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 ピンク色のヘルメットの紐を締めて、左手、右手の順に手袋をはめる。緑地に黄色の二本輪が描かれた勝負服のファスナーを上げ、首元まで閉めてから、僕は検量室を後にした。袖は紫地で、胴体と同じ黄色の二本輪がある。

 ふと顔を上げると、そこには松岡先生の姿も、そして馬主さんの姿もなかった。

 そういえば、松岡先生は僕の騎乗するランナオブファイアをパドックで引いているところだった。馬主さんもそこにいるから、先に挨拶を済ませておくって、松岡先生が言っていたっけ。

「矢吹」

 ふと僕の後ろから、僕を呼ぶ声が聞こえる。振り返ると、緑地の胴体に黒の縦縞、赤い袖の勝負服を着て、オレンジ色のヘルメットの持った風早かざはやの姿があった。

「珍しいな、俺よりお前の準備が早いなんて」

 風早はそう言いながら、僕の右肩に右腕を乗せる。

「いつも風早がせっかちなだけでしょ」

 僕は風早にそう言うと、風早は「そうか?」と首をかしげながら、「俺は自分でそう思わんけどな」と返事をする。そのまま僕たちは、どちらからともなくパドックの方へと歩き出した。

 四月三十日、土曜日。今日の東京競馬場のメインレースはGⅡ『青葉賞』。来月末に行われる、クラシックレース二戦目『日本ダービー』の前哨戦だ。そして僕たちは、これからその『青葉賞』に出走するための準備を整えているところだ。

 とはいえ、今日の僕はロッキーには騎乗しないし、風早もダンスに騎乗するわけではない。

前走の『皐月賞』が、そのまま『日本ダービー』への前哨戦になっているからだ。そのため『皐月賞』出走馬とは異なる馬で、僕たちはこの『青葉賞』に出走することになった、というわけだ。そして今回、僕はランナオブファイア、風早はミギカタアガリにそれぞれ騎乗することになっている。

「何か、久しぶりって感じがせえへんな」

 ふと風早がそんなことを呟いた。

「『皐月賞』からまだ二週間しか経ってないからね」

 僕がそう答えると、風早は「二週間か」と、再び呟く。「開催が中山から東京に変わったのに、まだ二週間なんやな」

「なんて思ってたら、案外夏まであっという間だったりして」

「せやな。二十歳を過ぎてからほんまに一年あっという間やもんな」

「どうする、いつの間にか一か月経ってましたってなったら」

「それ『日本ダービー』本番やんけ」

「僕たち二人とも初挑戦なのにね」

「すぐにそんな大舞台来たらたまったもんやないわ。さすがの俺でも緊張するっちゅうねん。てか、早乙女さおとめはダービー何回目なんや」

「今年で二年連続三回目らしいよ」

「はっはっは。やばいなあいつ」

 僕は風早とそんなやり取りをしながらパドックに向かう。そして会話がなくなり、数秒ほど沈黙が響いた後で、ふと風早がこんなことを尋ねてきた。

「なあ、矢吹。俺ってダービージョッキーになれると思うか」

「どうしたの、急に」

 僕がそう尋ね返すと、「いや、何となくな」と、風早はどこか虚ろ気な表情でそう答えた。

 けれど、風早がそう思うのも無理はない。『日本ダービー』は、全ての競馬関係者の夢の祭典。その栄誉のために、全ての陣営がしのぎを削る競走の一つだ。

『皐月賞』『菊花賞』と並ぶクラシック三大競争の中でも特に長い歴史を持ち、近代日本競馬の歴史においても、これまで八十八回開催されてきた、誉れ高き競走となっている。

今年で八十九回目を迎えるこの競走は、その馬のもともとの能力で実力が比較できるとされている三歳の牡馬、もしくは牝馬のみが出走可能。さらに長すぎもせず、短すぎることもないため、総合力が比較できるとされる二四〇〇メートルで争われる。

そんな最高峰のレースに出走できるのは、毎年八〇〇〇頭近く生産される競走馬の中でも十八頭。そしてその栄誉を掴めるのは、毎年ただ一頭だけだ。

さらに『日本ダービー』を制した馬と騎手には、それぞれ「ダービー馬」「ダービージョッキー」という称号が与えられる。それが他の「GⅠ馬」「GⅠジョッキー」との最大の違いと言えるだろう。

それゆえに、ダービーを勝ったら辞めてもいいと言う騎手もいる。

ダービーを勝ったことで、燃え尽きてしまった馬もいる。

「最も運のある馬が勝つ」。それが『日本ダービー』だ。

 かつて、とあるアナウンサーは実況中に、『日本ダービー』をこう形容した。

〈生涯一度の夢舞台〉と――。

「いや、うじうじしとるのは俺らしくないな」

 風早はふとそう呟くと、大げさに深呼吸をしてから、僕の方に振り向いてこう言った。

「よし、やっぱりさっきの俺の発言、聞かんかったことにしてくれ」

「え」と、僕は思わず声を漏らした。

 すると風早は、いきなり僕の背中を右手で叩きながら、「行くで、矢吹」と言った。そして風早は、「早くしないと置いてくで」と言いながら、早足でパドックへと向かって行く。

「あ、待ってよ風早」

 僕はそう言いながら、ふいに早足で風早を追いかけ始める。やがてパドックにたどり着くと、東京の空は快晴だった。

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