、私も重力に負けずにもっと高く跳べるんじゃないかと思わせてくれるんだよね」


 水槽を幻想的に彩っている青い光が悠々と泳ぎ回る魚群を見上げている伊吹の顔を照らしており物憂げな印象が強まっている。

 しかし角度によっては笑っているようにも見え、錯覚だとわかっていても万華鏡を覗いているかのような気分にさせられる神秘的な情景だった。


 隣にいる紫苑は思わず見惚れてしまいぼーっと眺めていると、その視線に気付いた伊吹は恥ずかしそうに頬を掻いて呟く。


「気休めみたいなものかな」


 伊吹は「えへへ」と効果音がつきそうな表情で照れる。

 その表情には男女問わず周囲の者を魅了してしまう美しさがあり、水槽の中にいる生き物が主役の場にもかかわらず、今は伊吹が主役の座を奪って客の視線を釘付けにしていた。


 みなが見惚れている中、実親は周囲の反応を全て無視して口を開く。


「俺は重力なんてものともせずにバーを跳び越える椎葉の姿を容易に想像出来るけどな」


 伊吹を自主制作映画の主人公のモデルにすると決めた日、あの時練習に励む彼女の姿に見惚れた実親にとっては想像にかたくないことだった。


 努力が必ず実る訳ではないが、努力しない限り報われることもない。少なくともたゆまぬ努力をしていきた伊吹は報われる資格があると実親は思っている。

 それこそ自己ベストを塗り替える姿だって想像出来るくらいだ。


「ありがとう。思い描いた通りに跳べることが出来たら嬉しいな」


 伊吹は確固たる自信を得られるだけのたゆまぬ努力をして実績も残してきた。なので身体さえ思い描いた通りに動いてくれれば良い結果を残せる自信はある。

 実親の言葉には行ってきた努力と身に付けた自信を認めてくれるような包容力があり、そのお陰で今度ははっきりと微笑んでいるとわかる愛らしい表情を伊吹は浮かべていた。


「うん。昨日も言ったけど、やっぱり伊吹は笑っていた方が可愛いね」

「それは久世さんもね」


 笑みを向ける紫苑に伊吹は照れながら微笑む。

 微笑み合う二人に感化されたかのように魚達がすぐそばで軽やかに舞っている。


「別の展示に移動しよう」


 水を差すようで申し訳ないが、いつまでも今いる場所を占領する訳にはいかないので実親が口を挟む。

 するとハンドバッグからスマホを取り出して時間を確認した紫苑が提案する。


「あ、そろそろイルカショー始まるし観に行かない?」


 現在の時刻は十五時十五分。

 あと十五分後に水族館の目玉イベントと言っても過言ではないイルカショーが行われる。折角江の島まで来たので是非とも観覧したいところだ。


「それならカフェに行くか」

「そうしよ」


 実親の提案に紫苑が頷く。


 カフェは水族館の二階にあり、ソフトクリームや珈琲などを味わいながらショーを観覧出来る飲食売店だ。但しショーの開始間際は混み合うので早めに移動することをお勧めする。


「私は二人に任せるね」


 この水族館に初めて来た伊吹は右も左もわからないので二人に任せてついて行くことにした。


「それじゃ行こっか」


 そうして紫苑が先導するように歩き出すと、残された二人は後を追うように歩を進めた。


◇ ◇ ◇


「いやー、凄かったねぇ。久々に観たけど圧倒されちゃった」


 イルカショーを観終わった三人は感慨に耽る。

 何度かショーを観覧したことがある紫苑でも新鮮味がある圧巻のパフォーマンスだった。


「私もイルカのように高く跳べたら良いな……」


 羨ましそうな表情で呟く伊吹だが、何も本気でイルカに嫉妬している訳ではない。

 流石にイルカと自分を比べたりはしない。彼女なりの褒め言葉であり感想に過ぎない。


「イルカ達が楽しそうにパフォーマンスしてたのも可愛かった」

「だねー」


 紫苑が頷くのもわかる。

 飼育員の指示通りにパフォーマンスするイルカはただ言うことを聞いている訳ではなく、イルカ自身が楽しんでいるように見えた。


 イルカが着水する度に水飛沫を上げ、それに呼応するかのように観客が歓声を上げる。観客の反応を理解しているのかイルカは更に楽しそうにパフォーマンスしていく。

 イルカは人間の子供並みの知能があると言われているので、もしかしたら本当に理解しているのかもしれない。尤も、人間の感情を読み取り、それに沿って行動することは出来ないとも言われているが。


「おそらくそれだろうな」

「何が?」

「?」


 脈絡のない実親の呟きに紫苑と伊吹は疑問を浮かべる。


「椎葉の悩みについてだ」

「どういうこと?」


 紫苑は首を傾げると、伊吹に視線向けた。

 その視線に気付いた伊吹が視線を返すと、今度は二人揃って首を傾げる。


 実親は昨日と今日の二日間伊吹と過ごして気付いたことがあった。

 しかし伊吹の悩みとイルカショーになんの関係が? と二人が疑問を抱くのも理解出来る。如何せん脈絡がなさ過ぎだ。 


「順を追って話すが、あくまでも俺は高跳びに関しては素人だからその辺りを踏まえた上で聞いてくれ」

「う、うん」


 高跳びに関してもスポーツに関しても素人である自分の言葉だということを理解した上で聞いてほしいと実親は忠告する。

 コーチでもなければ親でも兄弟でもないのであまり無責任なことは言えない。故にあくまでも一個人としての意見だということを念頭に置いてほしかった。


 そのことは伊吹も理解しているので、困惑しながらも確りと頷いて実親の言葉に耳を傾けている。

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