1-15
あの時、僕は風になりかけていた。
初めてロッキーの調教をした時の感覚。その正体がそれだったのではないかと、僕は何度かそう思うようになった。それが少しずつ、確信に変わっているような気がする。
六月二日、水曜日。僕はロッキーのデビュー戦『メイクデビュー東京』に向けた最終追切を行っていた。というより、僕らは、と言った方が適切かもしれない。
「今日は三頭併せでの追切だ」と、神さんは厩舎で言っていた。「今週末にはロッキーのデビュー戦がある。同時にアクアとベンケイの出走もあるし、同じ一六〇〇メートルでのレースだ。南調教馬場の一六〇〇メートルを一周させよう。長谷川と安と清水に、それぞれストップウォッチを持たせるから、それでタイムを測ってもらう」
「あれ、神さん今日はタイム測らないんですか」と、清水さんが神さんに質問する。
「ああ」と、神さんは微笑しながら答えた。「今日は俺も騎乗するからな。ロッキーに矢吹、アクアに難波さん、そんでベンケイに俺が乗る」
そして午前六時の馬場開場とともに、三頭併せでの追切が始まった。神さんが自ら騎乗して調教するなんて、珍しかった。
少しずつ暖まり始めた朝の空気が、ふわりと肌をかすめていく。
スタートでは三頭が揃っていた。直後にはベンケイが先頭に立ち、それを追う形でアクアとロッキーが並ぶ。向こう正面に差し掛かると、アクアがロッキーよりもやや前に出る形になった。
感じる。
ロッキーが地面を蹴る蹄のリズム。前に出ようとする闘争心。呼吸と鼓動。馬体に宿る熱。それらが鐙を伝って一気に僕に押しよせてきた。
風になっているのは空気じゃない、僕たちの方だ。
そう感じながら、僕が手綱をしごいたその瞬間だった。
最後方だったロッキーが、コーナーを曲がると同時にアクアを交わしていく。
最後の直線で先頭のベンケイを捉えると、そのまま一気に先頭に並ぶ。
いや、並ばない。
その勢いのままベンケイを交わしていくと、一気に後続を突き放して先頭に立つ。
そのままロッキーは、先輩馬たちを差し置いて一六〇〇メートルを一着で駆け抜けていった。
タイムは一分三十五秒二、最後の二〇〇メートルは十一秒九。
これなら、一着も充分に狙える。
僕は少しずつロッキーを減速させ、クールダウンを兼ねて馬場の外を歩かせる。そうして調教スタンドまで戻り、ロッキーを清水さんに預けた。
「すごいな、ロッキー。この間の追切より〇・五秒も縮まっとるで」
調教スタンドで下馬した直後、難波さんが僕にそんなことを言う。まるで子どもがスポーツカーを前にして、はしゃいでいるかのような言い方だった。
「やっぱり、ロッキーは周りに複数頭いた方が速く走れるみたいだな」と、神さんは鞭を脇に挟んで、手袋を脱ぎながらそう言った。
「俺の読みは間違ってなかったわけだ」と、神さんはにっと笑う。それを聞いて、僕は自分のことのように嬉しくなって、心がじんわりとぽかぽかしてくるのを感じた。同時に、やはりロッキーは他の馬とは違うものを持っているということを確信した。
でも、ロッキーが褒められて一番喜ぶはずの清水さんが、どこか浮かない顔をしていた。
そういえば、ロッキーが調教スタンドに戻ってからというもの、清水さんはずっとロッキーの左前脚を気にしている。おそらく僕よりも先にそれに気付いていたでだろう安さんが清水さんにこう尋ねる。
「どうしたの、何かあった?」
「いえ、その……」と、清水さんは一度言葉に詰まってから、僕にこんなことを尋ねてきた。
「矢吹さん、ロッキーに乗ってるとき、何か違和感はありませんでした?」
突然そんなことを聞かれ、僕は思わず「え」という声を漏らした。
「いや、いつも通りだったけど」
僕がそう言うと、清水さんは「そうですか」と呟き、さらに深刻な顔になった。その様子を見ていたのか、神さんがロッキーの左側に近付きながら、清水さんに尋ねる。
「故障か?」
「分かりません」と、清水さんは言う。「ただ、何かいつもよりロッキーの歩き方が鈍い感じがして」
「ちょっと見せてくれ」と、神さんはロッキーの前にかがみ、茶目っ気を全く感じない低い声で言う。清水さんはリードをしっかり持ち、ロッキーが暴れないようにしていた。しかしロッキーは、こんな時でも大人しく神さんに左前脚を見せている。
永遠かと錯覚するような十数秒が、重苦しい雰囲気をまといながら流れていく。
やがて神さんはゆっくりと立ち上がりながら、「診察してもらおう」と呟いた。「もしかしたら、骨が折れているかもしれない」
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