八話 楽しい人生(後半)
床も天井も見渡す限りの全てが真っ白で白以外が存在しない空間に。何が起きたのか見当がつかず、念のため記憶を掘り返しても、やはり転生者にとどめを刺そうとした時で途切れている。
成導騎士は後悔した。思えば奇妙な術を使う転生者だった。火を使うと思えば、神秘的な魔法を発動した。さっきのあれは魔力不足で失敗に終わったように見えたが、実は時間差で発動する魔法だったのかもしれない。どちらにせよ早く殺すべきだった。
——私は転生者の魔法によってここに誘われたのか?
仮説を立てた時、すぐに間違いだとわかった。
白の中からその人がやってきたからだ。成導騎士はその人にみとれた。その人にどこを切り取ってみても調和のとれた美があるからというだけでなく、幼い頃から会いたくて、でも会えない人物だったからだ。
——こんなところで会えるとは……。
成導騎士は期待に胸を膨らませた。
その人が笑った。
というよりも笑ったとしか成導騎士には表現できず、裏にあるはずの感情の一切を読み取れなかったのだ。なぜならその人が浮かべている笑顔は——。
成導騎士は時が止まったように微動だにしなくなった。剣を持つ右手から皺や眉の一つに至るまで何も動いていない。
バースは呆然自失として、異変に気づかなかった。ミカの死に頭が囚われ、成導騎士が剣を振ろうとしたことも、自分が奇妙な魔法を使っているのにも反応しなかった。
「ねぇ!どうしたの!? 何があったの!?ねぇ!」
何度も呼びかけられ、両肩を揺らされ、ようやく現実に意識が向いた。声の方に視線を向けると、隣にシオンがいた。その後ろに成導騎士が倒れている。もう一度、頬を緩めたまま動かなくなった、ミカの顔を見てからシオンに顔を合わせる。
「ミカが死んだんだ……」
言葉を口にして、やっと感情がせりあがってきた。目頭が熱くなり、涙が出る。シオンも最悪な事実に感情が追いつかないのか、何も言葉を発さず、ただ虚ろな目をミカに向けていた。
「そんな……、嘘だよ……なんで、そんな……」
シオンは両手で顔を覆い、小さく声を立てて泣いた。
「俺を庇って、どうしてこんな……」
起きたことを思い返そうとする度に、喪失感に置き去りにされた感情の波がやってくる。
海水の塩辛さに包まれながら、荒波に流されているように、感情の波は苦しく、辛く、そして彼にはどうにもならないものだった。
バースは友達の死に何度も直面しているが、慣れるなんてできそうにもなかった。
甘味が口に広がって、バースは自分が今、泣いているのだと気づいた。視界がにじみ、現実から目を背けたくなって目をつぶった。だからバースはシオンが死角から接近して、魔法を使ったことに気づかなかった。
バースの人生が書き換えられていく。
——鏡を見る。髪はなく、剝き出しの肌色に光が反射していた。レーザー療法の副作用で翔は髪を失ったのだ。信じたくなくて、何度も頭皮を撫でる。光が二つ、生まれた。光は翔の顔を滑り、よく磨かれたフローリングに落ちて溜まってゆく。翔は自分の情けない顔を見たくなくて、下を向いて、目を瞑った。
『ちょっとごめんね』
という声を掛けられると、瞼にざらざらとした感触が広がる。感触は瞼から頭へと移るとともに、翔が流していた涙が拭かれた。
『はい、もういいよ』
軽く締め付ける感触の後、翔が鏡を見ると、頭にタオルが巻かれていた。その風貌は漫画のキャラのようで、心が躍った。
『まるでヒーローみたいだよね、かっこいいでしょ、翔君』——
墺路地翔とバースの人生が新たなバースの人生へと書き換わっていく。
——朝目覚める時がバースにとって最悪の時間だった。身体の痛みが戻ってくる上、頭に主人の叫び声ががんがんと響くからだ。奴隷として物のように扱われてきたバースの全身にはいくつも傷があり、日夜を問わずに疼く。痛みを忘れられるのは眠っている時だけだ。
——もう俺、こき使われなくていいんだな……。
カーテンから射しこむ朝日が美しい。これも全て、昨日、主人から解放してくれた彼のおかげだ。隣のベッドに寝ている、白髪で童顔の少年、シオンの顔に日が当たり、彼の顔が一層美しく見えた——
病床で一生を過ごした墺路地翔と農夫として育ったバースの人生から、幼い頃から奴隷として苦しい生活を送らされてきたバースの人生へと。
——『普通に生きられるかもしれない。動けるかもしれない。そう思うだけで胸の苦しさも和らぐんだ。君だってそうでしょ。いつか二人であのおてんと様の下を自由に走り回ろうよ!』
