6-2
まだ遠いはずの夏を予感させる風が、つんと鼻の奥を通り抜けていく。
四月二十八日、木曜日。最初に調教するのはテンキュウヨゾラだ。午前六時の馬場開場とともに、僕らは一二〇〇メートルの坂路調教コース内に入る。そこを二回走ってこいというのが、
感じる。
ヨゾラが地面を蹴る蹄のリズム。前に出ようとする闘争心。呼吸と鼓動。馬体に宿る熱。それらが鐙を伝って一気に僕に押しよせてきた。
そうして一二〇〇メートルを二回走り終え、少しずつヨゾラの速度を落としてから、クールダウンを兼ねて坂路調教コースの外を歩かせた。その後で僕は、ヨゾラを厩舎まで帰らせる。そこに神さんと
「どうだ、ヨゾラの調子は?」と、神さんは僕に尋ねる。
「以前より気性が大人しくなったような感じがします。そのせいか、いつもよりうまく折り合いをつけることができたので、本番も大丈夫だと思います。ただ、距離が一四〇〇メートルなので、僕がヨゾラを疲れさせないようにしないと」
僕は神さんにそう答えた。
「そうか」と、神さんは呟く。
「まあ、ヨゾラも賢いからな。矢吹のことを、少しは認め始めたってことなんじゃねえか」
神さんはそう言いながら、口元に微笑を浮かべた。
「そうだといいんですけど」
僕はそう言いながら、ふと地面に視線を落としてしまった。だとしたら、調教直前の騎乗拒否も、少しはましになってもいいはずなのだけれど。
はっきりと言ってしまえば、ヨゾラは厩舎一の気分屋だ。今日も調教を始めようと思ったら、僕を背中に乗せたくなかったらしく、文字通りのじゃじゃ馬状態になってしまった。そのせいで調教の開始が遅れてしまったのに、何で調教ではいつもより大人しかったのだろう。いくら考えたところで、その理由は分からずじまいだった。
「それは違いますよ、神さん。ヨゾラは矢吹を認めたんじゃなくて、むしろ下に見てるんですよ。矢吹の指示に従ったのもたまたまです。きっとやれやれって思ってますよ、ヨゾラは」
ヨゾラのリードを引きながら、清田さんがふとそう言った。そしてヨゾラの鼻先をぽんぽんと撫でるように叩きながら、清田さんは続ける。
「てか、ヨゾラは走ればちゃんと強いのに、本気にさせることができない矢吹が乗る意味なんてあるんですかね。ゲート難だって改善されてないし、それこそなめられてる証拠でしょ。まあ、鞭がないならしつけもできないでしょうけど」
「でも、
神さんはそう言って、僕に視線を向ける。
「はい」と僕は返事をすると、神さんは「よろしい」と笑いながら言ってくれた。
「でも……」と清田さんが言いかけると、
「あ、清田さん。また矢吹さんのこといじめてるんですか」
と、どこからともなく叫ぶような声が聞こえてきた。振り向くと、
「うるせえよ、関根。お前には関係ねえだろ。それに、そんな急に声出したら馬がびびるだろうが」
清田さんが関根くんに強くそう言うと、関根くんはやや呆れたように溜息を吐いた。
「ああ、はいはい、そうですね。俺が悪うございました」
関根くんは半ば吐き捨てるように清田さんにそう言った。
「関根、お前本気でそう思ってるか」と、清田さんが尋ねる。
「はい。思ってますからもう何も言わないでください」と、関根くんはそう返した。清田さんは関根くんの方に振り向くと、「は?」とでも言いたげな表情になる。
「さ、矢吹さん。早くボイジャーの調教始めましょ」
そんな清田さんを尻目に、関根くんは僕にやや早口でそう言った。僕はそれに対して、「え、あ、うん」としか返事ができなかった。その直後、僕がボイジャーの左側に近付くと、関根くんがすぐさま右手で僕の左足を持った。「せーの」の合図で関根くんが僕の左足を持ち上げると同時に、僕は鞍を掴み、右足でボイジャーの背中をまたぐ。そのまま僕は鞍の上に乗り、手綱を握りながら、両足をそれぞれ鐙にかけた。その後、すぐに神さんが、馬上の僕に調教の指示を出す。
「今日の報告は調教が全部済んでからでいい。南調教馬場の一六〇〇メートルコースを一周させてこい。時間は長めで構わないから、クールダウンをしっかりとな」
「はい」と僕が言うと、関根くんがボイジャーのリードを放す。僕はそれに合わせて、ボイジャーを南調教馬場まで歩かせた。
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