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「おう、矢吹」と、ヨゾラの調教終わりに声をかけてきたのは難波なんばさんだった。ちょうど僕と同じタイミングで、ウシワカベンケイの調教が終わったようだ。難波さんはうちの厩舎の調教助手で、その週にレースがない馬の調教を神さんから任されている。

「そっちも調教終わり?」と、難波さんは僕に話しかける。

「そうですよ」と僕が答えると、「そっか、せやったら一緒に帰ろうや」と言って、ベンケイをヨゾラの隣に寄せる。そのまま僕は、難波さんと一緒に厩舎まで向かった。

「矢吹、この後はどうするん?」

「とりあえず、厩舎に戻ったら朝ごはんですかね。その後はもう一頭、他の厩舎からの騎乗依頼が来ているので、その子の調教したら、あとは神さんと今週のレースに関する打ち合わせです」

「相変わらず忙しいなあ」

「どうしても木曜は、レース前の準備日になりますからね」

「そんな忙しい時に、新入りが来るんやもんな」

「そういえば、新しい子が入厩するのって今日でしたっけ」

「その言い方は完全に忘れとったな?」

「う」という声を、僕は言葉に詰まった口から絞り出す。「はい、今週のレースのことで頭がいっぱいでした」

「まあ、そんくらいレースに集中できとるのはええことやん」と、難波さんは苦笑しながらそう言ってくれた。「お前の評判、えらいことなってるで。鞭使わんのに馬券に絡んでくる奴がおるって」

「いや、僕が単に忘れっぽいだけですよ。それに騎乗依頼だって、他の同期に比べたら少ない方ですから」

「まあ、どうしても一着を量産する奴ばっか注目される世界やからな」

 難波さんの言う通りだ。騎手は実力がなければ、馬主うまぬしから騎乗依頼を申し込まれることはない。実力者にはどんどん有力馬に騎乗する機会が増えていき、逆に実力を示せない者は、どんどん依頼がなくなっていく。

 実際、僕の同期にも、デビューから二週間で初勝利を収めたのが一人いる。そして騎手になって五年目の今年、あと少しで通算三〇〇勝というところまで来ていた。

 一方の僕は、ようやく通算一〇〇勝に手が届く範囲まで来た、というところだった。

「でも、だとしたら、何で神さんは僕なんかを勧誘してくれたんでしょうか」

 ふと僕は、そんな疑問を呟いていた。「せやなあ」と難波さんは考え込みながらそう言うと、少し経ってから再び言葉を紡ぎ始める。

「これは俺の推測やけど、神は矢吹にチャンスを与えたいんとちゃうかな。なかなか勝たれへん騎手にも、いろんな馬に乗せてやりたい思てるのかもしれん」

 そういえば、僕が以前の厩舎にいた時よりも、他の厩舎からの騎乗依頼が増えたような気がする。もしかしたら、僕が他の厩舎に呼びかけるのと同時に、神さんも僕のことを紹介してくれていたのだろうか。いや、それはさすがに考えすぎかもしれない。

「まあ、うちの厩舎は開業三年目なわけやし、信頼、実績ともに足らんことこの上ないけどな」と、難波さんは苦笑しながら言い加えた。「せやから矢吹、うちの厩舎の管理馬全五頭に乗せてもろてること、ありがたい思た方がええで」

「はい」と僕は返事をする。「よろしい」と、難波さんが笑顔でそんなことを言ってくれた。

 やがて厩舎に辿り着くと、清田さんとあんさんが待ってくれていた。安さんが僕らに手を振り、こちらまで駆け寄って来る。その後で清田さんが、ゆっくりと歩きながら近付いてきた。清田さんがヨゾラに、安さんがベンケイにそれぞれリードを付け、僕と難波さんはそのタイミングでそれぞれ下馬する。

「難波さん、何か楽しそうでしたね。何を話してたんですか」

 安さんが難波さんにそう尋ねた。

「いや、いろいろとな」と、難波さんは僕に視線を送る。「な?」とでも言いたげだった。僕はそれに対して、ぺこりと軽く頭を下げる。

「へえ、僕も聞きたかったなあ」と、安さんが羨ましそうにそう呟いた。

「矢吹との会話なんて、どうせつまんねえ内容なんだろ」と清田さんが言うと、安さんは清田さんに向けてこんなことを言った。

「そうやって決めつけるの、清田おじさんの悪い癖だよ」

「誰がおじさんだよ。お前と二歳しか変わらねえじゃねえか」

「中国だとおじさんは誉め言葉だよ」

「嘘を言うな」

「本当だよ」と、むきになる先輩をからかうように、安さんは清田さんに言う。「矢吹くんも覚えといた方がいいよ。中国だとお兄さんお姉さんより、おじさんおばさんって言った方が喜ばれるから。これ豆知識」

「はあ」と僕が曖昧な返事をすると、清田さんが仕返しとばかりに、安さんに突っかかってきた。

「何が『中国では』だ。ここ日本だぞ」

「我不知道你在说什么」

「おい日本語で話せこの野郎」

「僕、日本語分かりません」

「嘘を言うなお前」

 そんな漫才みたいな言葉の殴り合いをしながら、二人はどちらからともなく、ヨゾラとベンケイを馬房の方へと引いていく。難波さんは僕の後ろで、口を抑えながら笑いをこらえている。

「なんやかんやで、あの二人仲良しよな」と、難波さんは涙で潤んだ目をぬぐいながらそう言った。

 そういえば、普段は大股で歩くはずの清田さんが、安さんと同じ歩幅で歩いるように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。

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