次の朝、隣のベッドには誰もいなくなっていた。隣のベッドにまたがっている机には彼女の死を弔うかのように花瓶に挿した菊が置かれていた。暫くすれば、菊はまた撤去されるだろう——
楽しい思い出も、辛い思い出も、悲しい思い出も、全て。
——魔法陣から生まれた粒子がバースの全身を柔らかく包み、撫でると、身体の傷はたちまち癒えていった。シオンが回復魔法の使い手に高い金を払って依頼してくれたのだ。
「いいんですか……シオン様」
バースは善意に違和感があった。彼はこれまで、人生を悪意によってゆがめられてきたのだから。
「困ったときはお互い様だよ」
何も含むところのない笑顔に、気後れする。バースは無償の善意を受け取るのにも罪悪感に近いものを感じた。だから罪を贖うように決意した。シオンに自分の命に代えても恩を返すと——
全て、シオンによって都合よく改変されていく。
——病室で翔が参考書を開き、机に向かっていると、母が入ってきた。
『今日はどうしたんだ母さん』
母が翔を抱きしめると。翔の病衣が濡れた。
『愛してるからね……。私だけはずっと、愛してるからああああぁぁ……』
参考書と母が肩に提げていた鞄が床に落ちた。鞄の中から、父と母と翔が三人で写っている病室を背景にした家族写真がはみ出た——
森に入り、深い緑の内側にのまれていく。葉の隙間は暗闇が縫っている。今は夜なのだ。シオンはよく知った道を歩くように、迷いのない足取りで進む。バースがいなかったらどれだけ速く進めるのだろう。
シオンとバースの距離がそのまま自分たちの差を表現しているような気がしてならなかった。
——早く追いついて、恩を返したい。
シオンは、バースよりはるかに身体は小さいものの、バースが二十年以上逆らえなかった主人に立ち向かい、バースを解放できるほどの実力と勇気を持ち併せている。
バースは一歩でも早く追いつけるよう、シオンの足を鈍らせることのないよう、早足を意識して、シオンの後についていった。
意識が戻った時、バースはシオンの忠実なしもべと化していた。前世の記憶は消され、代わりに今まで生きてきた全ての時間を偽りの記憶に置き換えられたのだ。
バースは世間知らずの奴隷だったことになった。バースはこれからどんなに未知の世界に遭遇しても違和感を抱くことはないだろう。
シオンはミカの死体を前にして憐れむような表情を作っていた。
可哀そうな少女だ。突然、自分を成導騎士と名乗る者にバースとシオンは襲撃されて、たまたま彼女はこの場に居合わせ、巻き込まれたのだ。
新たな記憶ではそうなっているから、もう、涙を流しながら安らかな笑顔を浮かべている彼女に、バースの感情の流れを海が暴れるような勢いで引き起こすことはできない。
シオンはミカの死体を地面に埋めた。バースもそれを手伝った。成導騎士が使った魔法によって地面にはぽっかりと空いた穴がいくつもあったので、埋めるのにはあまり苦労しなかった。
シオンが墓石代わりに大きな石を置き、花を添えた。
——やはり、お優しい方だ。
見知らぬ少女のために墓を作り、弔ってやる。襲撃された後に、次の敵を恐れず、犠牲者を葬るなんて、バースにはできそうにもなかった。バースだったら少女のことはほっておいて、何も考えずに逃げてしまっただろう。シオンはバースよりも優しくて、強い。
「行こう」
しばらく目を瞑って墓に手を合わせた後、言った。
バースは墓石が不思議と濡れている気がして、視線を落としたが暗闇のせいでよく見えない。気のせいか、と納得し、バースはその場を後にした。
森を抜けて、平原に出るころには太陽はでかかっていた。橙色の光がシオンの顔を照らし、彼の満面の笑みをはっきりとバースは目でとらえた。
「何かいいことでもあったんですか、シオン様?」
バースが訊くと、シオンが笑みを深めた。
「今のぼくはね。身体も頭もぐちゃぐちゃなんだ。落ち込んでて、いらいらしてて、気持ち悪くて、でも楽しくてたまらない。そんな矛盾した感覚を味わってるんだ」
シオンはたまに変なことを言うことがある。バースは旅のなかでシオンのことがわかってきていた。
「これからぼくはもっとぐちゃぐちゃになる。多分、それが昔、ぼくがどうしても手が届かなかったものなんだろうな。でも今度は味わえる、楽しめる。期待で胸が膨らむよ」
恍惚とした表情で語るシオンにバースは困惑した。
「えっと、どうゆうことですか?」
「ううん、なんでもない。忘れて!」
シオンは子供が無邪気に走り回るように草原をかけていった。バースはあわててその後を走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます