1-9

〈あの人〉が、僕の上に馬乗りになっている。

 僕はそれに抵抗することができなかった。そしてそれは、僕が何歳になっても変わらなかったし、おそらくこの先も変わらないだろう。一六〇センチしかない僕の身体では、どうやっても〈あの人〉に体格で勝ることはない。

 突然、身体に激しい衝撃を感じた。

 直後に左腕の皮膚が切れて、少しずつ赤くなっていくのを感じる。それが痛みであることを感じるまでに、若干の差があった。そしてそうだと分かった瞬間、皮膚から肉へ、ナイフのような痛みが神経を通っていく。僕はその痛みを、何度となく経験してきた。

 でも、何度受けてもこの痛みには慣れない。

 そんなことなど知るはずもない〈あの人〉は、右手に持った細長く黒い、よくしなっている棒を真上に振り上げ、僕めがけて一気に振り下ろしてきた。直後、今度は頬の辺りがあの衝撃と痛みに襲われる。抵抗したくても、脚の付け根に体重をかけられ、両腕を抑えられた今の状態では、文字通り手も足も出せなかった。

「この不孝者が」と、〈あの人〉は叫ぶ。「中央のジョッキーになりてえだと? ふざけんな。てめえは俺のなけなしの金を、自分に払ってほしいって言いてえのか。出来損ないも大概にしろ」

 そう言うと〈あの人〉は、さらに僕へ衝撃と痛みを与えていく。空気をつんざく鋭い音が、四畳半の中で行く宛てもなく響いていた。

 突然、右側から聞き馴染みのあるアラームの音が聞こえてきた。同時に、今まで目の前に広がっていた景色が一瞬で消え去り、代わりに瞼の裏側が映し出される。僕は手探りで枕元のスマートフォンを手に取ると、その暗闇の世界を無理やりこじ開け、あるかも分からないほどのわずかな光を視界に取り入れてから、ようやくアラームを止めた。

 夢か。

「最悪の寝覚めじゃん」と、僕は頭を搔きながら独り言を呟いた。さっき開いたスマートフォンの画面をもう一度開き、日付と時刻を確認する。

 四月六日火曜日、午前四時〇分。ほぼいつも通りの起床だった。

 僕は二、三回ほどあくびをしながら、寝起き直後の脳が動き出すのを待つ。五分くらい経って、ようやく完全に目が覚めたところで身体を上に伸ばし、ベッドから這い上がる。顔を洗い、歯を磨いてからデニムを履き、インナーの上から青と黒のジャンパーを着て、ファスナーを首元まで閉める。黒のキャップを被り、その後で僕はもう一度時刻を確認した。

 午前四時二十一分。今日は早めに準備できた。

 そして僕は若駒寮の自室から出て、調教のために厩舎へと向かう。まだ白み始めてもいない空の下、冷房のような強風が吹く中で、僕は自転車を走らせた。

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