1-2
まだ暖まりきらない朝の空気が、つんと鼻の奥を通り抜けていく。
最初に調教するのはアクアスプラッシュだ。午前六時の馬場開場とともに、僕らは北調教馬場に向かい、一八〇〇メートルのダートコース内に入る。そこを一周してこいというのが、
こうして馬に騎乗していると、僕はときどき、自分が風になったように感じることがある。馬が地面を蹴る蹄のリズム。前に出ようとする闘争心。呼吸と鼓動。馬体に宿る熱。時速六十キロメートル以上の馬上で、それらが
風になっているのは空気か、それとも僕たちか。
そうして一八〇〇メートルを走り終え、少しずつアクアの速度を落としてから、クールダウンを兼ねてダートコースの外を歩かせた。その後で僕は、アクアを厩舎まで帰らせる。そこに神さんと
「どうだ、アクアの調子は?」と、神さんは僕に尋ねる。
「悪くはない感じですね。立ち上がりも順調でしたし、上手く内に着いた回り方をしてくれたと思います。ただ……」
「距離か」と、神さんは言った。
「はい」と僕はそれに答える。「一八〇〇メートルはアクアには長いような気がします。最後の二〇〇メートルで、体力が急になくなったような走り方をしていましたから」
「なるほどな」と、神さんは呟く。「ちなみにだけど、現時点で矢吹はどういうレース展開にしようと思ってる?」
「一度仕掛けたら、後先考えずに突っ込んでしまうのがアクアだと思います。だから前走の時よりも脚を貯めて、ぎりぎりのタイミングで勝負に出ようかと」
僕がそう言うと、神さんは口元に微笑を浮かべながら「そっか」と呟いた。「まあ、そういうことなら俺も異論はない。矢吹の好きなように走らせてくれ」
「はい」と僕は返事をする。でも、本当に神さんはそれでいいのだろうか。
「どうかしたか」と、神さんは僕に尋ねる。もしかして、顔に出てしまっていただろうか。
「いえ、その、大したことじゃないんですが……」
「何でもいいよ。言ってみな」
神さんにそう言われ、少しだけ悩んだ末に、僕は思っていることを口に出した。
「その、神さんは僕にレース展開を全て任せていますけど、本当にそれでいいんですか。 僕なんて、この厩舎に移籍してからまだ一勝も出来てないんですよ? それに、僕なんかよりもそういうのが上手い騎手は、ごまんといると思いますけど」
僕がそう言うと、神さんは「ぶ」と噴き出してから、まるで何かに取り憑かれたかのように、ぷるぷると震えながら笑いをこらえ始めた。
「何で笑うんですか」
「いや、悪い悪い。そんなことかと思って」
そう言いながら、なおも神さんは笑いをこらえている。
何がそんなに面白かったんだろう。僕は真剣に言ったつもりだったのに。
「神さんが矢吹くんに期待してるからだよ」と、長谷川さんは大きくはきはきとした声でそんなことを言った。アクアはそんな長谷川さんの服の襟を、手持ち無沙汰に噛んで遊んでいる。
「僕にですか」と僕が尋ねると、長谷川さんはアクアを襟から離しながらこう言った。
「矢吹くん、一勝も出来てないとか言ってたけど、これまで六位以下になったことってほとんどないんだろ? しかも半分以上が三着以内。大したもんじゃねえか。それに、この厩舎に移籍してまだ一か月しか経ってないんだし、それでいきなり一着取れたら、それこそ天才か化け物のどっちかだよ」
すると、アクアはまた長谷川さんの襟を噛み始めた。「こらこら」と言いながらアクアを離そうとする長谷川さん。しかし、その表情はどこか嬉しそうだった。
神さんが、僕なんかに期待してくれている?
「まあ、そういうこった」と、こらえ笑いの呪縛から解き放たれた神さんが、改まって僕にそう言った。「そんくらいの実力を、お前は持っているんだよ」
そう言って、神さんは僕の肩を一回、ばしっと叩く。その瞬間、僕のもやもやとした根暗な思考が吹き飛び、一気に背筋がしゃんとする感覚がした。不思議と神さんには、そんな力があるような気がする。
「なあ、
「別に、俺はそんな風には思いませんけど」と、清田さんはヨゾラを撫でながらそう言った。
「そもそもそんなに一着を取りたいなら、
「清田、言いたいことは分かるけどな、少しは言い方ってもんを考えろ。何でもかんでも、思ったことをそのまま言えばいいってもんじゃねえ」
そう言って、長谷川さんは清田さんを諭すように叱りつける。いつも大きい声が、さらに大きくなって響いていた。清田さんは「ふん」と言って、長谷川さんにそっぽを向いてしまった。
「ごめんな、矢吹くん。あいつも悪気があって言った訳じゃねえんだ」
急に長谷川さんにそう言われ、僕は「いえ」としか返事が出来なかった。
「長谷川さんが謝る必要ないでしょ」と、清田さんがその後に言う。「それより矢吹、早くヨゾラに乗って」
「あ、はい」と言って、僕はヨゾラの左側に近付くと、神さんがすぐさま右手で僕の左足を持った。「せーの」の合図で神さんが僕の左足を持ち上げると同時に、僕は
「今日は坂路調教を二回だ。一二〇〇メートルきっちり走らせて来い」
「はい」と僕が言うと、清田さんがヨゾラのリードを放す。僕はそれに合わせて、ヨゾラを坂路調教コースまで歩かせた。
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